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第16話 私の墓

中央配水所の水位計が安定域へ入っても、私の指先には痺れが残っていた。


 三本の水路を同時に繋いだ反動で、立ち上がると床がわずかに傾いて見える。私は分配槽の脇へ腰を下ろし、ラウルが差し出した水筒から二口だけ飲んだ。


 急いではいけない。


 王立聖廟区の真下にある水路終端と、奪われた脱出石の目印。その二つを捉えられても、今の私に地上まで門を開く力はない。


 ただし、光だけを通す小さな穴なら。


「観測を試したいです」


 私はバシュルと、監視を兼ねるミハルへ方法を説明した。


「水路の終端を地下側の目印に、脱出石を地上側の目印にします。開けるのは掌ほど。人も物も通せません。水圧が一目盛りでも落ちたら、すぐ閉じます」


 バシュルは分配槽から該当する枝水路だけを切り分け、異常時に閉じる弁へ手をかけた。ミハルは開始時刻と水圧を書き留める。


 フィアには、一定の間隔で石を鳴らしてもらうことにした。音の間隔を取り違えるほど意識が鈍ったら、それも中止の合図だ。


 ラウルは何も口出しせず、私が立ち上がれる距離にだけいた。


「始めます」


 水路を流れる魔力へ、細い境界感知を重ねた。


 地下側の終端。地上側の目印。


 二つの座標を縫い合わせる。ただし接続するのは空間そのものではない。向こう側から届く光と、目印の周囲にある表面の情報だけだ。


 分配槽の水面が丸く揺らぎ、その上に掌ほどの薄い像が浮かんだ。


 白亜の柱。整えられた石畳。王族と功労者の墓が並ぶ、王立聖廟区。


 像の向きを慎重に変えると、真新しい白大理石の墓が見えた。


 そこに刻まれていたのは、私の名前だった。


『リディア・フェルゼン』


 遺体のない、空の墓。


 墓碑の上部には、柔らかく微笑む私の横顔が浮き彫りにされていた。似ているのは顔の輪郭だけだ。こんな穏やかな笑みを浮かべて、私は死を受け入れたのではない。


 墓の周囲には、まだ瑞々しい白い花が幾束も供えられていた。子どもの字で「助けてくれてありがとう」と書かれた木札や、名もない家族からの短い祈りもある。


 この人たちは、地下で何が起きたかを知らない。王家に与えられた物語を信じ、存在しない最期へ心から涙を流したのだ。


 怒りを向けるべき相手まで、見失ってはいけない。


 墓前の祭壇には、灰色の外套と境界術師の銀徽章が飾られている。その中央で、追悼用の魔法灯へ繋がれ、淡い青白い光を放つ石があった。


 私の脱出石だ。


 その下の金属板には、『リディア・フェルゼンが最期に聖女マリエルへ託した、祈りの遺品』と記されていた。


「託してなんか、いない……」


 奪われたのだ。


 返してと叫ぶ私を、誰も助けなかった。


 フィアの石音が一定の間隔で届く。私は呼吸を整え、観測門を墓碑の正面へ向けた。


 金色の文字が並んでいる。


『国と民を愛し、自らを捧げた献身の聖女、リディア・フェルゼン。彼女は仲間と国民を救うため、自ら奈落へ残ることを選んだ。その強き魂は、最期まで笑顔を失わなかった』


 喉の奥が焼けるように痛んだ。


 私は選んでいない。


 泣いた。怯えた。死にたくないと叫んだ。門へ向かおうとして、婚約者に両腕を押さえられた。


 彼らが奪おうとしたのは、私の命だけではなかった。


 恐怖も、怒りも、生きたいという願いも消し去り、何をされても笑って受け入れる女へ、私の名を作り替えたのだ。


 墓の横には、王家公認の記録を収めた硝子張りの掲示台があった。


 エドガー・ヴァレン卿――婚約者の最期の言葉を民へ伝え、その遺志を背負う悲劇の騎士。


 聖女マリエル――リディアの祈りと遺品を受け継ぎ、追悼式に奇跡の光を灯した聖女。


 そして中央には、『遠征隊生還者共同証言書・王家認証謄本』が掲げられていた。


 私が自ら残ると申し出たこと。十三人へ「皆をお願い」と笑って告げたこと。その崇高な犠牲を、生還者全員が証言すること。


 文面の下には、十三人分の氏名、署名、印章が並んでいた。


 エドガー。マリエル。レオナード王太子。


 エドガーの筆跡は、何度も受け取った手紙で知っている。遠征が終わったら住む家のことを綴った手と同じ手が、私が笑って死を選んだという証言の下に、自分の名を書いていた。


 文字が滲んだのは観測門の揺らぎではない。私の目に涙が浮かんだからだ。私は一度だけ目元を拭い、もう一度すべての署名を見直した。


 誰一人として、私の拒絶を書き残してはいない。


 観測門の縁が、私の怒りに反応して大きく揺れた。


 この接続をもっと広げたい。墓碑も、笑っている私の顔も、奪われた石を飾る祭壇も、跡形もなく砕きたい。


 怒るなと、自分へ言い聞かせるつもりはなかった。この怒りまで美しい聖女の微笑みで覆わせはしない。


 けれど、どう使うかを決めるのは私だ。


 今ここで壊せば、王家は魔物の襲撃だと発表し、共同証言書を別の場所へ隠すだろう。警戒を強め、私が残した目印まで調べるかもしれない。


「ミハル。薄い鉱物紙を出してください」


 私は観測門を掌の大きさへ戻した。


「向こうから来る光と、刻まれた表面の凹凸を紙へ重ねます。複写した順番、時刻、水圧、それから私以外が原文へ触れていないことを記録して」


 ミハルが鉱物紙を一枚ずつ差し出した。


 最初に墓碑の正式な刻文と建立日。次に聖廟管理機関と王家の公印。脱出石を『託された遺品』とする説明板。


 最後に、共同証言書の文面と十三人分の署名、印章。


 観測門越しの光を細い線へ分け、文字と印影の輪郭を鉱物紙へ焼きつける。勝手に形を整えたと疑われないよう、一枚ごとにミハルが原文と複写を照合し、通し番号と確認印を加えた。


 これだけで、彼らが私を置き去りにしたことまでは証明できない。


 証明できるのは、十三人がどの物語へ署名し、王家が何を公式な事実として公表したかだ。


 だからこそ、六十年前の記録板や、これから調べる記憶庫の記録と照合する意味がある。


 最後の印章を写し終えた時、フィアの石音が一度だけ乱れた。


 私の集中も限界に近い。観測門を閉じようとして、聖廟入口の脇に立つ予定札が視界へ入った。


 私は残った力で像の向きをわずかにずらす。


『明朝第一鐘 エドガー・ヴァレン卿、私的参拝のため一時閉門』


 ミハルが読み終えたことを確認し、私は境界を切った。


 白い墓も、微笑む私の顔も消え、あとには地下の水面だけが残った。


 ミハルは複写した鉱物紙を順番に重ね、私とバシュルの前で封印袋へ収めた。原本を見た者、複写した者、保管する者を分けるため、封印袋は記録所へ、同じ内容の控えは私へ渡される。


 私は自分の控えを腰の記録板と一緒に結びつけた。六十年前の嘘と、今作られた嘘が、初めて同じ場所に並んだ。


 明日の朝。


 エドガーは、私が眠ることにされた墓へ、一人で来る。

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