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不穏回

昼休み。


校舎の端にある男子トイレ。


人の気配はない。


窓から差し込む光も薄く、廊下の喧騒が遠く聞こえるだけだった。


その中で。


二人の男子が、手を洗いながら話していた。


「なあ」


「ん?」


「海人ってさ」


「……ああ」


名前が出た瞬間。


二人の間に、少しだけ妙な空気が流れた。


「昔、この学校にいた奴だろ」


「そう」


「なんで転校したんだっけ?」


「知らねぇの?」


「知らない」


「俺も詳しくは知らないけど」


男子は蛇口を閉める。


「なんか、事故があったんだろ」


「事故?」


「そう」


「海人が起こしたの?」


「……たぶん」


「たぶんってなんだよ」


「いや、俺も聞いた話だから」


「誰から?」


「兄貴」


「兄貴?」


「ああ。兄貴が昔、この学校に通ってたんだよ」


「へえ」


男子は、少し声を落とした。


「海人ってさ」


「……」


「昔、女の子とよく一緒にいたらしい」


「女の子?」


「ああ」


「彼女?」


「知らねぇ」


「でも、いつも一緒だったって?」


「そうらしい」


「幼馴染とか?」


「たぶん」


「ふーん」


男子は少し考える。


「で、その女の子が事故に遭った?」


「……」


「違うの?」


「いや」


男子は。


少しだけ間を置いて。


「海人が巻き込まれた事故だったらしい」


「……」


「雪の日だったって」


「雪?」


「ああ」


「それで?」


「……」


男子は。


しばらく黙っていた。


「その女の子がさ」


「……うん」


「海人を庇ったらしい」


「……え?」


「車が突っ込んできて」


「……」


「海人を押し飛ばして」


「……」


「その女の子が――」


男子は。


そこで一度。


言葉を止めた。


「……どうした?」


「いや」


「何?」


「その後の話が、よくわからないんだよ」


「……」


「事故のあと」


「うん」


「その女の子……」


「……」


「どうなったの?」


「……」


「おい」


「……わからない」


「は?」


「だから、わからないって」


「いやいや」


「兄貴も、そこまでは知らないって言ってた」


「じゃあ、死んだとか?」


「……」


「おい」


「知らねぇよ」


「でもさ」


男子は。


少しだけ笑った。


「海人だけ無傷だったんだろ?」


「……」


「女の子が庇ったんだから」


「たぶん」


「じゃあ、女の子は?」


「だから知らねぇって」


「……」


「事故のあと、海人は学校に来なくなったらしい」


「なんで?」


「知らない」


「でも、転校したんだろ?」


「ああ」


「事故のせい?」


「……たぶんな」


「ふーん」


男子は。


腕を組む。


「なんか変じゃね?」


「何が?」


「だってさ」


「……」


「海人が事故に遭って」


「……」


「女の子が海人を庇って」


「……」


「そのあと、海人が転校」


「……」


「なんか、海人が悪いことしたみたいじゃん」


「……」


「そう思わね?」


「……」


「おい?」


「……まあ」


「だよな」


男子が笑う。


「学校から追い出されたって話もあるし」


「それ、転校しただけじゃねぇの?」


「知らねぇよ」


「じゃあ、追い出されたってのも嘘かもしれないじゃん」


「でも」


男子は。


声を低くする。


「事故のあとに転校したのは本当なんだろ?」


「……」


「だったら、なんかあったんじゃね?」


「……」


「海人が」


「……」


「その女の子に――」


男子が言いかける。


「……何したんだろうな」


「……」


一瞬。


トイレが静かになる。


「……さあ」


もう一人の男子が答える。


「でも」


「……」


「海人って、昔から結構嫌われてたらしいぞ」


「マジ?」


「うん」


「なんで?」


「知らない」


「また知らないかよ」


「俺が知るわけねぇだろ」


「じゃあ、なんで嫌われてたんだよ」


「……」


「……」


「女の子関係じゃね?」


「……ああ」


「チャラかったって聞いた」


「へえ」


「女の子に手出して」


「……」


「それで事故起こして」


「……」


「その子が――」


男子は。


また。


言葉を止めた。


「……」


「なんだよ」


「いや」


「最後まで言えよ」


「……」


男子は。


少しだけ嫌そうな顔をする。


「その子が」


「……」


「海人を庇って」


「……」


「事故に遭った」


「……」


「それで」


「……」


「記憶を――」


「……」


「……」


「何?」


「……いや」


「おい」


「……忘れたらしい」


「……」


「記憶を失ったって」


「……マジ?」


「ああ」


「……」


「だから」


男子は。


ぽつりと言った。


「その女の子」


「……」


「海人のこと、覚えてないらしい」


「……」


二人の間に。


また。


沈黙が落ちる。


「……じゃあ」


もう一人の男子が。


小さな声で言う。


「海人だけが覚えてるってこと?」


「……たぶん」


「……」


「……」


「なんか」


「……」


「怖くね?」


「……」


「自分は忘れてるのに」


「……」


「相手だけ覚えてるって」


「……」


「……」


「でもさ」


男子が。


ふと笑った。


「海人って」


「……」


「その子のこと」


「……」


「今でも好きなのかな」


「……知らねぇよ」


「いや」


「……」


「もしそうだったらさ」


「……」


「めちゃくちゃ重くね?」


「……」


「相手は自分を忘れてるのに」


「……」


「自分だけずっと覚えてるんだぜ?」


「……」


「……」


「気持ち悪いな」


「……」


その言葉が。


静かなトイレに落ちた。


「……」


「……」


誰もいない。


ただ。


二人の声だけが。


そこに残っている。


「……まあ」


一人が。


最後に呟く。


「もう海人はいないんだろ?」


「……転校したからな」


「じゃあ」


「……」


「今さらどうでもいいだろ」


「……」


「事故のことも」


「……」


「その女の子のことも」


「……」


「海人のことも」


「……」


蛇口から。


水が一滴。


落ちた。


ぽたん。


「……」


男子たちは。


何事もなかったように。


トイレを出ていった。


誰もいない。


静かなトイレ。


そこには。


誰も知らない過去の話だけが。


不気味な余韻を残していた。

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