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第6話「潜水――あるいは、五分間の絶対領域について」

 朝。


 レオ・ヴァルハルトは、背負い袋の中身を確認していた。


 二十三個の完璧な立方体。ウォンバットが残した「大地の結晶」。


 一つ一つを手に取り、欠けがないかを確かめ、丁寧に布で包み直す。


 その所作は、聖職者が聖遺物を扱うそれと完全に一致していた。


「……よし。全て無事だ」


「ねぇ」


 キウィが、三メートルほど離れた木の枝から言った。


 いつもよりレオから距離を取っている。


「それ、シンプルに臭いんだけど」


「何がだ」


「袋。お前の背中の袋。デバフだよ。嗅覚麻痺の継続ダメージだよ。半径三メートル以内に入りたくない」


「失敬な。これは大地のマナが凝縮された香りだ。鼻腔を抜けるこの感覚……」


 レオは深く息を吸った。


「……整うわぁ」


「整ってない。壊れてる」


「整ってる」


「鼻が壊れてるの」


 ※レオ・ヴァルハルトの嗅覚は、二十三個のウォンバットの糞を密閉した背負い袋を一晩抱えて寝たことにより、正常な閾値を逸脱している。サウナの「整い」とウォンバットの糞の悪臭を混同するに至った経緯については、医学的な説明を控える。


 ゴートは特に匂いを気にしていなかった。


 カピバラの嗅覚は鋭いが、野生環境において「糞の匂い」は日常の一部である。反応するほどのものではない。


 ただ一つ、変化があった。


 ゴートの歩行速度が、わずかに速くなっていた。


「キウィ。ゴート様の様子がいつもと違わないか」


「うん。少し急いでる」


「何か感じ取っているのか」


「たぶん――水の匂いだね」


「水?」


「カピバラは半水棲動物だよ。水辺が近いと、本能的にテンションが上がる」


 レオの脳内に、マックスの記憶が蘇った。


 散歩中に川を見つけた瞬間、リードを引きちぎらんばかりの勢いで突進していくゴールデンレトリバー。


「……犬が水を見た時と同じか」


「似てるけど、カピバラの方がもっと本能的。彼らにとって水は、安全な場所。天敵から逃げる場所。リラックスする場所。つまり――」


「……つまり?」


「水を見たら、止められないよ」



   ◇



 峡谷を抜けた先に広がっていたのは、沼地だった。


 だが、「沼地」という言葉では表現しきれない。


 どす黒い水面が、地平線まで広がっている。水面からは紫色の霧――瘴気が立ち上り、周囲の空気を歪ませている。


 沼の縁に生えていた草木が、瘴気に触れて枯れ、黒く炭化して崩れ落ちた。


「……死の沼だ」


 レオは、この沼の名を知っていた。


 「腐蝕沼アケロン」。暗黒大陸で最も危険な地形の一つ。水面に触れた生物は全身の魔力を腐蝕され、五秒で意識を失い、十秒で絶命すると言われる禁忌の領域。


 迂回するには三日かかる。


 渡るには――方法がない。


「ゴート様。ここは危険です。迂回ル――」


 レオの声が、途切れた。


 ゴートが、走り始めていた。


 モソモソではなかった。


 全力疾走。


 時速50キロ。


 80キロの体が、地面を蹴って、沼に向かって突進している。


「待てェェェェ!!」


 レオの絶叫は、ゴートの耳に届かなかった。


 正確には、届いていたが無視された。


 ゴートの耳は「水の匂い」以外の情報を受け付けていなかった。


 水。


 水だ。


 大量の水。


 入りたい。


 今すぐ入りたい。


 本能が、理性を凌駕していた。


 ※カピバラにとって水は生存の基盤であり、水辺を見つけた際の興奮は「食事」「睡眠」に並ぶ三大欲求の発動である。止める方法はない。


「そこは『毒沼』だぞ!! 回復アイテム間に合わねーよ!! UIに毒アイコンが100個くらい並ぶぞ!!」


 レオは走った。全力で走った。


 だが、人間の足で時速50キロのカピバラには追いつけない。


 ゴートが、沼の縁に達した。


 そのまま、飛び込んだ。


 ドボン。


 静かな水音。


 ゴートの巨体が、どす黒い沼の中に消えていった。


 瘴気の紫の霧が、一瞬だけ渦を巻いた。


「ゴートさまァァァァ!!」


 レオは沼の縁で膝をついた。


 水面に手を伸ばしかけて、寸前で止まる。触れたら死ぬ。わかっている。だが、ゴートが――


「落ち着いて」


 キウィの声が、頭上から降ってきた。


「落ち着けるか!!」


「五分待って」


「五分!? 五秒で死ぬんだぞこの沼は!」


「人間はね。カピバラは違う」


 レオは、涙目でキウィを見上げた。


「……どういう意味だ」


 キウィは、冷静に、だが少しだけ楽しそうに言った。


「カピバラは半水棲動物。耳と鼻のバルブを閉じて、最長五分間の完全潜水が可能。しかも、全身の体毛は特殊な皮脂で覆われていて、水を弾く。瘴気が皮膚に直接触れない可能性がある」


「可能性!? 可能性でゴート様の命を賭けるのか!?」


「賭けたのはゴートの方だよ。あの方は、自分の体が水に適応していることを、本能で知っている。人間には毒でも、カピバラには――ただの水かもしれない」


 レオは沼の水面を見つめた。


 どす黒い水は、静まり返っていた。


 ゴートの姿は、どこにもない。



   ◇



 沼の底。


 暗い。


 冷たい。


 視界はゼロに等しい。


 だが、ゴートは一切困っていなかった。


 カピバラの潜水時、全身の感覚器官は「水中モード」に切り替わる。


 耳は閉じ、鼻は閉じ、目は半透明の第三眼瞼――瞬膜で覆われる。


 代わりに機能するのは、顔面に密集する剛毛――洞毛だ。


 水流の微細な変化を感知するセンサー。暗闇の中でも、周囲の地形と動体を正確に把握できる。


 ゴートにとって、水中は「見える」場所だった。


 目ではなく、顔で。


 ゴートは、沼の底をゆっくりと泳いでいた。


 水中での移動は、陸上とは異なる。四肢を犬かきのように動かし、太い尾で方向を制御する。


 速度は遅い。だが、80キロの体が水中を進む時、それは一つの「質量」になる。


 その質量が、最初の「何か」にぶつかった。


 鱗。


 冷たい、硬い鱗。


 人型の輪郭。


 リザードマンだった。



   ◇



 魔王軍・水中隠密部隊「アクア・スネーク」。


 リザードマン種で構成された、瘴気への完全耐性を持つ特殊部隊。


 腐蝕沼アケロンの底に潜み、獲物が沼を迂回する際の隘路で待ち伏せする。


 今回の任務は、暴食の魔獣の討伐。


 部隊長・ガザルは、沼の底で静かに待機していた。


「……まだか。奴はこの沼を迂回するはずだ。迂回路の出口で仕留める」


 副官が水中の手話で答えた。


『隊長。何かが沼に入りました』


『何? この瘴気の中に? 自殺志願者か?』


『不明。大きな……生物のようです。こちらに向かっています』


 ガザルは目を細めた。


 沼の瘴気の中を、何かが泳いでくる。


 大きい。


 形状は――丸い。


 四肢を動かし、ゆっくりと、しかし確実に近づいてくる。


 ガザルは待った。


 水中戦はリザードマンの独壇場だ。どんな魔獣が来ようと、この瘴気の中で自分たちに勝てる生物はいない。


 そう確信していた。


 巨大な影が、ガザルの正面に達した。


 視認できる距離まで近づいた時、ガザルはそれを見た。


 丸い体。短い四肢。半開きの目。


 表情は、虚無。


 完璧な虚無。


 瘴気の中を泳いでいるというのに、苦痛の欠片もない。焦りもない。恐怖もない。


 ただ、泳いでいる。


 気持ちよさそうに。


 ガザルは、生まれて初めて水中で混乱した。


『……な、何だあれは。瘴気の中を……平然と……?』


 その時、ゴートの進路がガザルの方向に向いた。


 泳いでいるだけだ。ガザルを認識しているかどうかすら怪しい。


 だが、80キロの質量が水中を進む時、その周囲には強力な水流が発生する。


 ゴートの体が、ガザルの横を通過した。


 水流がガザルを捉えた。


『ぐ――ッ!?』


 押された。


 ガザルの体が、水流に巻き込まれて回転した。


 ゴートは気づいていない。ただ泳いでいるだけだ。


 だが、80キロの体が生む水流は、人型のリザードマンを容易に弾き飛ばす。


 ゴートが部隊の中を泳ぎ抜けていく。


 一匹目のリザードマンが回転した。


 二匹目が壁に叩きつけられた。


 三匹目が沼の底の泥に埋まった。


 四匹目と五匹目が互いに衝突した。


 ゴートは泳ぎ続けた。気持ちよさそうに。


 「アクア・スネーク」十二名は、戦闘が始まる前に全員が「水流」で無力化された。



   ◇



 沼の上。


 レオは、水面を凝視していた。


 腕時計はない。だが、体内時計で数えている。


 一分。


 二分。


 三分。


「キウィ。もう三分だ」


「うん」


「あと二分で――」


「死なないよ。たぶん」


「たぶん!」


 四分。


 水面に、変化が起きた。


 どす黒い水が、ある一点を中心にして波紋を広げている。


 何かが、浮上してくる。


 レオは身構えた。


 水面を割って現れたのは、丸い頭だった。


 耳。鼻。そして、半開きの目。


 ゴートが、浮上した。


 水面に顔だけを出し、目だけを水の上に出す。カピバラ特有の「潜望鏡スタイル」。


 瘴気はゴートの体毛に一切付着していなかった。


 カピバラの皮脂腺は「セバシアス・セクレション」と呼ばれる特殊な油脂を分泌し、体毛全体を撥水性の膜で覆う。水中の不純物――この場合は瘴気――が皮膚に直接触れることを防ぐ、天然のバリアだ。


 ゴートは無傷だった。


 というか、明らかにリラックスしていた。


「ぬ」


 それは、レオがこの旅で聞いた中で、最も満足げな「ぬ」だった。


「ゴート様ァァァ!!」


 レオは叫んだ。安堵と感動と、少しの怒りが混ざった絶叫だった。


「ご無事で……! ご無事でしたか……!」


「ぬ」


「五分間、地獄でした!! 俺の心臓が三回止まりました!!」


「三回は止まってないよ」


「体感三回だ!」


 レオは沼の縁にへたり込んだ。


 ゴートは水面にぷかぷかと浮いていた。目だけが水面から出ている。その目は、半開きのまま、どこか遠くを見ていた。


「……あの沼の中で何があった?」


「何もなかったんじゃない? あの方にとっては、ただの入浴だよ」


「入浴って……禁忌の死の沼だぞ」


「カピバラにとっては温泉みたいなものかもね」


 レオは天を仰いだ。


 禁忌の死の沼が、カピバラの風呂。


 もう何も驚かないと思っていたが、まだ驚けた。


 人間の適応力は、意外と高い。



   ◇



 ゴートは沼から上がると、ブルブルと全身を震わせて水を弾き飛ばした。


 犬と同じ動きだ。レオの脳内で、またマックスの記憶が重なった。


 だが、レオが注目したのは、ゴートの体から飛び散った水の色だった。


 透明。


 どす黒い瘴気の沼に浸かっていたはずのゴートの体毛から飛ぶ水は、完全に透明だった。


「……瘴気が、浄化されている?」


 レオの騎士脳が動いた。


「ゴート様の体毛が……瘴気を浄化した……? いや、正確には、体毛の間に閉じ込めた空気が、水中で泡となって放出された際に、周囲の瘴気を中和したのか……!?」


 キウィは何も言わなかった。


 実際には、カピバラの撥水性皮脂が瘴気を弾いているだけで、浄化などしていない。ゴートの体に付いた水が透明なのは、瘴気がそもそも付着していないからだ。


 だが、レオにはそう見えなかった。


「五分間の完全潜水……。耳と鼻のバルブを閉鎖し、高圧潜水モードに移行。水中では洞毛センサーによる全方位探知を展開し、さらに体毛から放出される気泡で周囲の毒素を浄化する……」


 レオの目が、光った。


「これが……『絶対領域』か。水中五分間、ゴート様の周囲は完全なる安全圏。毒も敵も通じない、神の結界……!」


 キウィは、もう訂正しなかった。


 訂正しても無駄だということは、五話もあれば学習する。



   ◇



 レオが感動に打ち震えている間に、沼の向こう岸から、いくつかの影が這い上がってきた。


 リザードマン。


 ボロボロだった。


 鱗は剥がれ、体中に打撲傷がある。目は虚ろ。


 「アクア・スネーク」の残党だった。


 部隊長ガザルが、泥の中から上半身を起こし、空を仰いだ。


「……何が起きた」


 副官が、泥の中から答えた。


「報告します。敵は……泳いだだけです」


「泳いだだけ」


「はい。ただ泳いだだけで、我々は全員吹き飛ばされました。攻撃は一切受けていません。ただ……水流に巻き込まれました」


「…………」


 ガザルは、沼の水面を見た。


 ぷかぷかと浮いている丸い茶色の生物が見えた。目だけ水面から出して、気持ちよさそうにしている。


「……あれが、暴食の魔獣か」


「はい」


「我々の『ホーム』で、あの態度か」


「……はい」


「…………」


 ガザルは沼から完全に上がり、自分の武器を確認した。


 毒塗りの三叉槍。リザードマンの誇り。


 折れていた。


 ゴートの体が通過した際の水流で、柄の部分がへし折れたらしい。


「……撤退だ。本隊に報告する」


「報告書に何と書きますか」


「『敵は泳いだ。我々は負けた。以上』」


「……中身が薄すぎませんか」


「これ以上何を書けと言うんだ。『敵の入浴に巻き込まれて全滅しました』とでも書くか?」


「…………」


「書くなよ。絶対に書くなよ」



   ◇



 ゴートは、十五分ほど沼で浮いていた。


 時々潜り、時々浮き、水面に鼻先だけ出してぷかぷかする。


 レオはその間、沼の縁で正座して待っていた。


 「ゴート様の入浴をお待ちする飼育係」の図。


 キウィがその姿を見て言った。


「本当に犬の散歩だね、これ」


「犬の散歩じゃない。聖なる沐浴の儀を見守る巡礼者の務めだ」


「そう……」


 やがて、ゴートが沼から上がった。


 最後のブルブルを一回。


 そして、口を開けた。


 何かを咥えていた。


 沼の底から、何かを持ってきたのだ。


 レオは、ゴートの口元に近づいた。


「ゴート様、何を……」


 ゴートがそれを地面に吐き出した。


 ガチャン、と軽い金属音。


 地面に落ちたそれは、長方形の板だった。


 金属製。薄い。角が丸い。


 表面は泥と瘴気で汚れていたが、レオが袖で拭うと、色が現れた。


 緑。


 蛍光色の、鮮やかな緑。


 そして、白い図柄。


 走っている人のシルエット。その先に、扉のシルエット。


 そしてその下に、文字。


 レオには読めない文字が、二つ。


「……何だ、これは」


 レオは板を裏返した。表も裏も同じ図柄。走る人、扉、読めない文字。


「キウィ。この記号、読めるか」


 キウィは板を覗き込んだ。


 数秒、沈黙した。


 いつも即答するキウィが、沈黙した。


「……キウィ?」


「…………」


 キウィの目が、わずかに見開かれていた。


 驚き、ではない。


 もっと深い、もっと古い何かが、キウィの目の奥で揺れていた。


「……読めるの?」


「…………」


「キウィ」


「……いや。読めない」


 嘘だ、とレオは思った。


 だが、追及する前に、キウィは飛び立って、いつもの木の枝に戻ってしまった。


 レオは板を見つめた。


 蛍光緑の板。走る人。扉。読めない文字。


 この暗黒大陸には、あり得ないもの。


 魔法の産物でもない。鉱石でもない。古代文明の遺物とも違う。


 それは、もっと「別の場所」から来たもののように見えた。


「……ゴート様」


 レオは、ゴートに問いかけた。


「なぜ、この大陸の底に、『これ』があるんですか」


 ゴートは答えなかった。


 半開きの目で、どこか遠くを見ていた。


 いつもの虚無――だと、レオは思った。


 だがキウィだけは見ていた。


 ゴートの瞳の奥で、ほんの一瞬だけ、虚無ではない何かが揺れたことを。



第6話「潜水――あるいは、五分間の絶対領域について」


――終――



【次回予告】


「……動かない。三時間、瞬き一つしていないだと!?」


「ハシビロコウ。動かずに獲物を待つ怪鳥だよ」


「嘘だ! あの眼光……周囲の時間軸を固定して、因果を観測している! 奴は『時の番人』か何かか!?」


「ぬ」


「ゴート様! 無防備に近づいちゃダメだ! ……あ、間違えてアゴ撫でちゃった。……あ、ゴート様が溶けた!?」


次回、『絶望の暗黒大陸で、俺だけがカピバラ(時速50km)に乗っている』


第7話「静止――あるいは、時を止める眼光について」


――神、アゴを撫でられてフリーズする。

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