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第5話「立方体の絶望――あるいは、不落の移動要塞について」

 レオ・ヴァルハルトは、考えていた。


 ゴートの背中に揺られながら。犬の抜け毛クッションの上で。モソ……モソ……という歩行のリズムに身を委ねながら。


 考えていた。


 あの瞳のことを。


 数千のミーアキャットが、最後の一瞬だけ、レオを見た。


 あの黒い瞳に浮かんでいたもの。


 憐れみ。


 なぜだ。


 なぜ俺だけが、あんな目で見られた。


 ゴートは見られなかった。キウィも見られなかった。


 レオだけだ。


「……なぜだ」


 呟きが、口から漏れた。


「俺のステータスに『余命』とか『呪い』の隠しフラグでもあるのか? それとも、何か……俺だけに見えていないデバフが、かかっているのか?」


 キウィが頭上から言った。


「まだ気にしてるの」


「気にならないのか」


「ミーアキャットの気まぐれだよ。たまたま目が合っただけ」


「あれは『たまたま』の目じゃなかった」


「……まあ、あなたがそう思うなら」


 キウィは、それ以上何も言わなかった。


 レオは、考え続けた。


 答えは出なかった。


 だが、一つだけ確かなことがあった。


 ゴートの背中の上にいる限り、レオは安全だ。


 この不条理な旅の中で、唯一変わらないもの。


 ゴートの虚無。


 それだけが、レオの心をつなぎ止めている。


 ※これは「依存」である。健全な関係とは言い難い。だが、世界が滅んだ男にとって、縋るものがカピバラしかないのであれば、それはそれで仕方がない。



   ◇



 一行が入り込んだのは、峡谷だった。


 両側を切り立った岩壁に挟まれた、幅わずか五メートルほどの道。頭上は細い空がスリットのように覗いているだけで、日光はほとんど届かない。


 空気が湿っている。岩肌を苔が覆い、足元には水が滲んでいる。


「嫌な地形だ」


 レオは周囲を見回した。


「前後しか逃げられない。横も上もない。伏兵を置くには最適の場所だが、こっちが通るには最悪の場所だ」


「迂回する?」


「できるならしたいが、この峡谷を通らないと先に進めないらしい」


「誰がそう言ったの」


「地図に書いてあった。黒鉄城塞にあったやつ」


「敵の地図を信用するの」


「他に地図がない」


 キウィは黙った。正論だった。


 ゴートはいつも通りのペースで歩いていた。峡谷の狭さも暗さも気にしていない。カピバラは元来、密林や湿地帯の生物である。こういった閉所は、むしろ本来の生息環境に近い。


 十分ほど進んだ時、ゴートが足を止めた。


「……ゴート様?」


 レオは前方を見た。


 道の真ん中に、何かがいた。


 巨大な、岩のような、茶色い塊。


 最初、レオはそれを岩だと思った。苔むした丸い岩が、道を塞いでいるのだと。


 だが、岩は呼吸しない。


 その茶色い塊は、ゆっくりと、規則的に、膨らんだり縮んだりしていた。


「……生き物、か」


 レオは剣の柄に手を置いた。


 塊がわずかに動いた。


 丸い頭が持ち上がる。小さな耳。潰れたような鼻。つぶらな、どこか間の抜けた目。


 体長は2メートルほど。ゴートより一回り大きい。ずんぐりとした体は、地面にぴったりと張り付くように座っている。短い四肢は太く、爪は長く、明らかに穴を掘るために設計されたフォルムだった。


「キウィ。あれは何だ」


「ウォンバット」


「ウォンバット」


「有袋類。穴を掘って暮らす動物。基本的におとなしい」


「サイズがおとなしくないんだが」


「この大陸の動物は全部デカいでしょ。もう慣れなよ」


 慣れたくなかった。


 ウォンバットは、レオたちをぼんやりと見つめていた。


 敵意はない。好意もない。ミーアキャットのような観察の鋭さもない。


 ただ、「道の真ん中にいる」。


 それだけだった。


「……どいてくれないか」


 レオはウォンバットに声をかけた。


 ウォンバットは動かなかった。


「頼むから、どいてくれ」


 動かない。


「この道を通りたいんだ」


 動かない。


 ゴートが、ウォンバットに近づいた。


 二匹の齧歯類――いや、ゴートは齧歯類でウォンバットは有袋類だ――二匹の「ずんぐりした生物」が、峡谷の真ん中で対面した。


 ゴートがウォンバットを見た。


 ウォンバットがゴートを見た。


「ぬ」


「……ンブ」


 何かが通じ合ったのか、通じ合っていないのか。


 二匹は、ただ互いを見つめていた。


 キウィが翻訳した。


「『ぬ(お前、硬そうだな)』」


「そして向こうは?」


「……わからない。ウォンバット語は専門外」


「お前、翻訳できないやつもいるのか」


「万能じゃないよ。ゴートの言葉がわかるだけでも奇跡なんだから」



   ◇



 膠着状態は、外部からの介入によって打ち破られた。


 峡谷の入り口から、地鳴りが聞こえてきた。


 レオは振り返った。


 峡谷の彼方、入り口の方角から、砂塵が立ち上っている。


 そしてその砂塵の中から、金属の軋みが聞こえる。


「……来たか」


 レオは剣を抜いた。


 峡谷の入り口に、それが姿を現した。


 巨大な鋼鉄の構造物。


 先端に鉄の衝角を備えた攻城車。二頭の魔獣が牽引し、車体の側面には重装甲の兵士が張り付いている。


 魔王軍・重装甲部隊「アイアン・タートル」。


 隠密がダメなら、力で押し潰す。


 魔王ゼノンが選んだ、次の手だった。


「おいおいおい」


 レオの顔が引きつった。


「この狭い一本道で逃げ場なしとか、初見殺しもいいとこだろ! 完全に『負けイベント』の構成じゃねーか! 抗うだけ無駄なやつだろこれ!」


 攻城車は、峡谷に入ってきた。


 幅五メートルの道を、ほぼ隙間なく埋める鋼鉄の質量。壁と壁の間を削りながら、ゆっくりと、しかし確実に迫ってくる。


 前方にはウォンバット。


 後方には攻城車。


 挟まれた。


「詰みだ。完全に詰んでる。リセットボタンはどこだ」


 キウィが冷静に言った。


「リセットボタンはないけど、ゴートは別に焦ってないよ」


 確かに。


 ゴートは、攻城車の接近にまったく反応していなかった。


 代わりに、ウォンバットを見ていた。


 ウォンバットも、攻城車の轟音に反応していた。


 ただし、その反応は、レオが期待したものとは異なっていた。


 ウォンバットは、ゆっくりと方向転換した。


 峡谷の道幅いっぱいに広がる、2メートルの巨体が、のそりと回る。


 そして――攻城車に向かって、尻を向けた。


「…………尻?」


 レオは呟いた。


 ウォンバットの尻が、そこにあった。


 巨大な、丸い、茶色い尻。


 だが、その表面は、普通の動物の尻とは明らかに異なっていた。


 硬い。


 レオは騎士の目で見て、瞬時にそれを理解した。


 あの尻の表面は、皮膚ではない。もっと硬質な何かで覆われている。鱗のような、甲羅のような、いや――


「骨板……?」


 キウィが補足した。


「ウォンバットの尻は、軟骨と厚い皮膚と脂肪が重なった『骨板』で覆われている。天然の盾。巣穴に逃げ込んだ時、入り口をお尻で塞いで外敵を防ぐための防御器官」


「つまり、あの尻は……」


「生物学的シールドだね」


 攻城車が、加速した。


 牽引する魔獣が咆哮を上げ、鋼鉄の衝角が峡谷を轟音で震わせながら突進してくる。


 ウォンバットは動かなかった。


 尻を向けたまま。


 攻城車の先端――鉄の衝角が、ウォンバットの尻に直撃した。


 ガギィィィィィィィン!!!


 その音は、金属同士が衝突した時の音だった。


 生物の体に鉄がぶつかった音ではなかった。


 鉄が、鉄に当たった音だった。


 衝撃波が峡谷を駆け抜けた。岩壁にヒビが入り、小石が雨のように降り注ぐ。


 レオは両手で耳を塞ぎながら、目だけは閉じなかった。


 見えた。


 攻城車の衝角が――ひしゃげていた。


 分厚い鉄の塊が、先端からグニャリと曲がっている。


 ウォンバットの尻には、傷一つなかった。


「……嘘だろ」


 攻城車は停止していた。


 衝角の変形が車軸に伝播し、車輪が軋み、全体が歪んでいる。


 車体に張り付いていた兵士たちが、衝撃で振り落とされて地面に転がっている。


「跳ね返った……」


 レオは、震える声で言った。


「攻城兵器の衝撃が、あの尻に跳ね返った……!?」


 ウォンバットは、のそりと振り返った。


 何事もなかったかのような顔をしていた。


 尻を攻城車にぶつけられたことを、認識しているのかすら怪しい。


「物理反射だと……!?」


 レオの騎士脳がフル稼働した。


「あの四角いフォルム……あの要塞のような体躯……。さては『要塞』の概念が具現化した精霊か!? 城塞兵器を尻で粉砕するとか、もう生物の領域じゃない! バグだ! バグ報告を出せ!」


 キウィが冷静に言った。


「ウォンバットの骨板は、捕食者の牙を弾くために進化した天然の装甲。あの衝角の先端面積に対して、骨板の硬度と弾性が上回っただけ。生物学的に説明できる現象だよ」


「説明できる方がおかしいんだよ!」



   ◇



 攻城車は自壊した。


 衝角の変形が牽引部に伝わり、魔獣が暴走し、車体が峡谷の壁に激突して大破した。


 兵士たちは生きていたが、全員が腰を抜かしていた。


 指揮官らしき魔族が、大破した攻城車の残骸の上で座り込んでいた。


「……報告書に、何と書けばいい」


 副官が答えた。


「『アイアン・タートル攻城車、敵の尻に衝突し全損。死傷者ゼロ。敵の尻に損傷なし』……でしょうか」


「その報告書を読んだゼノン様が俺を処刑しない可能性は?」


「ゼロかと」


「だよなぁ」


 指揮官は深く溜息をつき、残骸の中から這い出した。


「……撤退だ。もう嫌だこの任務」


 兵士たちは、もはや戦う気力を完全に失っていた。


 彼らは知らなかった。


 この後、魔王城に届く報告書の「敵の尻」という三文字が、ゼノンの額の青筋を決壊させることを。



   ◇



 ウォンバットは、攻城車を粉砕した後、特に何をするでもなくその場に座っていた。


 ゴートが、ウォンバットに近づいた。


 二匹は再び見つめ合った。


「ぬ」


「ンブ」


 ゴートの鼻がヒクヒクと動いた。


 ウォンバットの体の匂いを嗅いでいる。


 ゴートの目が、わずかに変わった。


 それは、黒鉄城塞の城門を見た時と同じ光。


 「硬いもの」を見つけた時の光。


 レオの顔が青ざめた。


「ゴート様。ダメです」


「ぬ」


「生き物を齧ってはいけません」


「ぬ」


「ゴート様!」


 だが、ゴートはウォンバットを齧らなかった。


 代わりに、ウォンバットの横に回り込み、ウォンバットの尻に自分の側面を押し当てた。


 二匹の「ずんぐりした体」が、峡谷の真ん中で密着した。


 ゴートの目が、細くなった。


 スヤァ……。


「寝た!?」


「ウォンバットの骨板は、ゴートにとって『ちょうどいい硬さのクッション』らしいね」


「クッションの概念が広すぎる!」


 ウォンバットは、ゴートが寄りかかってきても微動だにしなかった。


 あの尻で攻城車を弾き返す生物にとって、カピバラの体重など羽毛のようなものだろう。


 二匹は、峡谷の薄暗い光の中で、寄り添って動かなくなった。


 レオは、その光景を見て、何とも言えない感情に襲われた。


 犬の時は「幸福」だった。ミーアキャットの時は「恐怖」だった。


 今回は、何だろう。


 あの二匹のずんぐりとした体が寄り添っている姿は、言葉にならない何かを伝えてきた。


「……安心、か」


 レオは呟いた。


 キウィは何も言わなかった。



   ◇



 二十分ほど経って、ゴートが目を覚ました。


 ウォンバットも同時に動き出した。


 ウォンバットは、のそりと立ち上がり、ゴートの前をゆっくりと歩き始めた。


 そして、峡谷の端まで行くと、足を止め、ほんの少しだけ腰を落とした。


 ポトリ。


 地面に、何かが落ちた。


 レオは、それを見た。


 茶色い。小さい。


 そして――四角い。


 完璧な立方体。


 辺と辺が直角に交わり、面と面が均一な平面を形成している。


 サイコロだった。


 いや、サイコロではない。だが、サイコロとしか表現しようがないほど正確な立方体が、地面に転がっている。


「…………」


 レオは近づいた。


 屈んで、それを観察した。


「……なんだこれは」


 完璧な幾何学的形状。自然界にこれほど正確な立方体が存在するはずがない。結晶構造か? いや、色が違う。鉱石でもない。


「この完璧な直角……この均一な密度……」


 レオの目が見開かれた。


「これは、大地の魔力が結晶化した……『賢者の石』か? それとも、次のエリアへの『鍵』か? あるいは古代文明が残した情報記録媒体か?」


「ウォンバットのうんち」


「は?」


「ウォンバットのうんち。ウォンバットの糞は四角いんだよ。腸の形状が特殊で、水分吸収の不均一さによって立方体に成形される。転がりにくくすることでテリトリーマーキングの効率を上げている。生物学的には完全に説明がつく現象」


「…………」


 レオは、手を引っ込めた。


「触るところだった」


「触らなくてよかったね」


「なぜ先に言わない」


「面白かったから」


「お前なぁ」


 だが、ウォンバットはそれで終わりではなかった。


 ポトリ。ポトリ。ポトリ。


 次々と、完璧な立方体が地面に積み上がっていく。


 ウォンバットは黙々と排泄を続けた。表情は変わらない。間の抜けた目のまま、淡々と。


 レオは顔を背けた。


「……なぜ、こんなに大量に」


「テリトリーの主張だよ。ゴートに『ここは俺の場所だ』と伝えているんじゃないかな」


「もっと普通の伝え方はないのか」


 その時、ゴートが動いた。


 地面に散らばった立方体に、鼻を近づけた。


 ヒクヒク。


 匂いを嗅いでいる。


「ゴート様、やめてください」


 ゴートは匂いを嗅いだ後、前足で立方体を一つ、ぽいっと転がした。


 転がらなかった。


 四角いから。


 ゴートは、もう一つ転がした。


 転がらない。


 もう一つ。


 転がらない。


 ゴートの目に、微かな光が宿った。


 あの光だ。


 「これは使える」の光。


 ゴートは、前足と鼻を使って、立方体を積み始めた。


 一つ目の上に二つ目を。二つ目の横に三つ目を。三つ目の上に四つ目を。


 正確に。


 几帳面に。


 まるで――ブロックを積むように。


「…………」


 レオは、その光景を見ていた。


 カピバラが、ウォンバットの糞を、積み上げている。


 完璧な幾何学的配列。隙間なく、歪みなく。


 それは異様だった。同時に――美しかった。


「レオの解釈」と「現実」の溝が、これまでで最も深く開いた瞬間だった。


 レオの目には、ゴートが「古代の防衛陣を構築している」ように見えていた。


 大地の結晶を正確な配列で並べ、魔力回路を形成し、この峡谷を聖域へと変えようとしている。


 そう見えた。


 見えてしまった。


 レオの目は、もう現実を映していなかった。


「……すごい」


 レオは息を呑んだ。


「あの配列……六方最密構造……いや違う、あれは結界の基礎構造だ。『立方格子陣(ラティス・フォーメーション)』……! 大地の力を増幅する、失われた古代魔法の陣形……!」


 キウィは黙っていた。


 「ゴートがうんちを積んで遊んでいるだけ」とは、もう言わないことにした。


 言っても無駄だとわかったからだ。


 ※ゴートは実際に、立方体の「積み心地」を楽しんでいるだけである。角が歯茎に当たる感触が好きだった。



   ◇



 ウォンバットは、全ての排泄を終えると、のそりと歩き出して峡谷の奥に消えていった。


 後には、ゴートが積み上げた「立方体の塔」が残された。


 高さ30センチほどの、小さな塔。


 ゴートは満足そうに「ぬ」と鳴き、再び歩き始めた。


 レオは、その塔を見つめていた。


 長い間、見つめていた。


 やがて、震える手を伸ばし、塔の頂上から立方体を一つ、拾い上げた。


 持ってみると、意外なほど硬かった。水分が抜け切った立方体は、確かに石のような密度を持っていた。


 匂いは――まあ、匂った。


 だが、レオはもう気にしなかった。


「……わかった」


 レオは立方体を握りしめた。


「ゴート様は、この『大地の結晶』を俺に残してくださったんだ。これを集めれば……いつか、王国を再建できる」


 その声は、静かで、確信に満ちていた。


 レオは残りの立方体を一つ残らず拾い集め、背負い袋に詰めた。


「キウィ」


「……なに」


「この結晶、全部で何個ある」


「二十三個。あと、それうんち」


「聖遺物だ」


「うんち」


「聖遺物だ」


「…………」


 キウィは諦めた。


 レオ・ヴァルハルト。二十八歳。


 元・騎士団長。


 現・カピバラの飼育係。


 そしてこの日、「巡礼者」へのジョブチェンジを果たした。


 ウォンバットの糞を聖遺物として収集し、失われた王国の再建を夢見る、世界で最も哀しい巡礼者に。


 ゴートは特に何も考えていなかった。


 歯茎が気持ちよかった。それだけだった。



第5話「立方体の絶望――あるいは、不落の移動要塞について」


――終――



【次回予告】


「キウィ。なぜゴート様が水に向かって全力疾走している」


「カピバラは半水棲動物だからね。水を見ると入りたくなるんだよ」


「いや待て、あの水は――あれは川じゃない。あの色、あの瘴気……あれは『死の沼』だぞ!? 触れたら全身の魔力が腐蝕する禁忌の――」


「あ、入った」


「入ったァァァァ!?」


「ぬ」


「気持ちよさそうにしてる場合じゃないですよ!? ていうかなんで無事なの!?」


次回、『絶望の暗黒大陸で、俺だけがカピバラ(時速50km)に乗っている』


第6話「潜水――あるいは、五分間の絶対領域について」


お楽しみに。

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