第4話「千眼――あるいは、全てを見通す者たちの沈黙について」
別れは、あっけなかった。
犬たちは、朝日と共に去っていった。
百匹の巨大ゴールデンレトリバーが、金色の波となって平原を駆けていく。最後の一匹がレオの手をぺろりと舐め、尻尾をひと振りして走り去った時、レオ・ヴァルハルトは泣いた。
二度目に泣いた。
なお一度目は出会った瞬間である。
「……行っちまったか」
「泣くなよ。みっともない」
「泣いてない。砂が目に入っただけだ」
「両目から?」
「両目に入ったんだよ」
キウィは何も言わなかった。賢明な判断だった。
レオはゴートの背中に飛び乗り、犬たちが残していった大量の抜け毛を丁寧に集め、即席のクッションを作って敷いた。
「ゴート様。犬たちの毛で作った特製クッションです。弾力と保温性に優れ、かつ犬の残り香による精神安定効果も期待できます」
「ぬ」
「お気に召していただけたようで」
キウィが呟いた。
「犬の抜け毛を回収してクッションにする飼育係。控えめに言って変態だよね」
「聞こえてるぞ」
◇
一行が進んだのは、霧の荒野だった。
視界は三メートル先も覚束ない。白い霧が地面から這い上がるように立ち込め、音を吸い込み、方角を奪い、世界を閉じた箱のように変えてしまう。
レオは本能的に剣の柄に手を置いた。先端が齧り取られた聖剣だが、ないよりはマシだ。
「嫌な霧だ。隠密系の魔物が潜んでいてもおかしくない」
「ゴートは気にしてないけどね」
確かに。ゴートはいつも通りの速度で歩いていた。モソ……モソ……。霧だろうが吹雪だろうが、このカピバラの歩行速度は変わらない。
やがて、霧が薄くなり始めた。
視界が開ける。
レオは、目の前に広がる光景を見て――息を呑んだ。
「……何だ、あれは」
荒野の真ん中に、「何か」が立っていた。
一本ではない。
数千本。
茶褐色の細長い棒のようなものが、完璧な等間隔で、直立している。
微動だにしない。
最初、レオはそれを枯れ木の群生だと思った。あるいは、古代文明が残した柱状の遺跡か。
だが、枯れ木には目がない。
遺跡には、黒くて丸い、つぶらな瞳がない。
「……あれは」
レオは目を凝らした。
「棒」の一本一本に、小さな顔がついていた。
尖った鼻。丸い耳。そして、不釣り合いなほど大きな、黒い瞳。
数千の瞳が、全て同じ方向を向いている。
瞬きもせずに。
「ミーアキャット……か?」
キウィが頷いた。
「ミーアキャットだね。群れで見張りをする習性がある」
「知ってる。だが――数千匹? しかも全員同じ方向を向いて直立不動?」
レオの背筋に、犬の時とは異なる種類の寒気が走った。
犬は「圧倒的な好意」だった。暴力的なまでの善意。拒絶のしようがない幸福。
これは、違う。
これは――「圧倒的な観察」だ。
感情がない。好意もない。敵意もない。
ただ、見ている。
全てを。
「おい待て……この『監視されてる感』……」
レオの額に、冷や汗が浮かんだ。
「某掲示板の特定班に目をつけられた時と同じプレッシャーだぞ……! 監視社会か!? パノプティコンかよ!!」
※レオの「発作」。なお、彼はパノプティコンという言葉の意味を正確には理解していない。響きが怖かったから使っただけである。
数千匹のミーアキャットは、レオの絶叫にも微動だにしなかった。
全員が、北東の方角――魔王城がある方角を、じっと見つめ続けている。
瞬きしない。
動かない。
呼吸すらしているのか怪しいほどの、完璧な静止。
「全員こっちを見てる……わけじゃないのか。魔王城の方角を見てるのか?」
「見張りだからね。危険な方角を監視してるんだろう」
「数千匹で?」
「数千匹で」
「過剰戦力すぎないか?」
キウィは首を傾げた。
「過剰かどうかは、何を見張っているかによるよ」
◇
ミーアキャットたちの群れの手前で、レオは足を止めた。
近づいてみると、その「統率」の異常さがより鮮明になった。
個体と個体の間隔は、正確に42センチ。
直立姿勢の角度は、地面に対して垂直90度。
首の向きは、全個体が北東34.7度。
これは、生物の群れではない。
これは、軍事パレードだ。
「……いや、パレードなんてレベルじゃない」
レオは呟いた。
王国騎士団の閲兵式。あれは大陸最高峰の規律と賞賛された。全騎士が寸分のズレなく整列し、国王の前を行進する。
だが、それでも人間には「微妙な揺れ」がある。呼吸による胸の動き、風による髪の揺れ、瞬きによる一瞬の断絶。
このミーアキャットたちには、それがない。
完全な静止。
まるで、時間が止まっているかのような。
レオは、自分が「恐怖」を感じていることに気づいた。
犬には負けた。好意に屈した。それは、まだ理解できる。
だが、これは何だ。
この生物たちは、好意も敵意も示していない。ただ、「見ている」。
感情のない観察。目的の見えない監視。
それは、人間にとって最も原始的な恐怖の一つだった。
「……怖い」
レオは正直に告白した。
「怖いぞこれ。犬の方がまだマシだった。あっちは少なくとも『好き!』って顔してたから」
キウィは同意した。
「ミーアキャットにとって、外界は全て『脅威か、脅威でないか』の二択なんだ。好きとか嫌いとか、そういう感情は観測対象に向けない。純粋な、情報収集機関」
「つまり俺たちは今、『まだ分類されていない未知の脅威』として監視されてると」
「そういうこと」
「帰りたい」
◇
その時、音が聞こえた。
地面を踏みしめる足音。ではない。
地面を踏みしめない足音。
矛盾した表現だが、レオの騎士としての直感がそう告げていた。
足音がするのに、振動がない。
何かが近づいているのに、気配がない。
――隠密魔法。
「キウィ、下がれ」
レオは剣を抜いた。
霧の向こうから、影が滲み出てきた。
黒い装束。顔を覆う仮面。腰に下げた毒塗りの短剣。
魔王軍・隠密部隊「影の爪」。
十二人。
暗殺に特化した精鋭中の精鋭。完璧なステルス魔法で気配を消し、ターゲットの視界の外から一撃で仕留める。大陸最恐の暗殺集団。
そのリーダーが、仮面の奥から低い声を発した。
「暴食の魔獣を確認。作戦通り、眠っている隙に毒刃で急所を――」
その時。
数千匹のミーアキャットの首が、動いた。
スッ……。
一斉に。
一匹の例外もなく。
全個体が、北東を向いていた首を、同時に、正確に、隠密部隊の方角へ向けた。
数千の瞳が、十二人の暗殺者を凝視した。
「な――」
リーダーの声が、途切れた。
視線。
数千の視線が、物理的な圧力を伴って隠密部隊に降り注いでいた。
それは比喩ではなかった。
この暗黒大陸に適応したミーアキャットの「警戒」は、通常の生物のそれとは次元が異なる。彼らの視線は「観測」そのものであり、観測された対象は「観測されていないふり」ができなくなる。
量子力学的に言えば、波動関数の収縮。
魔法的に言えば、存在の強制確定。
平たく言えば――「見られたら、隠れられない」。
隠密部隊の体を覆っていたステルス魔法が、ガラスのように砕け散った。
透明だった装束が実体化し、消していた影が地面に落ち、殺していた呼吸音が突然響き始める。
「な、なぜだ!?」
リーダーが叫んだ。
「完璧に気配を消していたはず……! 最高位の隠密魔法だぞ!? なぜ――」
数千の瞳が、リーダーを見つめていた。
感情はない。
好意もない。
敵意もない。
ただ、「お前はそこにいる」という、純粋な事実だけを突きつける、数千の黒い瞳。
「なぜ数千個のつぶらな瞳にガン飛ばされてるんだ俺は!!」
リーダーの悲鳴は、荒野に虚しく響いた。
レオは、剣を構えたまま、その光景を呆然と見ていた。
「……なるほど」
彼は理解した。
犬が「善意で殺意を無効化する」なら。
ミーアキャットは「観測で隠密を無効化する」。
方法は違うが、結果は同じだ。
魔王軍の精鋭が、動物一種に完封される。
「この大陸の動物、全部おかしいだろ」
◇
隠密部隊は、戦闘どころではなかった。
ステルスを剥がされた暗殺者は、ただの軽装兵にすぎない。しかも彼らの精神は、「数千の瞳に凝視される」という経験したことのないストレスで急速に崩壊しつつあった。
「見るな……見るなァ! その目で俺を見るなァ!」
一人が短剣を投げた。ミーアキャットの群れに向かって。
短剣は、群れの手前で地面に突き刺さった。
ミーアキャットは動かなかった。
避けもしなかった。
ただ、短剣を投げた暗殺者を、全員で見つめた。
暗殺者は膝をついた。
「すみません……すみません……もう投げません……」
※この暗殺者は後に「千の瞳症候群」と診断されることになる。症状:複数の視線を感じると動けなくなる。
リーダーは、部下たちが次々と精神崩壊していくのを見て、最後の手段に出た。
「全員撤退! 煙幕を――」
煙幕が展開された。白い煙が広がり、視界を覆う。
だが、ミーアキャットの首が、煙幕の中を正確に追尾した。
煙の向こう側を、見ている。
煙など、彼らの「観測」の前では何の障壁にもならなかった。
「……嘘だろ」
リーダーの声が、掠れた。
「煙幕越しに見えてるのか。あの瞳は、物理的な光学に依存していない……?」
キウィが、木の枝の上から解説した。
「ミーアキャットの警戒は、視覚だけじゃない。振動、音、気圧の変化、体温の放射――ありとあらゆる情報を統合して『存在を確定』する。煙幕で視覚を遮っても、他の全ての感覚が『お前はそこにいる』と告げている。逃げ場はないよ」
リーダーは、仮面を外した。
その下の顔は、魔族特有の精悍な顔立ちをしていたが、今はただ疲弊し切っていた。
「……降参だ」
短剣を地面に置いた。
「殺してくれ。この『見られ続ける地獄』から、解放してくれ」
レオは剣を収めた。
「殺さねぇよ。そもそも俺が何かする前に、お前ら勝手に自滅しただろ」
「…………否定できない」
◇
戦いが――いや、戦いとも呼べない一方的な精神破壊が終わった後、レオはゴートの様子を確認しに戻った。
ゴートは、戦闘中ずっと同じ場所にいた。
隠密部隊の接近にも、短剣の飛翔にも、煙幕の展開にも、一切反応していなかった。
いつも通りだった。
だが――
「……ん?」
レオは、自分の目を疑った。
ゴートが、立っていた。
後ろ足で。
直立して。
数千匹のミーアキャットの群れのど真ん中で、体長1.5メートルのオオカピバラが、後ろ足で直立していた。
両方の前足は力なく垂れ下がり、丸い腹が露出し、半開きの目は相変わらず虚無を湛えている。
だが――立っている。
ミーアキャットと同じ姿勢で。
同じ方向を向いて。
レオの脳内で、重低音が響いた。
ドゥン……。
ドゥン……。
ドゥン……。
※これは演出です(三度目)。
「ゴート様が……立った……!?」
レオの声が、震えた。
「ゴート様が、立った!!」
レオは叫んだ。
感動だった。
あの、どんな攻撃を受けても微動だにしなかったゴート様が。どんな状況でも「ぬ」の一言で全てを受け流していたゴート様が。
立った。
自らの意志で。
後ろ足で。
天と地を繋ぐように。
「あの姿勢……!」
レオの騎士脳が、フル回転した。
「天地を結ぶ魔力経路を、自分自身で形成しているのか……!? 大地のマナを足から吸い上げ、天のマナを頭頂部で受信し、体内で循環させている……!?」
ミーアキャットたちの群れの中央で直立するカピバラ。
その周囲を取り囲む、数千の直立する小さな体。
レオの目には、それは壮大な「儀式」に見えた。
「聖者たちの合議が……始まった……!!」
レオは跪いた。
キウィが頭上から言った。
「みんなが立ってるから、なんとなく立ってみた。視界が広くて気分がいい。ぬ。――だそうだ」
「……」
「以上」
「……嘘だろ」
「嘘じゃない。あの方の行動原理に深い意味はないって、そろそろ学習したら?」
レオは学習しなかった。
なぜなら、学習してしまったら、この旅の全てが「ただの散歩」になってしまうからだ。
レオ・ヴァルハルトには、意味が必要だった。
この旅に。この出会いに。この不条理な日々に。
意味がなければ、王国を失った自分には、何も残らない。
だから彼は、目の前の「直立するカピバラ」に、意味を見出し続ける。
たとえそれが、幻想だとしても。
◇
ゴートの「直立」は、三十分ほど続いた。
その間、ミーアキャットたちは完全な静止を維持し、ゴートもまた動かなかった。
風が吹いた。
ゴートの剛毛が揺れた。
ミーアキャットの毛並みが揺れた。
それだけだった。
音のない世界で、数千の生物が、ただ立っていた。
レオは、その光景を、騎士としての生涯で最も美しいものの一つとして記憶に刻んだ。
※実際には、ゴートは「立ったまま寝る」という新しいスキルを習得しつつあっただけである。
やがて、ゴートが前足を下ろした。
四足歩行に戻る。
「ぬ」
それを合図に、ミーアキャットたちも動き始めた。
整列を崩し、思い思いの方向を見始める。何匹かは日の当たる岩の上に移動し、腹を太陽に向けて寝転がった。
警戒は解かれた。
理由は、わからない。
だが、レオには一つだけ確信があった。
ミーアキャットたちは、ゴートの方を見なかった。
数千匹が、あらゆる方角を監視していたのに。
ゴートだけを、見なかった。
それが「脅威と認識されていない」からなのか。
それとも――「見る必要がないほどの、絶対的存在」だからなのか。
レオは後者だと信じた。
キウィは前者だと思ったが、黙っていた。
◇
隠密部隊のリーダーは、降伏後、ゴートの周囲をうろうろしていた。
レオが「何をしている」と聞くと、リーダーはバツの悪そうな顔で答えた。
「……あの小さいの(ミーアキャット)の隣で日向ぼっこしていいか」
「敵だろ、お前」
「さっき降参した。もう敵じゃない。それに――」
リーダーは、日の当たる岩の上で腹を出して寝転がるミーアキャットたちを見た。
「あいつらは、俺を『監視対象』から『風景』に再分類したらしい。もう見てこない。それが、何だか……」
「……安心した?」
「……うん」
レオは理解した。
「見られなくなる」ということは、「脅威ではなくなった」と認められたということだ。
それは、暗殺者として生きてきた男にとって、初めての「赦し」だったのかもしれない。
レオは肩をすくめた。
「好きにしろ。ただし、ゴート様の昼寝を邪魔するなよ」
「……了解した」
暗殺者が、ミーアキャットの隣で日向ぼっこを始めた。
世界は、確実におかしくなっている。
だが、おかしくなる方向が、いつも「平和」に向かっているのは、悪くないとレオは思った。
◇
夕暮れ。
出発の時間だった。
レオはゴートの背中に乗り、犬の毛のクッションの上で姿勢を整えた。
ミーアキャットたちは、もう一行を見ていなかった。それぞれの持ち場に戻り、それぞれの方角を監視している。
ゴートが歩き始める。
モソ……モソ……。
平和な足音。
レオは、ふと振り返った。
ミーアキャットたちの群れが、小さくなっていく。
――その時だった。
数千匹のミーアキャットが、一斉に首を動かした。
スッ……。
全個体が、レオを見ていた。
ゴートではない。
キウィでもない。
レオ・ヴァルハルトだけを。
数千の黒い瞳が、レオ一人を凝視していた。
だが、そこにあったのは、先ほどまでの無機質な「観測」ではなかった。
もっと――柔らかいもの。
もっと、温かくて、同時に、悲しいもの。
レオは、その視線の正体を、すぐには理解できなかった。
だが、体が理解していた。
背筋を走る冷たさ。喉の奥を締め付ける不快感。胃の底に落ちる、鉛のような重さ。
あれは。
あの瞳は。
「……なぜ」
レオは呟いた。
「なぜ、こいつらは俺を見て……そんなに悲しそうな顔をしたんだ?」
ミーアキャットたちは、すぐに首を戻した。
何事もなかったかのように、それぞれの方角を監視し始める。
レオの問いに、誰も答えなかった。
ゴートは歩き続けている。
キウィは羽繕いをしている。
ただレオだけが、振り返り続けていた。
もう何も見えない地平線を。
あの、数千の「憐れみ」の瞳を。
思い出しながら。
第4話「千眼――あるいは、全てを見通す者たちの沈黙について」
――終――
【次回予告】
「……キウィ。あの茶色い塊は何だ」
「ウォンバットですね。穴を掘って暮らす有袋類です」
「なぜ魔王軍の攻城兵器が、あの四角い小動物の『尻』で全部止まってるんだ」
「ああ、ウォンバットのお尻は骨の板で出来ていてですね、盾みたいに――」
「いや待て、それより重要なことがある。あいつらのフン……なんで四角いんだ?」
「ぬ」
「ゴート様、まさかあの『四角いフン』に価値を見出してないですよね!? 噛み応えとか言わないですよね!?」
次回、『絶望の暗黒大陸で、俺だけがカピバラ(時速50km)に乗っている』
第5話「立方体の絶望――あるいは、不落の移動要塞について」
お楽しみに。




