【幕間】ずっと、見ていた
襟からカメオを外して、灯りにかざした。
貝に彫られた、女の人の横顔。その額のあたりで、縁が小さく欠けている。そこだけ、白さが新しい。
今日、彼女は倉庫のいちばん奥で、揺り木馬のそばに膝をついていた。擦り減った背中に手を置いて、ほっとしたような、泣きだしそうな顔で、「……間に合って、よかった」と言った。
同じ顔を、俺は前にも見たことがある。
彼女のほうは、もう忘れてしまったけれど。
*
侯爵令嬢が、はじめて城へ来た日のことだ。
王命で兄上の婚約者に決まった。城じゅうが、朝からその話で持ちきりだった。けれど、俺はそれどころではなかった。
母上から、カメオを預かっていたのだ。
王家に代々伝わる、王が身につけるための古いカメオである。留め金がゆるんで、父上が母上に修理を任された。その母上から、職人に出すまで持っていてほしい、と頼まれたのだ。
俺はそれが誇らしくて、上着の内側にしまいこみ、一日じゅう、何度も触っては確かめていた。
確かめすぎたのだと思う。
上の階の回廊で、手すりから身を乗り出して、到着した馬車をのぞいたときだった。そこから、するりとそれが抜け落ちた。
光りながら、落ちていった。下の庭の、植えこみの向こうへ。
階段を、転がるように駆け下りた。芝にはいつくばって、探した。植えこみの根もと、敷石のすきま、花壇の土。どこにもない。
母上に、なんと言えばいいのか。
そのとき、隣に誰かがしゃがみこんだ。
小さな女の子だった。裾のふくらんだ、淡い色のドレス。今日のために仕立てたものだと、ひと目で分かった。髪は、目を疑うほど鮮やかな紫だった。
「何を、お探しですの」
「……カメオ。落としたんだ」
「まあ。光るものが落ちるのが、馬車から見えましたの。たしか、このあたりでしたわ」
止める間もなかった。その子は、新しく仕立てたドレスで、ためらいもなく芝に膝をついた。
小さな手が、葉の陰を一枚ずつていねいにめくっていく。泥がつくのも、かまわずに。俺よりずっと、落ち着いていた。
見つけたのは、その子のほうだった。
「ありましたわ!」
差し出された手のひらの上で、カメオが光っていた。そして、縁が欠けていた。敷石に当たったのだろう。額のところが、小さく。
目の前が、暗くなった。
「……欠けた。もう、だめだ」
代々の王が身につけてきたものを、俺が壊した。いっそ捨てて、なかったことにしてしまいたい。そう口に出しかけたとき、その子が首を横に振った。
「もったいないですわ」
聞いたことのない言葉だった。
「欠けたくらいで捨てたら、これまでの年月まで、捨てることになりますもの」
八つの子の口から出るには、ずいぶん大人びた言葉だった。
「……夢のなかの、おばあちゃんが、そう言いますの。ですから、大事になさいませ。欠けたところも、ぜんぶ」
夢のなかの、とは何のことか。聞きそびれたまま、今日まで来てしまった。
そう言って、その子は泥だらけの手で、俺の手にカメオを握らせた。
遠くから、大人たちの声が近づいてきた。
「ヴィオレッタ様! どちらにいらっしゃいますか!」
その子ははっとして立ち上がり、声のほうへ駆けていった。ドレスの膝が、泥と草の汁ですっかり汚れていた。
あとで聞いた。あの子は、兄上との顔合わせの席に汚れたドレスのまま現れて、教育係にこっぴどく叱られたそうだ。
どうしたのかと問われても、「わたしが、庭で転びましたの」としか答えなかったという。
俺の名前は、最後まで出さなかった。
礼を、言いそびれた。
あの子が、その侯爵家の令嬢だと知ったのは、その晩のことだ。兄の婚約者に、弟が用もなく話しかけるわけにはいかない。それからは、挨拶くらいしかできなかった。
だから、見ていた。
*
彼女は、城で暮らしはじめた。
朝は、日の出前から。頭に本を載せて、回廊を歩いていた。落とすたびに拾って、また載せて、端から歩き直す。俺の部屋の窓から、ちょうどその回廊が見えた。
夜は、書庫の灯りが遅くまで消えなかった。兄上が放り出した課題を、令嬢が片づけていたのだ。
やがて課題は、書類に変わった。兄上の名前で出ていく報告書が、ある年から急に、見違えるほど筋の通ったものになった。気づいていたのは、たぶん俺と文官たちくらいだろう。
それから、針だ。
彼女は、袖の内側にいつも小さな針と糸を忍ばせていた。庭の隅で、下働きの娘のほつれた前掛けを、こっそり縫ってやっているところに、出くわした。
教育係に見つかって、「侯爵家の娘が、針仕事など」と叱られていた。
叱られた次の日には、別の隅で別の誰かの袖を縫っていた。
懲りない人だと思って、笑ってしまった。あのころの俺が笑ったのは、そのときくらいのものだ。
言葉を交わしたことも、ないわけではない。毎年、兄上の誕生祝いの席で。
「ごきげんよう、リオネル殿下」
きれいな礼だった。婚約者の弟に向ける、それ以上でもそれ以下でもない礼。庭で泥にまみれて笑っていた子と同じ人だとは思えないほど、隙がなかった。
「……ごきげんよう」
それだけ返して、その場を離れた。彼女にとって、俺は婚約者の弟でしかなかった。あの庭のことを覚えている様子は、まるでなかった。
それでいい、と自分に言い聞かせた。
兄上は、ヴィオレッタに冷たかった。夜会の席でヴィオレッタの話をさえぎり、人前で笑いものにした。ヴィオレッタ嬢は、非の打ちどころのない笑顔で、それを受け流していた。
一度だけ、夜会のあと、ばらの生け垣の陰で一人で泣いているのを見てしまった。声を殺して、肩だけを震わせていた。
俺は、出ていけなかった。俺が出ていけば、この人の立場が悪くなるだけだ。
次の朝、いつもどおりの笑顔で、朝の稽古に出ていた。
あの朝ほど、自分の立場をうとましく思ったことはない。
今年の春からは、兄上の隣に別の令嬢が立つようになった。桃色の髪の、男爵家の娘だ。兄上は、ヴィオレッタの見ている前でその娘にばかり笑いかけた。
ヴィオレッタ嬢は、何も言わなかった。夜ふけの書庫で過ごす時間が、それまでより長くなっただけだ。
文官たちが陰でヴィオレッタを「ほんとうの王太子殿下」と呼んでいることを、俺は知っていた。知らないのは、ヴィオレッタだけだった。
夜会のたびに、俺は柱のそばに立った。誰とも踊らなかった。誰と踊っても、目が、広間の同じところへ行ってしまうからだ。
氷みたいな方だとうわさされているのも、耳に入っている。好きに言えばいい。
カメオは、職人に預けないことにした。母上に正直に話して、謝った。母上は、欠けた縁を指でなぞって、「では、これは、あなたが持っていなさい。父上には、わたしからお話ししておきます」と笑った。
それからずっと、襟につけている。欠けたまま、いちばん目立つところに。
いつか、気づくかもしれない。気づかなくても、かまわなかった。
*
そして、昨夜。
兄上が婚約の破棄を叫んだとき、俺は、柱から背を離していた。今度こそ、黙って見ているつもりはなかった。
ところが、彼女は泣かなかった。
「ありがとうございます!」
広間じゅうが凍りついたなかで、俺は、うつむいて笑いをこらえていた。あんなに晴れやかな顔をするとは、思ってもみなかった。庭でカメオを見つけて、ありましたわ、と声をあげたときと、同じ顔だった。
兄上がヴィオレッタの手首をつかんだとき、何か考えるより先に、体が動いていた。
ようやく、借りの一つを返せた気がした。まだ、ほんの一つだが。
廊下で、ヴィオレッタはこのカメオに目をとめて、縁が欠けておりますでしょう、と言った。新しいものに、お替えにならないのですか、と。
もったいないからね、と答えた。あの日、あの子に教わった言葉で。この国で、ほかに誰も使わない言葉で。
ヴィオレッタ嬢は、その一言で足を止めた。
あの庭のことは、思い出さなかったらしい。
それでいい、と思った。あの日のあの子は、礼を言われたくて芝に膝をついたのではない。覚えてもいないくらい、当たり前のこととして、ああしたのだ。
覚えていないぶんは、俺が覚えている。
今日、倉庫で「間に合って、よかった」と言ったヴィオレッタは、欠けたカメオを俺の手に握らせてくれたあの日と、何ひとつ変わっていなかった。
だから、同じ役に就いた。
彼女が大事にしたいものは、ひとつも捨てさせない。欠けていようが、古かろうが。
今度は、俺の番だ。
「あなたは、覚えていなかったね」
灯りのなかのカメオに向かって、小さく言ってみた。
「……でも、俺は、ずっと見ていたよ」
返事は、もちろんない。それでも、胸のつかえがひとつ下りた。
カメオを、襟に戻した。
明日の朝は、侯爵家まで迎えに行く約束だ。侯爵閣下は、どんな顔で門に立っていらっしゃるだろう。
……それでも、行く。
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