1-11 意味のない自慢
惑書は翌日、いかにも現代的な服装で維光の前に現れた。紫色の布地に金をはりめぐらしたあの古風な服に代えて、藍色のベストを着ている。
「ええと……服はどこで?」
「服? いいえ、魔物に服は必要ありませんよ」
下には袴ではなくロングスカートという格好。まるで同じ人間とは思えないような変貌。しかし、惑書のあやしい笑みはやはり以前と同じ。
「服が必要ない……!?」
維光には最初理解できなかった。
「人間とは違ってそういう習慣がありませんものね。あくまで体を変えるだけなんですから」
だが、惑書はどうも現代の服装には不慣れらしい。
「……肩あたりの布地が崩れかかっているぞ」
維光は低い声で指摘。惑書の顔を正視すれば何も気にならなくなってしまうかもしれなかったから。
「あら、失礼」
その部分だけ荒波の立つ水面みたいに起伏が激しかったのだ。
惑書はこれを確認しに頭を下げるまでもなく、そこを修正して平坦にした。
「胸のあたりが非対称じゃないのか?」
「……そういう趣味があるの?」
維光はどきりとして、顔を面ける。
「いや、ただ外見から判断しただけだよ」
人間の姿はただまねしているだけで、ある程度変更が利くのだと維光は無意識に理解した。
だが、だとすると腑に落ちない。魔物にも性別があるのか?
「ああ、確か今日はカフェに行く日だったな。約束したろ?」
直前の言葉を無視して続ける維光。
「ええ。一体何を話し合えるか楽しみですわ」
この綺麗な響きの声がもうちょっとくだけていれば、そこらじゅうの少女としても通ったに違いない。
「まず母さんに伝えておかないと。何のためにそこまで行くのか」
「では私は外で待っているとしましょう。主はお母さまにこのくだんをお伝えくださいませ」
言い終わった時、惑書を四方から光がつつみ、小さな輝く球として部屋の外に連れ去っていた。
下に降りるともう母が朝の用意をしている。
この時維光に一つの課題。人間としての惑書をどうやって母さんに伝えたものだろう。まだ、書としての彼女しか知らないのではないか。
「今日は人と会う予定があるんだ」
あいさつではなく、それが今日最初の会話。
「あら、なかなか急な話ね」
母はいつもの調子に戻っている。無論、真実を知る前とは微妙に差はあるだろうけど。
「ごめん、夜電話で決めたばかりなんだ。昼からカフェとかで雑談をしたくてね」
「誰と話し合うの?」
維光はいささか迷う。『人』ではあるまい。普通なら『バケモノ』と呼んでもいい所のものだ。
「最近見知った人なのさ。いや、会ってすぐ離れられない存在になったんだけど」
母は不安そうに目を細める。
「……本当に大丈夫なの? そんな浅い関係の人で」
「いや、行くしかないよ。どうしてもその人に打ち明けなきゃならないんだ」
維光は、自分が今試されていることを知っていた。
惑書にであれ、透にであれ。
繁華街の裏にあるカフェ「街灯夜亭」は茶色い木で部屋を構成した、静かな雰囲気が特徴の店だった。
数十メートルを越す高い建物に挟まれた所に立つその店は、外から見ても安閑くくつろげる場所、という印象を与える。
透はクラスメイトたちの会話からこの店の存在を知ってはいた。しかし、自分自身でこの地を訪れたのはこれが第一回になる。
惑書を後ろにひかえさせて中に入った。休日ということもあり、客は多めらしい。維光はカウンターの前に、二人分のカフェオレ、よく焼き上げたラスク数枚を頼む。
皿を受け取って、テーブルまで運ぶ間、
「私の分も用意して下さるのね」
「そりゃ、主人が僮僕に対して恩を――」
と言いかけ、たちまちにしてやめる。そう言えば、魔物は人間のように食べるのだろうか?
二つの席が用意されたところに、二人は向き合って座る。維光はすでに、惑書がどう出るかが気になって仕方なかった。
「えっと、どうする? 食べるか、あるいは話すか――」
維光が遠慮がちに話しだすと、
「まずは食べなさい」
きっぱり惑書。
「君の方から食べてくれよ」
維光は遠慮がちに。
「いいえ、ここは主が」
維光は食べ始めた。油と塩分がいい味を出している。一瞬夢中になった隙に、維光は特にためらいなくこう問うた。
「魔物って、何を食べて生きてるんだ?」
そもそも、惑書が食事をする光景を観たことがなかったのだから当然。
「魔物は食べませんよ。人間のようには」
「えっ」
維光の口には小麦粉の破片がちらばったまま。
「行使者の体に寄生しているようなものです。その生命力の一部を借りる形で」
「つまり、僕の今食ってるこのラスクがお前の栄養分になるのか」
「おっしゃる通り」
「じゃあ、契約していない魔物は?」
「その時も、この世界を流れるエネルギーからひそかにとり続けているので心配することはありませんよ」
「へえ……」 理解できるような、できないような。色々な事象がこの世界にはあるもんだ……。
それから今一つ、気になる質問。
「お前は……」
とは言ってみるものの、やはり勇気はいる。魔物の過去を問いつめていいのかどうか。
人間の生涯などとはまるで格が違う。人間がそうすぐに理解できるものでもないはず。
「何でございましょう」
「お前……どれくらいこの世界にいるんだ?」
「四千年かな」 頭をかしげながら、悩む表情。
「よ……四千年」
維光は頭ががたりと傾きそうになる。ここで惑書があわててこれを支える。
「そんなことしないの」
さとすような口調で。
維光は気が戻ってまず、この話を誰かが盗聴してはいないかと疑った。自分の心の弱さへの羞恥はそれから。
「いや……やばい。大声でしゃべったかな」
「安心してください。我々の話など一般人には理解のできぬものですから」
惑書は独特の凛とした口調。
維光は再び話を元に戻そうと努力。
「四千年って、どう過ごしてきたんだ。どこで『生まれた』」
最後の語については暫定的に選んだものだった。魔物はいつも人間の常識を超える……。
「最初どんな状態だったのか今じゃ覚えてない。ただ私は気づいたらそこにいて、生きていくためには人間と力を合わせなきゃならない――それだけ知ってた」
惑書は遠い目で語りだす。
「多分私がまず生きていたのはここからずっと西、ティグリスとエウフラテスの流れる場所。その時にはもう、人間に『呪文』の権威を与える存在として、私は人間たちと結んでいた」
維光は内心興奮を隠せなかった。はるか大昔の歴史を彼女はその眼で察ているのだ。生き証人がここにいる。
「となると、ギルガメシュとかサルゴンとかに本当に会ったってことだな?」
しかし、惑書の回答は冷めたもの。
「……さあ? 別に私は人間が俗世間でどういう身分をしていたかなんてまるで興味がなかった。ただ、確かに高い身分の人らしいというのは認識してたけれど」
そっけない答えに落胆を覚えつつも、
「でも、行使者として契約したんだから、それなりに事情があったんだろうな」
「時には戦争や敵への呪詛にかりだされることもありましたけどね」
維光はそこで大きく身を乗り出す。
「じゃあ、まさかそこで王様の姿を見たんじゃないのか」
「ですから、私にとっては行使者だけが重要だったのですよ。他の人間がどうなるかなんて考えたこともなかった」
まるで、行使者以外の人間を知るのを意図的に避けているようなものではないか。行使者が行使者以外の人間を避けているように。
「じゃあメソポタミアから日本に行くまで何があったんだよ」
「ゆっくり聴きたいですか?」
維光はまずうなずこうとして、それからびくつく。
四千年だ。じっくりその話をうかがったら何年かかるか分からない。さすが行使者といえどそれほどの気力は……。
「ご、ごく簡単に談せよ」
「かしこまりました」
ふと、維光にあの疑念がのしかかる。この少女の来歴は真実なのかどうか。
「さっき申し上げた通り、かつて私はメソポタミアの地にいました。けれどバビロニア王ネブカドネザルによるユダ王国遠征に連れて行かれ、そこでエルサレムの陥落を目の当たりにしたのです。しかし私はそこにとどまって帰ることはせず、ずっとパレスティナの中で行使者とともにいました。再び別の場所に遷ることになったのは……そうね、第二神殿の崩壊だったかバル・コフバの乱の時だったか……」
やはり、維光には惑書に対する感嘆の情がまさった。
いや、歴史の生き証人ともいうべき者がここにいるのだ。もしその存在が周知になったら歴史家の質問攻めに遭うかもわからないな。
「で、その後は?」 正気にもどるや、真面目をよそおって問いかける。
「しばらく数百年は行使者と結ばずにヨーロッパとアフリカをさまよっていたと思います。東に向かったのは恐らく千年ほど前のことでしょう。日本に来たのはごく最近ですね。六十年ほど前か」
さすが人間の何十倍も生きてきた魔物にとっては、六十年というのもごく最近のことらしい。
「まあ、本当に重要な点だけだよな。実際に伝記を書いたらどれほどの本ができるか」
「私自身も長い人生の間で忘れてしまったことも衆いですしね……」
人間が同じくらいの年月を生きたら気が触れてしまうに違いない。それをこんな風に平気で生きているのはやはり魔物の非人間的な思考方式によるだろう。
「父さんは……」
維光は自分でも意外なことを口にしていた。惑書にとっても恐らくたずねてほしくないこと。
「何でございましょう」
「父さんは、どうなったんだ?」
惑書と結んだあの時、幻覚で見えたのだ。父が、ある男の姿をした『何か』を前に、ひざをつく場面を。
惑書はその時にも父の脇に坐していたが……どうなったのか、よく覚えていない。
しかしどう考えても、あの時何かが起きていた。単なる勝敗を越える異様な現象が、まさに。
「父さんが君を去れた時、一体何があった?」
惑書の内側に、一瞬閃光がほとばしり、服の布地を揺り動かす。
「あの時……私は……四条盛永様を……」
維光が恐怖するほど、惑書は思いつめた表情でいた。いつもの彼女が優しくほがらかな表情であればあるほど、その対照となる悩ましい面容は似つかないと感じる。
「盛永様に、確かに私は尽くそうとしました……しかし、状況は明らかに我々に味方しなかった……私は自分の義務に耐えきれなかった……」
維光の耳に、紙をひきちぎる音が聞こえた。それは、まぎれもなく惑書が発する音だった。主人にしか感知できない現象として。
維光は重荷にこらえ切れず、惑書から視線をそらした。
目の方向に、ヘルメットをかぶった人物がいた。胴体に比べても実に大きいヘルメットで、顔は風防の暗さによって見えない。分厚そうな青いジャンパーを着て、席に座っているが何を考えているのか分からない。
「何だ……あの人?」
維光は方今の緊迫をその逸脱でごまかそうとした。
「全く、変な人ね」
同調する惑書。
「ごめん、嫌なことを尋ねた」
「いいえ、私情を抑えきれない私にも責任はありますゆえ……」
と言いつつ、惑書はすっかりぬるくなったカフェオレに手をつける。
「おい、飲めるのか?」
不思議に思ったその時、不快な感触を腹に。
「んっ……」
「御理解ですか。これが魔物と行使者のつながりなのです」
口を介さず体内に直接送る。固形物だったらさぞかし消化に悪いだろう。
「なあ。その服装って何を参考にしてるんだ?」
「当然でしょう、偶然見かけた人間の姿を写しただけのものですよ」
惑書はすっかり平静になっている様子だったが、維光はあのやぶける幻聴がまたやって来ないかと不安。
「じゃあ顔は? それも誰かさんを真似してるのか?」
「まあね。ある程度の数人の顔を見て合わせたりはしていますわ。昔はもっと大人びた格好だったんだけど」
思い出したかのように残りのラスクをほおばりつつ維光は、なおも会話を絶やさじと問いかける。
「……本当に服とか着てないんだな、それ? それ全部でお前の体なのか?」
惑書の即答。
「ええ。この姿がそのまま裸」
少年は急にせきこんだ。
訊いては可けないことを訊いてしまった……!
「すっかり忘れていましたわ……あなたは男だった」
さして気に病んでいない顔でさらりと惑書。
「あ、ああ、別にそれはいいんだ」
これが普通の女性だったら蹴飛ばされても文句はいえない……。
「しかし……まだ数日だというのに、あなたはまるで数千年前から知っていた人間のように見える」
今度は惑書から会話をきりだす番。
「ぼ、僕が? まだ十七歳ちょっとだというのに」
「私には人間の永い経験があるから、分かるのよ」
惑書の不思議な顔だちに秘められたものを、維光は知りかねた。人間とは違い、顔から性質が分かるかどうか確実ではないから。
しかしそれでも――目の前にいるこの魔物が、人間の想像を越える冒険をしてきたことには何とも言えない重圧。
「なあ、そういう風に寄り添う風にしゃべってもらわなくても結構なんだ」
維光は、惑書の機嫌をうかがうようにして願う。
「こっちからすれば本当に大先輩だし。そんな風に気軽に話してくれると言葉がない」
「了解いたしました。ではやはり、話し方を――」
すると悲鳴が聞こえた。
「おびえるな! 金を出せ!」
カウンターの方で騒ぎ。
「抵抗すればどうなるか分かっているだろう? 早くするんだ!!」
マスクをつけた中年ほどの男がナイフを持ってカウンターに立っている。
客全員が緊張した眼でその情景を注視。維光はくるりと頭を回してこれにならうが、あのヘルメットは反対向きに座ったまま何の反応も見せない。
「わ……分かりました」
「おいお前ら!!」
男はこちらを向いて威嚇する。これ以上ないほどにつりあがった眼。
「連絡しようなんて思うな。もし隙を見せたらただじゃすまさねえぞ!!」
「主よ、どうしますか?」 口ではなく、心で伝える惑書。
「ちょっと怖いかな」 低い声。
だが、維光はちっとも威圧されてはいなかった。その口元には、得意げな表情さえ。
「だが、僕の力を見せられる時かも知れない。透と会った時の恥をすすげるかもしれないし」
「おや、一般人の前で行使者の力を見せてよいのですか?」
「もうやったじゃないか。竹屋町にさ」
「おいクソガキ!!」
いつの間にか維光の声がもれていたらしい。
「てめえ何をたぐらんでやがる!?」
声をあらげ、刃をひっさげ維光へと向かう。
「おじさん、あまり侮めない方が良いよ」
維光も立ち上がって、言いかえす。すでに心は緊張しつくしていた。
「僕には力がある。他の人にはない力が」
あの感触だ。のどの筋肉が独自に震えるのを感じる。
まさに呪文というべきものだ。普通の発話とは違う、何かの声が維光自身の『権威』から飛んでくる。
魔物に、自分の命令を実行させる、その力から。
「ただじゃおかねえ……この俺をこけにしたからには」
やれるだろうか、という不安。
やってみせるさ、と号ぶ強がり。相反した言葉が頭の片隅から片隅まで駆け巡る。
他の客が止まれとつぶやいていたかもしれない……。ただぼそりと聞こえただけで。
男はとうとうきれて、床を踏み割り跳躍。
「まず、その顔を切り裂いてやる――!」
維光はそれまで固く結んでいた声を、ついに解放。
『鎖を持ってそこに伏せ。自分で自分を縛り上げろ!』
常とは違う、よく響く音色で維光の声はまわりを巻き上げた。
男は次の瞬間、突然やってきた白く光る鎖で体を何重にもからめた。
維光は目の前の対象になおも念じる。
『生かして殺すな死んではいけない。魂の根あればそれで十分』
自分の意思で発したのか、あるいは誰かにむりやり言わされたのか維光でも判じかねる。
強盗は白い鎖で行動が取れず、水面からはねる魚のように身をよじる。
恐ろしくかれたうめき声を挙げている内に、泡を吹き始めた。
『――解け』 維光は最後にもう一度。
白い光の列はすぐに消え、ほとんど息もなくけいれんを起こしかけている。
やりすぎたろうか、と維光は纔かに後悔した。透に対する恨みがあったからかもしれないが。
「な……何を……」
「あの、勘定をお願いします」
だが、今となってはどうでもよい。維光はそのまま何気ない顔面でカウンターの受付嬢にたのむ。
「あ……あ……」
強盗に襲われたことで、また魔物の力を目の当たりにしたことですっかり動転しているのだ。理性を取り戻すにはしばらく時間がかかりそう。
「六百円ほどだったと思いますわ」
後方から不安げな口調で惑書。
「ここか!」
すると警官二人が店に入って来て、強盗のそばに寄る。
「堂々と犯行を積み重ねてきたことだ。ようやく捕まえたぞ」
「あの、ならお釣りはいりません。きっとあなたにとってもとんでもないことでしょうし」
自信に満ちた優しげな顔で彼女にほほえみかける。
相変わらず他の客たちは急展開の続くこの劇場に茫然としているらしい。ヘルメットだけが維光と惑書にぼんやり視線を向けているようだ。
「あ、大丈夫です。たいしたことのない額でしょうし。じゃ!」
まるで石像だな。
「やったあ!」
維光は両腕を振るいながら惑書に誇る。
「これで透に顔向けできる! もう行使者としての素質も疑われずに済む! よし、元気が出たぞ」
惑書はおよそ正反対と言える表情。
なんという虚勢ぶりだろう。先代の主でさえ、このような見えすいた慢心などしなかったものだ。だがこれも幼い者の本性と言うべき者。その馬鹿げた性質から抜けきれない人間のあまりに多いこと。
「本当に、愚かな人」




