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1-10 心はいつだって不安

 千本は維光の様子に注目せざるを得なかった。竹屋町を突き倒した時の動揺ぶりといい、得体のしれない本といい、怪しげなことが多すぎる!

 できるならば胸倉をつかんで問いつめたい所だが――惜しいことに、授業中だ。

 教室ではもう一限目。先生がすでに板書を始めている。

 入った時、ほとんどの生徒は維光の方に目をやった――ように楓は思う。当然だろう。何の自覚もなく怪力を発生させた人間を疑わないわけがない。少なくともそれ以前は、維光はあんなたくましい奴とは想われていなかった。

 維光は席に座ってからも、茫然としていた。時々虚無(から)なままの透の席を見やることもあったが、一応教室の空気に適応しようとする努力もする様子があった。ノートを取りだしたり、鉛筆をにぎりしめたり。

 楓は維光ほど浮足だってはいない。元から臨機応変に心の状態を転じられる性分なのだ。教師が黒板に書く数式を解く方法を思いめぐらしていたし、以前出た宿題の内容についても思い出していく。

 それでもちらつくのは、維光の正体。透が突然現れ、消え去ったことへの眩惑(とまどい)もある。せっかく失踪の理由について訊けたかもしれないのに。ひょっとしたら、次があるかどうかも疑問だ。

 けれど、一つだけ分かったことがある。維光と透の間に、或種(なんらか)の敵意。

 ほとんど一瞬であったにせよ、透の顔の輪郭はややこけ、服はにおいを放っており、もう何日も家を出ているであろうことは明白だ。それだけなら、ただ透一身の問題として理解できる。なんとかして解決してあげなきゃ。

 維光の方はなぞ。一体、そこまで透を忌避すべき理由があったのか?

 単に維光が怖がっていただけではない、透も維光をまるで敵として見下しているような態度だった。あの二人があれほどそむき、離れ合う関係になるなどとはとても信じられないのだが。

 そこで脳裏に浮かぶのがあの(ほん)。ページがなかなか進まないなどと説明していたような。書が原因になっているのか。書に何が関わっている?

「おい、答えないのかよ楓?」

 気づくと隣席の御池(おいけ)(まこと)につめよられていた。

「わ、私の番だったの?」

 御池は筋骨たくましく頭も腕も大きい偉丈夫である。楓と並んでこのクラスの代表格と目されていた。

「さっきからすげえ遠い所を観てたろ。それで――」

 楓はやや(おだ)やかでない表情をしつつも、寡黙に立ち上がって一同の前に出る。

 そして振り返りざま、一瞬ながら維光の姿に目を止めた。

 維光は眠っているようにも見えた。周囲の人間の数人かはまだ少年に恐怖し、あるいは驚愕しているかのよう。当然だろう、誰一人状況を理解できていないのだから。

 あいつ一人を(のぞ)いては。

「この数式を解くにあたって私の考えは――」

 

「維光!」

 竹屋町は何とも言えない表情で教室に舞い戻ってきた。後遺症はないらしいが、その動きはややぎこちない。

 その脚はみな維光の足元へと。

「ご、ごめん! あの時は」

 その安否を気遣いながら、立って両手を前に震えさせる維光。

「いや怒ってるんじゃなくて、理由が訊きたいんだ。いつからそんな力を手に入れたんだよ」

 御池は竹屋町に視線を移し、それから維光に。

「ああ、俺だって机を何個も倒すような力は出せんよ。お前そんな肉体派だったとはな……」

 もう僕は人間じゃない。行使者だ。非常に微細で、しかし決定的な違い。

「僕だって愕いたさ! 自分にそんな力が宿ってたなんて!」

 竹屋町の瞳には不審さ。おびえているような感じも含まれている。

「そういやさっきお前廊下の中叫喚(さけ)びまわってただろ。あれは何だったんだ」

 妙に低い声が、維光の心筋を寒くする。

「え、そりゃ……」

 介入する惑書。

「ここで明かしてしまっても構わないのですよ?」

「いや、ここで言っちゃうわけにはいかないだろ。いくらばれないたって……」

 またもや失態、けどもう遅い。

 数秒の間をおいて、御池が両腕をゆらして錯乱(とりみだ)す。

「うおお! まさか千本さんに打ち明けられたとか!?」

「はあ!?」 千本楓。

「はあ!?」 四条維光。

 永歌は目も口も円形に化す。

「それ……本当ですか!?」

「ほら……あたりを気にしていないせいでこうなる」

 惑書のあざけりはやけに()さる。

「ち、違うだろ!」

 そんなこっけいな話ではないのだ。あの時透が維光に見せた顔はまぎれもなく行使者としてのそれだった。もし少しでも対応がおくれていたら惑書を奪われていたかもわからない。想像すると、本当に味気ないことなのに。

「千本、それって事実(ほんとう)なのか?」

 竹屋町はほとんど笑いさえふくんだ声で尋ねる

「ち、違う……」 あっけにとられて顔を背ける楓。

 ここで透のことを言うべきなのだろうが、あまりに重大な問題だ。維光が語りたがらないのだから、自分も下手に出ない方が。

 ひそひそ声が四方から始まる。憶測が憶測を呼ぶ。維光にはその一つ一つが聞き捨てならなかった。

「黙れよ!」

 維光の声で空間が静まり返った。

「僕は今そういうことを軽く受け流せる状況にないんだ。いいから、もうこのことについては黙ってくれよ!」

 もしかしたら、行使者の力でみんなが吹き飛ぶのではないかと危惧もしたが、それは杞憂。

 竹屋町は冷や汗をかきつつ身構え、永歌は青くなっている。

 しばらく黙っていた御池がやがて痛切な表情で、

「すまん。俺が悪かった。冗談であんなこと言うから……」

「いや僕も……舌が足りなかったよ」

 維光はそれでも、周囲に対し忌み嫌うような視線を隠しとおすことはできなかった。

 今や自分は、『知っている』人間なのだ。まわりとは違う。それを秘密にし続ける重さ……。

 楓は何も言わずに、維光の表情を冷静になろうとする気分で観察している。

 やはり維光には何かがひそんでいる。そうとしか思えない。もし知られれば、絶対に不都合な何かを。

「じゃあ……なんだ? あの時俺を突き倒したのは……ただの偶然ってわけか?」

「偶然だと思いたいけど……」

 維光はしかし、実のところこれ以上詮索されるのは耐えられなかった。どうせお前らに説明しても理解されないだけ。

「ならいい。結構このことについて引け目らしいからな」

 原因を知ることができないままだったので、竹屋町は不服そうだった。

 楓はどこか安心している。もし維光が透のことを口に出したら、それは先生たちにも伝わって不毛な騒ぎを引き起こしかねなかっただろう。こうして彼女は維光の『捜査』に専念できる。

 それにあいつらのことを一番分かっているのは私を措いて他にない――楓はそう自負する。

 御池みたいな単細胞に任してはおけない。私にしかできないことなのだ。彼らの心の深層に入りこむ、とうことは。

 すると、永歌が突然こう切り出した。

「……実は、あの時……」

 だめだ、と楓は、それを目で制した。鷹のように鋭い眼で。

 永歌はその冷たさに思わず息をのみ、口を再びとざす。

「透はまだ来ないかなあ……」

 御池は頬杖をつきながらぼやく。維光も楓も永歌も、それに反応しようとして、しかし動かなかった。

「数学の宿題、あんたまだ提出してないからね」

 自分に向けられた言葉だと理解するのに、数秒。

 維光はまたもや焦る。

「えっと……先週の?」

 錯誤(まちがい)ない。楓はやはり自分を疑い続けている。

「ええ。プリントをまだ出してなかったでしょ? 成績に響くわ」

「そりゃ大事(おおごと)だ……」 御池はごまかすかのようにそっけない口調。

 誰も分かってくれない、分からせてはいけない――この孤立ほど、心に凛として響くものはなかった。


「あれでよかったのですか? 主よ」

 惑書が後ろにくくりつけたかばんから尋ねる。

「他にどうしようもないだろ。お前と出会ってから異常現象の連続なんだから」

「もし私との生活が不思議なことで満ち満ちていましたら、これより幸福(しあわせ)なことはございませんわ」

「だ、誰がお前との遭遇(であい)を嬉ぶもんか!」

 しかりつけるように叫ぶ維光。

「僕は望まずしてこんな役目を押し付けられたんだ。何の罪も莫いのに!」

「ええ、あなたに罪はない。しかし責務はある」

 惑書は人間そのものの声で述べる。

「行使者はみんなそう。どうして自分が闘わねばならないのか納得せずに何度も苦しんだ。その生活から脱出(ぬけだ)しかけたこと数回じゃない。でもみんな、最後はあきらめて自分の置かれた場所に帰っていくのね」

 疑わしくは感じる。一体、こんな罰みたいに下された運命に従順になるやからがいるのかどうか。

「……僕の父さんもか?」

 緊張した声で。

「現にあなたが稚児(こども)だった時がそうだった。契約したころも。確か……八十年くらい前だったかしらね」

 答えにハッとして、路上に車輪を停める。前に注意を向けるべく。

「八十年前? 父さんって……そんな長寿(ながいき)……!?」

 どう見ても、あれは三十路を越えるほどの男性の姿だった。いや――父さん自信そう告げていたはず。

「行使者は人とは違うってさんざん曰ったでしょ……」

 知らないことが多すぎる……。

 維光は、改めて自分を閉じこめている状況の特異さに感嘆するほかない。

 今ここで父の過去について訊くこともできたろうが、さすがにそれをこの場でやるのははばかられた。

 実際にはそれに手を出したいところだけれども、心の納得がいかない。知ったら衝撃を受けるかもしれない。怖い……。

「父さんの姿はあれですっぴんだよな?」

 自分でもすっとんきょうと思わずにはいられないことを口に。

「その理解でいい。行使者に年齢なんて関係ないんだから」


「ただいまー」

「あら、おかえり」

 七海はちょうど食器を洗っている最中。

「冥い顔ね」 振り向きざまに。

 言葉を失う維光。無論。今日だけでも二個(ふたつ)驚愕する事件(できごと)があった。

 惑書の言う『呪文』の発動。そして、父の過去。

 決して母に教えてやれることじゃない。

「そうかな」

 後頭部をかきながら、なんとか動揺を(おさ)えようと。

「言えないのね」

 維光は腕を下し、その場に立ちつくした。

 もし母がこのことで問いつめて来たらどうしよう。一体何を答えればいいのか、予想も。

「色々ありすぎたしさ」

 精一杯の返事がこれ。

「やっぱり、私なんかじゃ寄り添えないのね」

 七海はまた背中を見せて、つぶやく。

 いつもと変わらない様子だからこそ、この言葉は身に染みる。

「そんなことないよ!」

 維光は苦しかった。母は知っているのだ。魔物と行使者の秘密を。たとえ、それが子と同じ部分的なものであったにせよ。

「僕はそこまで冷たい人間になった自覚は……ない」

 この時に思い知らされるのは、親子関係というものは結局見せかけでしかない、という事実。

「あなたは、契約……したんでしょ? その書と」

「え……?」

「昨日帰ってきた時に分かったのよ。これは……盛永と会った時とよく似た気配」

 静か、そしておだやかな口調で。

「勘はそんなに(するど)い方とは思ってないけど……でも、気づいたのね。維光もまた、盛永と同じ身になったんだなって」

「それって――つまり……」

 恐怖しかなかった。

 もしかしたら、母はもう以前のような態度で僕を遇してくれないかもしれない。

「あなたも私から去っていくのかもね」

 かばんを床に落として、(さけ)ぶ維光。

「ち、違う! そんなはずない!」

 七海の沈着な声が、だんだん不気味に響いてくる。

「ごめんね。私は心が強い方じゃないから……こうして悲観的な気持ちになってないと落ち着かないの……」

 なんだかいつもの母親ではないような気がする。普通なら怒っていいはずだし、泣いてもいいはず。

 維光に罪深い感情がにじりよる。ひょっとしたら、行使者になったことで周囲(まわり)の人間も変わってしまったのではないのか。

「僕には……何が正しいのかわかんないよ」

 重苦しい自責の念につぶされ、うなだれるしかない。

「以前とは違う存在として生きている……それ自体が、もう」

 しばらく無言の世界。想像以上に厳しい静寂。

「やっぱり、現実を受け入れられないでいるのは私の方ね」

 ようやく口を開いたのは母。

「これこそが自分の道なんだと認識して、その上に立って生きられればそれ以上の楽はないんだけどね。ねえ維光、今日はシチューを作るのをてつだってくれない?」


「なんだかなあ」

 維光が扉をぱたんと閉めた時、かばん、チャックの隙間から白い光が飛び出した。

 まばゆいばかりの速さで一定の形に集まるや、それは人間の少女の姿を採る。

「まだ迷っているのですか、主よ?」

 惑書は壁に背を(もた)れながら問うた。

「迷うにきまってるよ。母さんがあんな状態だ。それに透は明確な敵意を示してきてる」

 母が行使者の世界に関心をよせているとは到底思えない。むしろ、何かを悟ってほうけているとしか。

 透は一体次にどのような形で襲撃をかけてくるか予想もつかない。あいつは惑書を奪おうと躍起になっている。今回のような戦闘になることも必然。

「ああ、八方ふさがりだ」

 維光は頭を両手でかかえつつ、ベッドに飛び込む。

「そんな風になげいても、現実は変わりませんよ」

 維光はきっとした顔を毛布にうめる。

「じゃあ、どうしろってんだよ」 投げやりな口調で、惑書をにらむ。

「いきなり本題について思考をめぐらしても解決しませんわね……」

 あごを手ではさみながら、思慮深そうに。

「そうそう。明日にでも私と食事に行きませんか?」

「しょ、食事?」 なんという現実逃避。

 今はそんなことにかかずらっている場合では。

「あえて考えない時間を作って憂さをのがれた方が、かえって冷静に物事を察られるといいますしね」

「それで、どこに食事に行こうってんだ」

 魔物はそもそも食事など摂れるのだろうか。どうでもいい疑問。

「そうね……カフェとか? 最近になって聴いた場所なんだけど」

 維光は、どうにもがえんじがたかった。

「コーヒーをすするのが趣味なのか」

 緊張感は消えない。消して可い理由なんてあるわけ。

「主が望む場所ならどこでも。私はただ提案するだけですから」

 維光は狐につままれた気持ち。

 行っても行かなくても何も変わらない。それなのに、この僮僕(しもべ)ときたらそれを強制するまでもなく、あくまで主人の裁量に任せるのだから。身勝手といったらありゃしない。

「じゃあ、あんたの言葉にのるとしよう。そもそも、まだ会ってから数日しか経ってないしな」

 母さんの姿を近づけることなく、一度二人でじっくり語り合う時間が欲しい。

「ありがたきしあわせ」

 惑書はいつも通り、人間以上に人間的な動作でほほえんだ。

「でもお前、その服装で外に行くのか?」

「まさか。状況に()わせて変えますわ」

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