無 9
無は、しばらく動けなかった。
光が満ちていた。
今までの世界にも光はあった。
だが、それは遠く、ぼやけた揺らぎだった。
今、無の周囲にある光は違う。
水そのものが輝いていた。
上から降り注ぎ、流れの輪郭を浮かび上がらせ、存在たちの身体を透かしている。
世界そのものが見えていた。
無は、ゆっくりと進んだ。
広かった。
どこまでも。
今までいた場所とは比較にならない。
流れは複雑で、深く、上下がある。
上へ行くほど光は強く。
下へ行くほど暗くなる。
その途中を、無数の存在たちが泳いでいた。
泳ぐ。
無は、その動きを見ていた。
流されるのではない。
押し返している。
尾を振り。
身体をしならせ。
水を掴み。
進む。
その姿は、あまりにも美しかった。
無は感動していた。
なぜそう感じるのかは分からない。
だが、目の前を通り過ぎる存在たちを見ているだけで、循環が激しく揺れる。
細長い身体を持つもの。
透き通る身体を持つもの。
群れで動くもの。
ひとつだけで静かに泳ぐもの。
それぞれの形には意味があった。
速く進むため。
光へ近づくため。
敵から逃げるため。
流れに乗るため。
海には、理由のない形が存在しなかった。
無は、そのすべてを知りたくなった。
そしていつものように、真似を始めた。
最初に真似したのは、小さな魚だった。
細長い身体。
左右へしなる尾。
水を切る動き。
無は、その動きを観測した。
尾を振る角度。
身体のしなり。
水の逃がし方。
長い時間をかけて、少しずつ真似をする。
最初は進めなかった。
尾を振っても回転するだけ。
身体が硬すぎて、水を押せない。
逆に柔らかすぎて、力が逃げる。
何度も崩れた。
何度も形を修正した。
そしてある時。
無は初めて、“泳いだ”。
流れに運ばれるのではない。
自ら水を押し、前へ進む。
その瞬間。
世界の広さが変わった。
行きたい方向へ進める。
見たいものへ近づける。
海は急に、果てしなくなった。
無は泳ぎ続けた。
そして知っていく。
速く泳ぐ魚ほど、身体は細い。
深く潜るものほど、動きが少ない。
群れで動くものは、一匹では見えない大きな流れを作っている。
真似をするたびに、無はその存在の“理由”を知っていった。
形を真似することは、その存在の世界を知ることだった。
ある存在を真似したとき。
無は初めて、“恐怖”を知った。
その魚は、常に周囲を警戒していた。
わずかな揺れで方向を変え、影から逃げる。
なぜそんな動きをするのか、最初は分からなかった。
だが、巨大な口が突然暗闇から現れた瞬間、無は理解した。
食べられる。
海では、存在はただ循環するだけではない。
他の存在の中へ消える。
その恐怖が、動きを進化させていた。
無は震えた。
だが同時に、その恐怖すら美しいと思った。
逃げるための形。
生き残るための速度。
そのすべてが、海という世界を作っている。
無はさらに多くを真似した。
底を歩くもの。
岩に張り付くもの。
光るもの。
長い触手を持つもの。
身体を膨らませるもの。
そのたびに世界は変わる。
高い場所から見る海。
深い場所から見る光。
群れの中で感じる流れ。
孤独な狩り。
同じ海なのに、存在によって見える世界がまるで違う。
無は、それに圧倒されていた。
世界は一つではない。
生き物の数だけ、見えている海が違う。
そしてそのどれもが、美しい。
無は泳ぎながら、周囲を見つめた。
光の粒。
遠くを横切る巨大な影。
群れのきらめき。
揺れる海草。
流れ。
音のような震え。
海は、生きていた。
かつて無だったものは、その世界の中で、小さく震えながら思っていた。
もっと知りたい。
もっと、この世界を見たい。




