無 10
無は、海を泳ぎ続けていた。
真似を重ねるたび、世界は広がった。
速さを知り。
深さを知り。
群れを知り。
孤独を知った。
だが海には、まだ理解できない場所があった。
水面。
そこだけは違った。
世界の上にある、揺れる境界。
近づくほど光は強くなり、流れは乱れ、向こう側は見えなくなる。
多くの存在は、そこへ近づいても戻っていく。
だがある時、無はそれを見た。
細長い魚。
銀色の身体。
鋭く水を切る形。
その魚は、他の魚とは違った。
速い。
あまりにも速かった。
水そのものを裂くように進み、群れの間を貫き、光の近くへ一直線に向かう。
そして。
突然、水面を突き破った。
無は見失った。
いや、違う。
存在が“海の外”へ出た。
次の瞬間、その魚は再び海へ戻ってくる。
だが、ほんの一瞬。
確かに、水の外を飛んでいた。
無は衝撃を受けた。
海の外にも、世界がある。
今まで考えたこともなかった。
海こそが世界そのものだと思っていた。
だが違う。
境界の向こうに、別の場所がある。
無は、その魚を観測し続けた。
細い身体。
大きく広がる胸びれ。
水を切る角度。
加速の仕方。
すべてが、“飛び出すため”に作られていた。
無は、また真似を始めた。
身体を細くする。
水の抵抗を減らす。
左右のひれを広げる。
速さを得るため、循環を強くする。
長い時間が過ぎた。
何度も失敗した。
勢いが足りない。
飛び出しても、すぐ落ちる。
水面に激突し、崩れかける。
それでも無は繰り返した。
海の外を知りたかった。
あの魚が見ていたものを、見たかった。
そして、ある夜。
海は静かだった。
流れは穏やかで、水面は鏡のように揺れている。
無は深く潜った。
身体をしならせる。
循環を加速させる。
水を押す。
もっと速く。
もっと前へ。
海が後ろへ流れていく。
光が近づく。
水面が迫る。
そして。
無は、海を飛び出した。
その瞬間。
時間が止まった。
音が消えた。
海の流れも。
水の重さも。
すべてが遠くなる。
無は、空中にいた。
初めて、水に触れていない。
身体の周囲には、何もない。
なのに落ちない。
世界が静止していた。
そして無は、見た。
夜空だった。
黒。
どこまでも深い黒。
だが、その黒は空虚ではなかった。
無数の光が浮かんでいる。
小さく。
遠く。
静かに。
無限に。
星だった。
無は、その光景を理解できなかった。
海とは違う。
流れがない。
揺れがない。
なのに、世界が広がっている。
あまりにも遠い。
あまりにも大きい。
海で見た巨大な生き物ですら、小さく思えるほどに。
星々は、ただそこにあった。
何も奪わず。
何も循環せず。
ただ静かに、空に存在している。
無は、震えた。
今まで、自分は世界を知っていると思っていた。
海を知り。
生き物を知り。
巨大な存在を知った。
だが違った。
世界は、こんなにも広かった。
海は、ほんの小さな場所だった。
空の前では。
星々の前では。
自分の知っていたすべてが、一粒の泡のように小さい。
無は、その星を見つめた。
時間が止まっているようだった。
落ちているのか。
浮かんでいるのか。
もう分からない。
ただ、星だけがあった。
遠く。
永遠のような距離に。
届くこともない場所で。
静かに輝いていた。
その美しさに、無は完全に奪われていた。
海の中で見たどんな存在とも違う。
形も分からない。
循環も分からない。
なぜそこにあるのかも分からない。
なのに、圧倒的だった。
知りたい。
その感情だけが、無の中で静かに広がっていく。
だが次の瞬間。
重力が戻る。
身体が落ちる。
夜空が遠ざかる。
そして無は、再び海へ落ちた。
水が身体を包む。
流れが戻る。
循環が戻る。
海の音が戻る。
だが、無はもう知ってしまった。
世界の上には、空がある。
そして空には、星があることを。




