(第七十話)神の憑依
テパは再び体勢を整え、ツィツィミメに斬りかかった。
「はあああああぁぁっっっっ!!」
ツィツィミメは、偶然にも一列に並んでいた。
テパはその隙を見逃さず、閃光のように彼女らを薙ぎ払う。
「——あ……」
シンらが呆気に取られている間に、テパは全てのツィツィミメを倒してしまった。
「これでもう……大丈夫……」
限界まで体力を使い果たしたテパは、息切れする余裕すらなくしていた。
彼の足元には、剥がれた皮膚がばらばらと落ちている。
「……!?」
じっと見ていたシンの前で、皮膚に変化が起きた。
「燃え……てる?」
火などどこにもないのに、剥がれ落ちた皮膚が、内側から淡く燃え上がっている。
やがて皮膚は青白く静かな炎に包まれ、音もなく消えた。
「……?」
シンが燻る炎を見つめると、不意に何かの香りが漂ってきた。
焦げた匂いではなく、甘くてどこか神聖ささえ感じる香りだった。
「……??」
シンは混乱しながらも、意識を集中させて匂いを嗅ぐ。
「お前も何か感じるか?」
隣にいたチャアクが、シンに顔を向ける。
大きな鼻をひくひく動かしている。
「ああ。この匂い——」シンははっとした。
「香だ」
その言葉にチャアクも目を開き、二人は互いの顔を見つめる。
(あっ……)
その時、チャアクの肩に乗っているピルトの顔が僅かに青ざめた。
だが、チャアクもシンもそれに気づかなかった。
◆
その頃、テスカトリポカは一部始終を空の上から見ていた。
「……面白い」
彼が最も強い関心を示したのは勿論テパだった。
ツィツィミメが暴れる姿など最早目に入っておらず、ただ一人の少年に釘付けになっていた。
「あの少年……やはり只者ではないな」
この時、闇の神の脳裏にはある光景が蘇っていた。
テパがシンの血を飲み、彼と同等の力を得た時の記憶である。
「あの紋章……間違いない、あれは“あいつ”のものだ。だが——」
テスカトリポカは皮膚が次々に剥がれ落ちるテパに眉を顰めた。
「おかしい……遠い昔に空に昇って以来、”あいつ”は贄子を一度も得ていない。今になって急に必要になったとも、考えにくい」
不可解だ。
原因を突き止めようと思ったが、その為には折角止めたこの夜を終え、再び朝を迎えさせなければならない。
ともすれば、”あいつ”と直接戦うことになるかもしれない。
「くっ……」
無意識に拳を握り締める。
自分には絶対的な力があると自負しているテスカトリポカだが、もし本当に戦うことになれば——勝てるという確信は持てない。
真正面からぶつかれば歯が立たない。
そんな懸念ばかりが頭に疼く。
『原初の四柱』の一柱であり、人間から”全知全能”と畏れられる自分が、この様だ。
「どうすればいいんだ……っ」
珍しく逡巡して頭を抱えた時。
(——!)
胸元で黒光りする小さな鏡が震えた。
鏡は奇妙な煙に包まれ、その奥にいくつもの人影を浮かび上がらせる。
嘗て自分が”家族”と呼んでいた者たちの影だ。
「わかる……わかるぞ……」
闇の神は目を見開く。
抑えきれない興奮の笑みが、顔に浮かぶ。
「この未曾有の事態に、あいつら皆動揺しているんだ」
——答えが見えた。
「そういうことか……!」テスカトリポカは愉快に笑う。
「“人間を食い過ぎる”などとほざいて俺を追い出した奴ら、今に見ていろよ」
憎悪と歓喜が入り交じり、口元が歪む。
「必ず後悔させてやるからな」
ほくそ笑んだ闇の神は立ち上がり、煙と共にどこかへ姿を消した。
◆
テスカトリポカが姿を消してから、世界のあちこちで明らかな異常事態が起きていた。
「あ——」
——っ。
右往左往していた一人の男が、突然立ち止まって空を見上げた。
そしてその直後、ばたりと倒れた。
顔は伏せられ、表情は見えない。
「……」
程なくして、男はがばりと起き上がった。
その目は、確かに前を見据えている。
だが、倒れる前の面影が消えている。
まるで、人間ではなくなったかのようだ。
黒かった瞳は今や、異様な光を放つものと化している。
赤く染まった目尻に、白い瞳孔。
”神の目”だ。
「……」
男は言葉もなく歩きだし、その場を去った。
◆
男は暫く歩いた末、最初にすれ違った子どもを殺した。
(こいつの方が器には相応しい……)
男は口を少しも動かさず、声だけを響かせる。
(これは……もう耐えられなくなったようだ。一日さえ持たないとは)
他人の体を使い捨てるかのような口調だった。
口は動いていないのに、どこからか溜息が漏れる。
この時、男の体に新たな変化が起きていた。
褐色だった肌色が、闇にも似た漆黒へとみるみる染まっていった。
顔は——黒と黄色の縞模様になっている。
(次はお前だ)
次の瞬間、男の体から皮膚が剥がれていった。
突風に煽られる枯葉にも似た、呆気ない散り方だった。
皮膚が全て散れば、すぐにその下の肉、そして骨が同様に散っていく。
最早塵でしかない。
男が存在した証は、世界のどこからも消えてしまった。
「……さて」
今度は子どもが倒れ、そしてまた起き上がる。
その目は男と同様、赤い目尻と白い瞳孔を宿している。
「行くか。あの“波”が来る前に間に合わせないとな」
子どもは足を踏みしめながら歩き去った。
◆
剥がれた皮膚から香の匂いが消えた頃、テパは力を失って倒れた。
「テパ!」
シンが駆け寄る。
伸ばした腕に、テパの重みがどっと伝わった。
「ん、ん……」テパがゆっくり瞼を開ける。
「テパ、大丈夫か!?」
「うん……大丈夫」
その返事に、シンはひとまず胸を撫で下ろす。
——だが。
(ゴオォォォォ……)
安心したのも束の間、遠くで何かが吠える声が響く。
明らかに、人のそれではない。
「くっ……また奴らか」
歯噛みするシン。そこへチャアクが歩み寄る。
「ここもじきに狙われる。早く離れよう」
「ああ」シンは頷いた。
燃え盛る炎で不自然に明るい空の下、シンらはまたしても当てのない逃避行に身を投じることとなった。
◆
その頃、鄙びた広場にて。
「……!」
整然と並んだ金像を掃除していたシペは、何かを感じて手を止める。
そしてそのまま、広場を飛び出した。
◆
シペはある村に辿り着いた。
「こ、これは……!?」
村の至る所に、人間の死体が転がっている。
建物以外には死体しかない——そんな場所さえある。
「由々しいことになったな……」
”人間が大量に死んでいる”——それ自体を惜しんでいるわけではない。
人間など、シペにとっては世界を成り立たせる為の数多くの要素の一つに過ぎない。
だが、これ程の数が一度に失われるとなれば話は別だ。
世界の均衡が崩れる。
均衡が崩れれば、いずれ神々にもその影響が及ぶ。
「……」
転がる死体を悼んではいない。
ただ、世界という巨大な仕組みの一部が大量に失われていることを警戒している。
「まさか……」
誰の仕業か、見当はついている。
「奴を、止めなければ」
シペは死体の一つへ歩み寄る。
そして、その身体をじっと観察した。
「これは……不適だ」
諦めて別の死体へ、さらにその隣の死体へと視線を移す。
この中に、自分が使える“器”がないかを——。




