(第六十八話)止まった夜の惨劇
その頃、地上は月の揺れを確かめるのもままならない事態に陥っていた。
「お前たち! どんどん火を放ってやりな! 人間と、忌々しい神の血族どもを一人残らず焼き払うんだよ!!」
コヨルシャウキの命令で、魔女軍団が一斉に火を放つ。
無数の炎が夜空を裂き、雨のように降り注ぐ。
村が燃える。
都が燃える。
家々が燃え、人々の暮らしが、思い出が、何もかもが火柱の中へと呑み込まれていった。
それでも、何人か逃げた者がいた。
その様子を、じっと見つめる者たちがいる。
「ツィツィミメ! 長いこと牢にいて、腹が減っただろう?」
コヨルシャウキが声を掛けると、ツィツィミメはゆっくりと振り向いた。
「あいつら纏めて食っちまいな!!」
その言葉を合図に、今まで微動だにしなかったツィツィミメが一斉に下界へ降りた。
コヨルシャウキが指差す先には——必死で逃げる人間がいる。
◆
「わあぁっ!!」
至る所で、人々の悲鳴が断末魔に変わった。
《ガァァァァァ……!》
逃げ惑う人々を、ツィツィミメが漏らさず捕らえる。
逃げる暇も、抵抗する暇も与えず頭から喰らいつき、肉を裂き、骨を噛み砕く。
だが奇妙なことに、彼女らは心臓だけは喰わない。
それを興味深く見ていたのが、テスカトリポカだった。
「お前ら、それはいらないのか?」
ツィツィミメはその声に振り向き、唸りながら首を縦に振る。
「そうか」テスカトリポカは、口元を僅かに吊り上げた。
「なら俺によこせ。出してやった借りを返して貰おう」
そう言われると、ツィツィミメは心臓を鷲掴みにして、テスカトリポカの手に落とした。
ボタッという音と、流れ出る血、そしてまだ生きているかのように掌で動く様が、恐ろしく生々しい。
しかし、それこそが闇の神を喜ばせるものだった。
「あれだけ人間を貪り喰って、これは喰わないのか。よくできた奴らだな」
ボコりと開いた眼窩——それで前が見えているのかは定かではないが——ツィツィミメはそれを一様に闇の神へと向けた。
光一つない、果てしない闇の深淵は語る。
”これは始まりに過ぎない”、と。
”事態は、今よりも一層混迷を極める”——と。
◆
「素晴らしい……力が漲ってくる……!!」
望んでいた、生粋の人間の心臓。
冥界に毒されていない、赤々とした美しい器。
それが、労力をかけずに、次々と手に入る。
それだけでも小躍りしたくなるのに、齎される力が予想を超えてくるとなれば——。
「これほどとはな……!」
自分でも、こんなに胸が高鳴る自身の姿が信じられないくらいだ。
「メストリの動きは止めた。あいつが玉座へ戻らなければ、世界は永遠に夜のまま、明けることはない」
僅かに輝く、暗い光。
その奥で、テスカトリポカの目が爛々と輝いた。
眼前に広がるのは、果てのない闇。
その中で唯一、血にも似た赤い光だけが、時折、微かに瞬いている。
「終わりなき闇——まさに俺に相応しい!」
テスカトリポカは恍惚とした表情を浮かべた。
「ハハハハハ!!!」
自らが最大限の力を発揮するのに、これ以上ない程の好都合な状況が生まれた。
闇の神は、笑いが止まらくなった。
◆
その頃、月にて。
(私は……私は……)
メストリは動きを封じられている。
目の前には確かに玉座がある。
あとほんの少し歩けば、確実に座れる。
なのに座れない。
体が動かない。
このままではどうなるか、自分が一番わかっている。
だが今のメストリには、それを考える余裕などなかった。
(私はあの時負けた。侮っていたナナワツィンに最後の最後で負けた。だから——)
——太陽になれなかった。
◆
(思えば……あの時から、全ては始まっていたのかもしれない……)
目の前で、炎が天にも届かんばかりに燃え上がっている。
易々と飛び込めると高を括っていたが、実際には足が竦んだ。
四度も機会があったのに、一度も飛び込めなかった。
(うぅっ……)
横目に映った、驚きと呆れの入り混じった家族の顔を、今でも鮮明に覚えている。
鏡などなくとも、当時の自分がどんな顔をしていたのか、容易に想像がつく。
思い出すだけで恥ずかしい。
(嘗て私は思っていた……派手と贅沢を極めた者こそが、あらゆる場において勝つのだと。自分こそが至高の存在になれるのだと……)
その思い込みは、現実に容赦なく否定された。
あの時と、今と、二度にわたって。
(私は……私は……)
あまりにも情けない。
ナナワツィンに負けて、それでも辛うじて得られた、月神の座が泣いている。
それでも、どうすることもできなかった。
◆
魔女軍団が地上を襲う少し前。
「ふぅ。ここならいいだろう」
消滅する世界から逃げていたシン一行は、人はおろか獣の気配すらない、静かすぎる森で休んでいた。
木々の隙間から見上げた空には、月が浮かんでいる。
シンはそれを、眉間に皺を寄せてじっと見ている。
「シン、どうしたの?」テパが尋ねる。
「見ろ、あの月」
「あれがどうかしたの?」
「おかしい……何だか、霞んで見える」
「霞んでる?」
「いつもなら、もっと輝いているのに」
「……ふーん……」
シンに言われても、テパには今一つピンとこなかった。
月の輝きは、いつもと大して変わらないように見える。
それでもずっと見ていれば、シンが言う通り、何かおかしいと気づけるかもしれない。
そう思って目を凝らした時のことだった。
「……ぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
平穏な森の空気を裂くように、遠くから人間の悲鳴が聞こえてきた。
「!!??」
シンたちの表情が、一瞬で変わる。
余裕などない。
シンとテパは即座に武器を構え、チャアクも身構える。
ピルトも、いつもの愛らしい姿から一転、警戒するように周囲を見回した。
「ぁぁぁぁぁぁああああああああ!!!!!」
悲鳴が、近づいてくる。
一つではない。複数の声が重なっている。
何かから逃げている。
命からがら、こちらへ走ってきている。
やがて木々の向こうから、人影が現れた。
「うわぁぁぁっっ!!」
逃げてきたのは――人間たちだった。
顔は恐怖に歪み、息は荒く、足取りもおぼつかない。
一体、何が起きているのか。
シンたちが助けようと踏み出した、その時——。
《ガァァァァァ……!!》
暗闇の中から、異形の影が躍り出た。
「え——」
シンが声を漏らす。
次の瞬間、目の前で、逃げてきた人々が次々とツィツィミメに喰らいつかれた。
「うわああああああっ!!」
「助け——」
悲鳴は、最後まで続かなかった。




