(第六十六話)世界が無と化してゆく
シン一行は進んでいた。
どこまでも伸びる道の上を、ただひたすらに進んでいた。
「はぁ〜ぁ……」
誰からともなく大きな溜息が漏れる。
サクべの上と未舗装の道。
どちらをどれだけ歩いたかわからない。
何回太陽と月の入れ替わりを見送ったかも覚えていない。
それでも——特にシンは、長年自らの足で各地を巡った身として、どうしても違和感が拭えない。
「おかしいな……どこにも村が見えない」
つい先程水を飲んだばかりだというのに、舌が張り付くように渇いている。
足も、棒などという生易しいものではなく、枯れ枝と化したようにガクガクと震えている。
「何で……? 何で誰にも会わないの……?」テパは息を切らしながら問う。
「妙だな……私にも全く見当がつかない」チャアクは大きな首を傾げる。
「ピルトは……?」
問われたのはわかる。でもピルトは黙っていた。
(僕にもわからない。でもこの感じ……アレに似てる)
ピルトが思い出していたのは、太陽に座する者が交代したときのことだった。
風が吹き荒れたり、空から火の玉が降ってきたり、天地の全てが水で覆われたり。
その度に人間が巻き込まれ、骨になるか、他の生き物になって生き永らえた。
当然、今はそのようなことが起きているわけではない。
だが——どういうわけかピルトはその時のこと——世界そのものが終わりを迎える時のような不安を掻き立てるのだ。
(どこかへ移ったんじゃない。本当に消えちゃったんだ……)
思い出せば思い出す程、覗き込んだ深淵の底から嗤われるような恐怖。
体に吹く冷たい風に、桃色の小さな体が震える。
(何なんだ……これ……)
ピルトは、誰にも気づかれずに怯えていた。
◆
それでも、一行は歩き続けた。
「この先に誰かいる。きっといる。そう信じよう」
シンは仲間を鼓舞しながら先頭を切って歩く。
しかし、胸の奥の違和感は消えない。
人がいると信じなければ足を動かせないと、シンはわかっていた。
「……!」
シンは足を止める。
「これは……」
目の前に、とても鋭角的な曲がり角が現れた。
先がどうなっているのか、進行方向からは全くわからない。
「妙だな……道を無理矢理曲げられたようだ。でもこの先に、誰かいるかもしれない」
シンはそう信じ、止めた足を再び動かした。
「……おい」
たった一歩で、進めた足が止まった。
「……嘘だろ……?」
言葉が出ない。
「えっ……?」
その背中越しに前を見たテパも、言葉を失った。
目の前に広がっていた光景を理解するまでにかかった時間は、ほんの数秒。
だが、その数秒が永遠にも感じられた。
「何も……ない……??」
それは単に人気がないという意味ではなかった。
目の前には一面真っ白な霧、それだけが広がっている。
人がいない。
動物もいない。
草木もない。
鳥の声も、水の音もない。
生命の気配そのものが、完全に消えている。
否——生命だけではない。
山も、川も、空さえも——。
世界の面影そのものが、そこから切り取られていた。
「これは何なんだ……? どこへ続いているんだ……??」
シンは恐る恐る足を踏み出す。
ここまで何もなくとも、流石に地面くらいは続いているだろうと思ったのだ。
——が。
「ぃっ!?」
足先が、何もない空間を踏んで反射的に引っ込んだ。
「駄目だ! この先には足場がない!」
振り向きざまに叫ぶシンの顔を見て、テパは進めかけた足を止める。
「戻ろ——」
その瞬間、シンの言葉が切れた。
——ない。
何も、ない。
テパ、チャアク、ピルトが、白い霧の中にいる。
それ以外は——空も、地面も、道も、何もかもがない。
「シン! これは罠だ!」チャアクが叫ぶ。
「このままここにいたら、私たちも消えてしまう!」
チャアクの声には、明らかな焦りが滲んでいた。
◆
「ええっ!?」
シンとテパは、目を合わせて動揺する。
(チャアク)
「!?」
耳元の微かな声に、チャアクは驚いて振り向く。
(僕たちを乗せてここから逃げて。力は貸すから)
「でもどうするんです!? 道は消えています!!」
(あるよ)
ピルトが小さな手で指す先には、青い空と緑の木々、そしてサクべと思しき白亜の道があった。
しかし、その風景を押し潰すかのように両側から霧が迫っている。
道が閉ざされるまで、もう時間がない。
「テパ! シン! 乗れ!!」
チャアクは駆け寄ってきた二人をさっと背に乗せ、狭まりゆく風景目掛けて飛び込む。
当てはない。
ただ――地面が見える場所へ。
木々が残っている場所へ。
空が見える場所へ。
何か一つでも、この世界がまだ存在している証を残している場所へ。
そこを目指し、ひたすらに走った。
◆
一行が霧から逃げるうちに、いつしか日が沈んだ。
「さてと、出るか……」
一行の遥か上空。
そよ風に乗って、誰かの気怠げな声が響く。
「変わらないな、何も」
その声は月から放たれていた。
周りの星々が畏怖する、静謐な佇まいのそれには一柱の神がいた。
テクシステカトル改め——月神メストリである。
「太陽が昇って沈み、私が昇って沈む……」
手足の力を抜いて、銀の玉座に身を沈める。
その膝上には、褐色の毛に覆われた兎がいた。
「ただそれだけで時が過ぎていくなぁ、トト」
トトと呼ばれたその兎は、メストリの手にそっと頬を摺り寄せる。
まるで、主の心を理解しているかのように。
「かれこれ数百年、私はお前以外の者と話をしていない」
遠い目をするメストリの、いつも傍にいるトト。
その正体は、テクシステカトルがナナワツィンの後を追って太陽になった際、その光を弱める為に誰かが投げた兎だった。
トトを投げられたことで、テクシステカトルの太陽は月に変わり、夜の世界に飛ばされたのだ。
「他にしたことといえば……かつてウィツィロポチトリが退けたものの、その後も度々攻め込んできた魔女どもを封印したことくらいしかない」
あの時のことは今でも覚えている。
家族との会話もめっきり途絶えたある日、空一面に声を響かせたのを。
『気の毒だが、君たちにはそこにいて貰おう。仲間の障りになっては困るのでな』
”最凶の魔女”コヨルシャウキの軍団を、鉛色の鎖で縛り上げ、夜の牢に閉じ込めた。
それ以降、確かに軍団の襲撃はなくなった。
だが、不安は消えない。
「……」
メストリはふと、星が殆ど見えない一帯に目をやる。
不自然な程暗い一帯。
そここそがまさに、軍団の牢がある場所だった。
「あそこに時折、禍々しい真っ赤な光が現れる」
何かに警戒しながら、メストリは目を細める。
「奴らは封印されこそしたが、確実に”生きて”いる——」
太陽と入れ替わって規則正しく空を回り、家族の厄介になる者たちを押し留める。
重要な務めであるとは勿論理解している。
それでも、虚しい。
空を巡り、封印を見守るだけ。
それだけの日々を、何百年と続けてきた。
「……」
物思いに沈んでいた、その時。
「——!?」
突然、メストリの表情が変わった。
下界から何かが――否、“誰か”が、こちらへ向かっている。
途轍もない力を秘めた何者かが、恐ろしい速度で上昇してくる。
まるで、天を目指して突き進む、一本の矢のように。
「……何だ?」
メストリは銀の玉座から身を起こした。
数百年ぶりに訪れた、予期せぬ異変。
月神の瞳は、鋭く下界を捉える。
「……誰が、こちらへ来ている?」




