(第六十五話)闇の神と冥界の王
鏡の中で遠ざかっていくシンたちの姿を、テスカトリポカが嘲るような目で見送っている。
「……ふっ」
一行の影さえ見えなくなった頃、彼は何かを思い出したように鼻を鳴らした。
「そろそろあいつと話を進める頃合いだ」
黒い肌に覆われた逞しい体が、闇へ溶けるように消えていった。
◆
闇の神が降り立ったのはミクトランの門の前だった。
「開けろ。俺だ」
それだけを告げ、門を叩きもせず腕を組んで待つ。
(ギィィ……)
軋む音と共に、巨大な門扉がゆっくりと開いた。
「図々しい奴め、さっさと入れ」
低く太い声が轟く。
テスカトリポカは薄く笑うと、悠然と門をくぐった。
◆
「おう」
謁見の間に来るなり、テスカトリポカは軽々しく声をかける。
玉座には冥界の王ミクトランテクートリが座し、その傍らには王妃ミクテカシワトルがいた。
テスカトリポカは二人の前へ進み出る。
「約束通り力をよこせ。天と地上の全てを変え得る力をな」
「ふむ……」ミクトランテクートリは躊躇っている。
「まさか……まだ俺を信用できないと?」
「当然だ。ケツァルコアトルが骨を奪って以来、わしにとって神の血族は敵だ。無論、お前もな」
「あいつに比べれば、随分腰を低くしているつもりだが」
「どこがだ」ミクトランテクートリは呆れたように眉を顰めた。
「抑々お前、先程から腰を下げてもいないだろう」
闇の神は頭を軽く垂れるだけで、膝を曲げてすらいない。
ここが冥界であり、目の前の男が王であることを認める気など最初からない。
「やはりお前もあ奴と変わらん。血は嘘をつかぬな」
(くっ、この老いぼれが……)テスカトリポカは内心で舌打ちした。
(いつまで俺をじらすつもりだ)
その時だった。
視線の先に、王の隣へ静かに座るミクテカシワトルの姿が映った。
(……なるほど)
闇の神の口元が、僅かに吊り上がった。
◆
「おい」
沈黙を続けるテスカトリポカに、ミクトランテクートリが怪訝そうに声をかける。
「どうした。黙りおって」
そう言われると、テスカトリポカはゆっくり顔を上げた。
その視線は、ミクテカシワトルへとまっすぐに向けられている。
「おいミクテカシワトル」
「何でしょう?」
「お前、元はここの住人じゃなかったんだろ?」
その一言で、王妃の表情が凍り付いた。
「なっ、何を急に仰るのですか??」
ミクテカシワトルの白い頬が、みるみる赤く染まった。
落ち着き払っていても隠せない程、狼狽えている。
その反応に、テスカトリポカは確信した。
「元々人間だったお前は、同族が俺たちの贄になるのが耐えられなかった。それで打開策を探ったが、像に何度血をかけても、答えを見つけられなかった」
「……」
ミクテカシワトルは俯く。
震える指が握り締める衣は、大きくひしゃげている。
「そんな中、唯一希望を託したのが——」
テスカトリポカはゆっくりと視線を滑らせる。
そして、目の前にいる者に明かした。
「お前だったというわけだ」
「き、貴様……」
ミクトランテクートリが立ち上がる。
拳を強く握るあまり、玉座の肘掛けが軋んだ。
「これ以上無礼なことを言うなら……」
「言うなら、何だ?」
テスカトリポカは涼しい顔で、冥王の怒りをさらりと受け流す。
「お前が贄子の血を通して俺の家族を監視していることは、既にばれているぞ?」
「何……っ!?」
「何なら、お前が何を目論んでいるか、家族に言ってやろうか?」
「お……おいやめろ!!」
ミクトランテクートリは慌てて叫んだ。
その様には冥王らしからぬ焦りが見られ、威厳は霞んでいた。
「わかったわかった、力は貸す。だから事を荒立ててくれるな」
苦々しく唇を噛む冥王の言葉に、テスカトリポカの笑みが一層深くなった。
「ふっ、初めからそう言えばいいものを」
「ぐぬ……」
勝ち誇ったように言い放つ闇の神。
ミクトランテクートリは屈辱に顔を歪めた。
だが今は耐えるしかなかった。
◆
「おぉ……」
冥王から流れ込む力に、テスカトリポカは感嘆の声を漏らした。
「死の気配を帯びた力……太陽の下で得る物とは明らかに質が違う。だが悪くはない」
闇の神は満足げに拳を握る。
「これなら予てからの計画を進めるのに十分だ」
「”予てからの計画”、とは……?」
まだ動揺しているミクテカシワトルが、恐る恐る問う。
「へっ、どうせ”青い波”などという戯言だろう」ミクトランテクートリが鼻を鳴らした。
「何度も何度もそれを消すなど抜かしおって……この冥界には何の関係もない妄言だ」
「あなた……」
「まあいい。まだ力が欲しいなら、こいつらをやろう」
ミクトランテクートリの掌に、青白い炎が集まる。
その中に映るのは——自分の実の子、贄子たちの姿だった。
皆、運命を知らないかのように、無垢な寝顔を浮かべている。
「ちょっと! まさか……」ミクテカシワトルが思わず声をあげる。
「気の毒だが、いずれこうなる運命にある。仕方あるまい」
「でも……!」
「妻よ」ミクトランテクートリが静かに言う。
「お前が儂に嫁いだのも、地上の人間の血を流さない為。奴らに代わって、神の血族どもに捧げる贄を作りたかったからだろう?」
「……」
ミクテカシワトルは目を伏せ、ゆっくりと頷く。
「あいつを信用してはおらん。しかし、地上を守る為——お前の願いを叶える為にはやむを得ん」
「ごちゃごちゃ何か言っているところ悪いが」テスカトリポカが口を挟む。
「俺はその贄子とやらはいらない」
「何だと!?」
「そいつらの血は謂わば毒だ。俺が欲しいのは生粋の人間が持つ紅の血。見るからに怪しい青い血など、一滴も欲しくない」
そう言い残し、闇の神は背を向けて冥界を後にした。
◆
冥界に再び静寂が訪れる。
「あ奴……この儂を見下しおって……」
重苦しい沈黙の中、ミクトランテクートリの怒りに満ちた声が漏れた。
「今度何かやらかした暁には決して許さん……あ奴も、神の血族どもも……」
「あなた……どうか落ち着いて……」
ミクテカシワトルは夫を宥める。
だが、その声には力がなかった。
胸の奥がざわついている。
(……)
ふと、夫の肩越しへ視線を向ける。
そこには誰もいない筈だった。
それなのに。
(……あれは)
淡く揺らぐ影。見覚えのある顔。
(私の……子どもたち……)
ミクテカシワトルは言葉を失った。




