(第六十四話)青い波の悪夢
「……」
一筋の光さえ入らない空間で、闇の神テスカトリポカが鏡の向こうを見ている。
中に映っているのは、旅をするシンとテパ、チャアク、そしていつの間にか山椒魚に姿を変えていたショロトルだった。
照りつける太陽の下、一行は笑い合い楽しげに歩いている。
「……ふっ」
テスカトリポカは彼らの表情など眼中になかった。
ずっと見つめているのは、その後ろに長く伸びる、闇にも似た真っ黒な影だった。
「その楽しさ、いつまでも続くと思うな」
鏡の中、旅人たちの傍らへ、闇の神の冷たい笑みが重なった。
◆
五番目の太陽の時代が始まって百年後。
「うっ……うぅ……」
今となっては遠い昔のある夜、テスカトリポカは寝台に横たわったまま、苦しげに呻いていた。
「うぅっ……」
原初の四柱という身の上にはとても相応しくない、あまりにも情けない呻き声だった。
それでも、出さずにはいられない。
胸を締めつける恐怖は、それほどまでに凄まじかった。
「何だこれは……こん……なに……恐ろしい夢など……今まで……見たことが……ない……」
夢の始まりは、いつもと変わらぬ穏やかな世界だった。
神々も人も平穏に暮らし、何事もなく時が流れていた。
そんなある日——。
(ザァァァ……)
空の彼方を、奇妙な"波"が走った。
音だけを聞けば、それは寄せては返す波そのものである。
だが、青空をゆっくりと濁らせながら流れゆくその姿は、この世の何とも似ていなかった。
「いや……違う……これは……幻だ……一時の……幻に違いない……」
時が経てばまた、全てが元通りになる。
いつも通りの平穏な日々が訪れる。
そう信じていた。
「何故……だ……」
”波”は消えなかった。
それどころか空を覆い尽くし、大地へと降り注ぎ、あらゆるものを呑み込んで果てしなく広がっていった。
「……!!」
そして、世界が無に帰した。
「おい、待て! 待って……くれ!!」
テスカトリポカの前から、家族の神々が次々に消えていった。
体も、美しい装飾も、それから最期の言葉さえ、何一つ残さずに。
「い、いや……まだだ……これで……終わり……では……」
一縷の希望を抱いて待った。
いつまでも待った。
だが、何も起きなかった。
「そんな……世界が消えて、それで終わるのか……? 新たな世界の誕生も……命の巡りも……二度と起こらないというのか……?」
氷の底へ閉じ込められたように、闇の神の身体は震え続けた。
夢から覚めても、その震えだけは止まらなかった。
◆
震える体を無理矢理奮い立たせ、テスカトリポカは広場に家族を集めた。
「頼む! 聞いてくれ!!」
悲鳴にも似た叫びだった。
夢の恐怖は、目覚めてもなお彼を締めつけている。
「全ての人間を贄にすれば、きっと俺たちの力で波を壊せる! だから——」
「それをやれ、と言うのか?」シペが冷ややかに口を開いた。
「お前がその夢とやらにどれだけ慄いたのかは知らない。だが、これだけは確実に言える。全ての生命は互いに支え合って調和している。古よりのこの理は、一度たりとて破られたことがない」
「だが……」
「徒に人間を食い荒らせば、均衡が崩れる。その先に待つ破滅など、語るまでもあるまい」
「違う! あの波はその理そのものを破壊するんだ! 均衡だのなんだのと言う余裕など——」
「お前は人間のみならず、我々をも弄ぶつもりか?」
ウィツィロポチトリが割って入る。その目は炎のように鋭く燃えていた。
「まさか……お前は嘗て太陽の座に就いたが故、根拠もない確信を持っているのではなかろうな?」
「な、何を言ってるんだお前——」
「大袈裟だよ、世界が消えるなんて」トラロックがあどけない笑顔で言った。
(こいつ……俺のこと馬鹿にしやがって……)
テスカトリポカはトラロックを殴りたい衝動に駆られたが、ぐっと堪えた。
「どうせ太陽が変わるときみたいに何か起こるだけ。火が降ったり風が吹いたり、水が空へ昇ったり。それでまた新しい世界が生まれるんだ。ねっ、ウィツィロポチトリ!」
「お、おう」
いきなり話を振られ、ウィツィロポチトリは戸惑いながら頷いた。
(こいつら……)
他の家族の対応も似たり寄ったりだった。
夢の件を家族に否定され、さらには笑われ。
テスカトリポカの心に湧いたのは、怒りでも恥ずかしさでも、悔しさでもない。
“呆れ”だった。
◆
「あいつらもそうだが……何より腹が立ったのは、ショチケツァルとウィシュトシワトルだ」
鏡が黒々と輝く度、テスカトリポカは当時の苦い記憶を嫌でも噛み締める羽目になった。
「あいつらは俺に気があって付き合い始めたというのに、俺があの恐ろしい夢を見るようになってから“何かおかしい”などとほざいて、俺の元を離れた——」
「あんたのそのどうでもいい夢の話に、私たちを付き合わせないでくれる?」
ウィシュトシワトルは露骨に嫌悪する。
ショチケツァルは、その後ろでただ、何も言わずに微笑んでいた。
「あいつは何も言わなかった。だが真意はわかる」
——拒絶だ。
◆
「俺は決して家族を誑かすつもりはなかった。家族を守りたかった。それなのにあいつらは、俺を無碍にした」
闇の神の黒い体に、消えようのない怒りの血が沸る。
鏡を叩き割りそうになった腕を、辛うじて押しとどめた。
「俺は決めた。家族の手など借りない。俺一人で、あの“青い波”とやらを一滴残らず消してやる、とな」
テスカトリポカが呟いた時、いつの間にか鏡の向こうの景色が変わっていた。
シンらの一行が新たな町に着き、住民から話を聞いている。
ただ、チャアクだけは姿が見えない。
「一時的に姿を隠しているだけだろう。町中をあれが歩いているのはまずいからな」
「我らが全知全能の神テスカトリポカは——」
「……ほう」
闇の神の口元が歪む。
「愚かな人間とて、その程度は理解しているんだな」
一行の上空には、青い空が広がっている。
何の変哲もない、澄み切った空だ。
だが、闇の神の目にはそう見えない。
「確かに感じる。あの空のどこかに、”波”が潜んでいるんだ」
話を聞いた後、一行は再び歩き出した。
魔獣の気配もなく、皆のんびりした様子である。
「あいつもすっかり馴染んでやがる」
テパの肩の上で、姿を変えたショロトル——ピルトが楽しそうに跳ねている。
その横には、いつ現れたのか、チャアクがいて微笑ましげに様子を見ている。
「あいつら……今は俺を疎んじているが、それも長くは続くまい。いつか必ず、俺を頼らずにはいられなくなるだろう」
佇む空間を切り裂くような意地の悪い笑みが、闇の神の顔に浮かんだ。
「その足で向かう先で何が起きているか、とくと見るがいい。それからチャアク」
(パキッ――)
何の力が働いたのか、黒い鏡の縁へ一本の亀裂が走った。
「お前にはしっかり仕事をしてもらおう。俺の僕なのだからな」
何も知らない一行は、束の間の平穏を謳歌している。
傾き始めた夕日を受け、シンの腕輪だけが鈍く静かな光を放っていた。




