(第六十三話)兄に刺された弟
トナティウが次々と家族の心臓を捥ぎ取った、その時。
「うああぁぁぁ……」
目の前で、家族が次々に倒れていく。
その凄惨な光景は、ショロトルにはとても耐えられるものではなかった。
(このままここにいたら、僕も……)
ショロトルはぎりぎりと拳を握り締め、意を固める。
——ここから逃げる、と。
◆
ショロトルは広場から遠く離れ、人気のない畑に来た。
「ここまで来ればもう大丈夫」
密集したトウモロコシの茎に身を隠し、ショロトルは小さな声で呟いた。
実もたわわに実っていて、隠れるのを助けてくれる。
ここで大人しくしていれば、決して見つからないだろう。
そう確信していた。
——が。
(ガサッ、ガサッ)
(!!)
ショロトルは思わず息を殺す。
葉をかき分ける音が、すぐ近くで聞こえる。
そしてどんどん大きくなる。
(まずい!)
その瞬間、ショロトルの体が変わった。
◆
トウモロコシ畑の中を、頭から足まで漆黒の皮膚に覆われた何者かが荒々しく歩いている。
「どこへ行ったんだ、あいつは……」
ガサガサと乱暴に茎をかき分けながら、その者は焦りを滲ませた。
◆
「……はあ」
暫くして、乾いた溜息が洩れた。
「ここにもいないか」
黒い肌の者は、遂に諦めた。
彼は気づかなかった。
掻き分けていたトウモロコシのうちの一つが、姿を変えた弟であることに——。
◆
「……ふう」
トウモロコシの茎の間で、ショロトルは安堵する。
だが、それも束の間だった。
黒い肌の者は、続けてこう言った。
「おかしい。ここには確かにわが家族の気配がある。姿は見えないが、魂は確かに感じる」
黒い肌の者の視線は、決してこちらを向いていない。
それでも彼は、魂の在処だけを辿るように、真っ直ぐこちらへ歩いてくる。
安堵が一瞬で冷や汗に変わった。
自分の存在は——感づかれている。
(逃げなきゃ)
黒い肌の者が気づかないうちに、ショロトルは変身を解いて畑を去った。
道中、ショロトルは妙な違和感を覚えた。
(何でだろう? あいつ、見たことないのに、初めて会った気がしない……)
◆
ショロトルは無我夢中で逃げたが、黒い追手はその動きを予測したかのように、程なくやって来る。
「ひいっ……」
砂漠ではリュウゼツラン、湖では山椒魚に化けてやり過ごそうとしたものの、結果はトウモロコシの時と同じだった。
見つからないと諦めたように見えて、気配を目ざとく感じている。
本当に逃げ切れる場所は、どこにもない。
「はぁ……」
逃走し続けるうちに、ショロトルは満身創痍となっていた。
「はぁ…………はぁ………………」
立つのが精一杯で、全く気付いていなかった。
追手はすぐ後ろまで迫っていたのだ——。
◆
「うわあぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
追手に捕まったショロトルは、仰向けに横たえられて四肢を縛られ、凄まじい慟哭をあげた。
「嫌だ! 死にたくない!! やめてぇぇぇぇぇ!!!!!」
眼前には、追手が掲げた刃の切先が光っている。
冷たく鋭い、見るだけで目を切られそうな輝きは、次第にショロトルから抵抗の意志を削いでいく。
「お願い! 命だけは! 命だけは——」
その時、ショロトルは刃の向こうに追手の顔を見る。
漆黒の肌から覗ける目には——涙が溜まっていた。
——やっとわかった。追手の正体が。
「……兄上……?」
まもなく胸を貫かれた。
なのに、苦痛は全く感じなかった。
◆
「兄上」
「ん?」
「もしかして、僕が今のようになったのは、自分のせいだと思っていますか?」
ケツァルコアトルの肩が跳ね上がる。
後ろを向いたままの弟に、自分の心理を見透かされたと思ったのだ。
「全部、僕のせいですよ」
暗い声だ。明らかに自虐の念が現れている。
「チャンティコが燃えた時もそうでした。僕は、気を遣ってくれた家族への恩を、仇で返していたんです」
「そんな、仇などと……」
「情けないし、悔しかった。こんな弱いままでいたくない。少しでも力になりたい。その為には“何も怖いと思わないこと”が大事だと思ったんです」
「……」
ケツァルコアトルは言葉を失った。
やはりそうだ。
ショロトルは恐怖を克服したのではなく、蓋をしていたに過ぎなかったのだ。
「ショロトル……」
「気にしないでください」
ショロトルの声が、場違いな程晴れやかになる。
「僕はオメテオトルに望まれて生まれた存在ではありません。たとえ本当に壊れているんだとしても、それは元からですから」
「そ——」
ケツァルコアトルは言いかけて愕然とした。
弟は顔一面に笑みを浮かべている。
屈託のない、人間で言えば幼い子どものようにも見える笑顔だ。
なのに、見ていて全く喜べない。
心からではなく、相手を気遣って無理矢理貼り付けたような、張りぼてのように見えてならない。
「……っ……」
◆
思うことは多々あれど、ケツァルコアトルは平静を装って問うた。
「それにしても、ここに来るなんて久しぶりだな」
「僕の家ですから。たまには様子を見たいですし」
「昔この辺りに住んでいた人間が、お前の家と像を置いて出て行ったと聞いて……お前が消えてしまうのではないかと、気が気でなかった」
「幸い、人間たちは新たな地で贄をくれているので……」
「以前来た時は雑草や埃だらけで荒れ果てていたが、今は見違えるように美しい。掃除でもしたのか?」
そう聞かれて、ショロトルは無言で屋根を降り、窓の中を指さす。
「彼らに掃除させました」
ショロトルの指先には、人間の少年二人と大きな体のオセロトル一頭が眠っている。
少年の一人の腕には、輝くケツァリツリピョリトリがある。
(……!)
ケツァルコアトルはそれを見て少年たちの正体を悟った。
(彼らは……家族が警戒していた者たちだ。でも、隣のオセロトルは……?)
ケツァルコアトルがオセロトルに視線を向けると、ショロトルは質問をわかっていたかのように言った。
「あれはチャアク。テスカトリポカの眷属です」
(テスカトリポカ——)
その名を聞いて、ケツァルコアトルは息を呑む。
弟が、遠い昔に袂を分かった家族と密かに関わり、その眷属を抱え込んでいたとは——。
◆
ケツァルコアトルは、それでも弟を疑いたくなかった。
「早くみんなのところへ戻ろう。今ならまだ間に合う。誤解を解きさえすれば——」
「嫌です。僕はもう、戻るつもりはありません。彼らと共にいます」
「え……?」
「兄上もみんなの目を見たでしょう。今から戻って弁明したところで、誤解が払拭できるとは思えません」
「でも、だからと言って……」
「兄上」ショロトルは真剣な表情で兄の顔を見つめる。
「テスカトリポカが離れて以降、僕ら神の血族は嘗ての結束を失いました。ましてやあいつは“原初の四柱”——オメテオトルが最も愛した一柱です。僕らがこれ以上瓦解したら、遥か遠い天に座すオメテオトルが悲しみます」
「そんな……」
「いいんです。僕は生まれるのを望まれなかった。オメテオトルにとっては想定外の存在だったんです」
「それはそう……かもしれないが……」
「そんな躊躇うような言い方しないでください。別に僕は、オメテオトルのことも、兄上たちのことも恨んでいません。ただ、自分がそう生まれただけのこと。そう思っています」
あっけらかんとした表情で言う弟に、ケツァルコアトルは返す言葉がなかった。
◆
ケツァルコアトルは、やがて徐に口を開く。
「……わかった。お前が望むならそれでいい。私も、あの少年たちのことは誰にも言わない」
「兄上……」
「夜が明けたらどこへ行くつもりなのか?」
「まずは武器を買いに行きます。小刀と、マクアウィトルを」
「どのくらいの大きさなんだ?」
「これくらいと……これくらいです。それから形はこのようなもので……質感はこうで……」
ショロトルが身振り手振りで示すのを見て、ケツァルコアトルは閃いた。
「なら造作もない」
ケツァルコアトルの手が光り、中から立派な小刀とマクアウィトルが現れた。
「おおっ……!」
ショロトルは、兄が作った武器の完成度の高さに驚く。
見た目といい重量感といい、シンとテパが持っていたものにとてもよく似ている。
「何かあったら、いつでも私を頼ってくれ。家族の目はあるが、できる限りのことはする」
ショロトルは、渡された二つの武器をぎゅっと握る。
「ありがとうございます」
いつの間にか、遠くの空が白んでいる。
「そろそろ戻る」
「はい」
ショロトルは微かな微笑みを浮かべ、兄を見送った。
◆
朝。
「おはよう、みんな」
「……?」
眠気眼のシンとテパ、そしてチャアクの元に、ショロトルが現れる。
「……ショロトル!」テパが目を輝かせる。
「ただいま」
太陽を背に立つ彼は、シンとテパに武器を渡しながら言った。
「さ、行こう」
確かに笑みを浮かべている。
だがそれは、自分を覆う影より暗い、どこか空虚な笑みだ。
「は……はい」
シンはそう答えるも、ショロトルの表情が気になって仕方なかった。
◆
一行は次の町へ向かう。その時——。
【ザアッ……】
遥か上空に、謎の”波”が通って行った。




