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血汐の群れる朝が来る前に  作者: Masa plus


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(第六十二話)弟を刺した兄

 東の空が僅かに白み始めた頃、ケツァルコアトルは弟の姿を探していた。


「ここにもいないか……」


広場の周辺にも、やや離れた小川にも、さらに離れた森にもいない。


「……もしかしたらあそこかもしれない」


ケツァルコアトルは、ふと頭を過った場所へと飛んでいく。


「いた!」


案の定、彼は”あの”場所にいた。


(でもここ、以前よりだいぶ綺麗になってるな。雑草がない。誰かが手入れでもしたのか?)



 ショロトルは、森の一角にある石造りの廃屋の屋根で、頭を埋めて座っていた。


「ショロトル!」


(……ん……?)


背を向けているその影の、肩が僅かに震える。

だがそれだけで、振り向きはしなかった。


「お前、悪気があって隠していたのではないんだろう?」


「……」


「それなのに皆、あんなに冷たい目を向けて——」



「違います」



ショロトルは遮るように、きっぱりと言った。


「僕が逃げなければよかっただけの話です。別に殺されるわけでもあるまいし」


「ショロトル……」



「ああもう!! 何でいつまで経ってもこういう癖が治らないんだ!!!」


 

ショロトルは大声で吐き捨て、拳で屋根を叩く。

周囲の木々が、薙ぎ倒されそうな程に傾いた。


ただ、廃屋は何事もなかったかのように静まり返っていた。


「……」


悔しさと自己嫌悪ばかりが滲む声。 

弟の背中を見ていたケツァルコアトルは、胸を締め付けられた。


「お前……まだ、あの時のことを気にしているのか?」



 五番目の太陽が生まれて幾ばくの時間が過ぎた。


「ん?」

「あれ?」

「どうなってるの?」


神々が空を見上げて呆然としている。


本来なら、太陽は既に空を巡っている筈だった。


なのに、太陽は微動だにしない。


「おかしいな。今まで太陽になった奴はすぐに動いたのに、今度のはまるで動く気配がない」


不審に思ったシペは、太陽に向かって叫んだ。


「おいナナワツィン! 早く動——」



『そのような名で呼ぶな』



「!?」



『私は“天つ煌々”トナティウである』



「……?」

 

 

『動いて欲しければ、お前たちの心の臓を捧げよ』



「何、だと……?」



『動いて欲しければ、お前たちの心の臓を捧げよ』



「どういうことだそれは——」


 

その時、太陽から突如無数の手が伸びてきた。


「っ!?」


無造作に散った見えたそれは、槍のように、神々の胸を正確に突き刺した。


(ブチッ)

 

嫌な音がする。

無数の手は神々の肉を裂き、骨を貫いて、一瞬のうちに心臓を捥ぎ取った。



「うわ……っ」

「痛い! 痛い!!」

「助け……てっ……」


 

広場は瞬く間に血で染まった。

訳がわからないまま悶える神々の悲鳴が、澱みのように空間を満たしていた。



「うっ……」


心臓を取られたのは、ケツァルコアトルも例外ではなかった。


「何という力だ……この私が何一つ抗えないというのか……」


嘗て太陽の座に就くほどの力を誇ったケツァルコアトル。

だが、今ではその面影は欠片も残っていなかった。


痛みを感じる余裕もなく、ただただ体が重い。

それでもケツァルコアトルは、残った力で辛うじて立った。


「……ショロ……トル……」


倒れ伏す家族の間で、血が止めどなく流れる胸を抑えながら、ケツァルコアトルは弟を探す。


(昔から怖がりだったあいつが、この光景を見たら——)


考えるだけで胸が張り裂けそうだった。


「ショロトル! ショロトル!!」


血を吐きそうになりながら、ケツァルコアトルは声を張り上げる。

だが、返事はない。

隅から隅まで広場を何度も往復したが、ショロトルの姿はどこにもなかった。


「ショロ——」



「——??」


 

ケツァルコアトルの体がぴたりと凍り付く。


誰かが、自分の肩に手を乗せたのだ。



「お前の弟が逃げた」



耳元で響く冷たい声に、ケツァルコアトルは震え上がる。



「これは兄であるお前の責任だ。お前が心臓を取ってこい」



「!!」


いつの間にか、ケツァルコアトルの手には小刀があった。


「断る!」


カラン、と音がした。

投げられた小刀が、石に当たって弾けた。


「弟を刺すなど、するものか!!」


ケツァルコアトルは声の主を黙らせようと、振り向いてその顔を見ようとした。


「——」


そこにいた声の主が、ケツァルコアトルの額に指を当てる。

すると、緑色だった彼の肌がみるみる黒くなった。


「——」


肌の色が変わるとともに、意識が霞んでいく。

体が自分のものではなくなる。


ケツァルコアトルは抵抗する気力を完全に失ったのだ。


「行け」


ケツァルコアトルは、無表情で弟の追跡に向かう。

命令だけが染み込んだ、空っぽになった心で——。



「はぁ……はぁ……」


ケツァルコアトルの息は荒くなっていた。

 

広場を出てどれくらい経っただろう。

太陽が動かないものだから、時間の感覚がない。


ただ、体と心ばかりが疲弊しきっている。



「……!」



——いた。



(ショロトルは、自分——否、それ以上に疲弊した様子だった。立つのがやっとなのが見てわかった)


その後のことは、今でも鮮明に覚えている。


(そっと風を吹いて気をよくさせ、その隙に縛り上げたんだ)


そして——。



「ぎゃああああああやめてえええええええ!!!!!」



耳を割く絶叫が響く中、殆ど躊躇いもなく、胸を刺して心臓を捥ぎ取った。

高く掲げられた心臓は、それまでの緊迫をものともしないかのように、静かに空へ昇っていった。



「……」


ケツァルコアトルの眼には、物言わぬ弟の背中だけが映っていた。


服装も装飾も、それから今は隠れて見えない顔立ちも、自分の写し身のような姿で生まれた弟。

ただ、性格だけが真反対だった弟。


(わかっているんだ。お前が危険なことを繰り返していたのは、怖がりな自分を変える為だと)


ショロトルは尚も頭を埋めたままでいる。


(だが……私にはどうも、お前が無理をしているようにしか見えない。恐怖を克服したのではなく、押し殺しているのではないか……?)


ケツァルコアトルは、彼が火を操る力を手に入れた日を思い出した。



「私を心配させてくれるな。生身であの火山に飛び込むなど、正気の沙汰ではない」


「いいんです!」ショロトルは意気揚々と答える。


「お陰で、この通り火を使えるようになりました!」


掌に灯された炎が、弟の目を希望に輝かせている。


「次は冥界に行ってやりますから! いつか、必ず!」



「……」


あれほど真っ直ぐだった眼差が、今は見えない。

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