(第六十二話)弟を刺した兄
東の空が僅かに白み始めた頃、ケツァルコアトルは弟の姿を探していた。
「ここにもいないか……」
広場の周辺にも、やや離れた小川にも、さらに離れた森にもいない。
「……もしかしたらあそこかもしれない」
ケツァルコアトルは、ふと頭を過った場所へと飛んでいく。
「いた!」
案の定、彼は”あの”場所にいた。
(でもここ、以前よりだいぶ綺麗になってるな。雑草がない。誰かが手入れでもしたのか?)
◆
ショロトルは、森の一角にある石造りの廃屋の屋根で、頭を埋めて座っていた。
「ショロトル!」
(……ん……?)
背を向けているその影の、肩が僅かに震える。
だがそれだけで、振り向きはしなかった。
「お前、悪気があって隠していたのではないんだろう?」
「……」
「それなのに皆、あんなに冷たい目を向けて——」
「違います」
ショロトルは遮るように、きっぱりと言った。
「僕が逃げなければよかっただけの話です。別に殺されるわけでもあるまいし」
「ショロトル……」
「ああもう!! 何でいつまで経ってもこういう癖が治らないんだ!!!」
ショロトルは大声で吐き捨て、拳で屋根を叩く。
周囲の木々が、薙ぎ倒されそうな程に傾いた。
ただ、廃屋は何事もなかったかのように静まり返っていた。
「……」
悔しさと自己嫌悪ばかりが滲む声。
弟の背中を見ていたケツァルコアトルは、胸を締め付けられた。
「お前……まだ、あの時のことを気にしているのか?」
◆
五番目の太陽が生まれて幾ばくの時間が過ぎた。
「ん?」
「あれ?」
「どうなってるの?」
神々が空を見上げて呆然としている。
本来なら、太陽は既に空を巡っている筈だった。
なのに、太陽は微動だにしない。
「おかしいな。今まで太陽になった奴はすぐに動いたのに、今度のはまるで動く気配がない」
不審に思ったシペは、太陽に向かって叫んだ。
「おいナナワツィン! 早く動——」
『そのような名で呼ぶな』
「!?」
『私は“天つ煌々”トナティウである』
「……?」
『動いて欲しければ、お前たちの心の臓を捧げよ』
「何、だと……?」
『動いて欲しければ、お前たちの心の臓を捧げよ』
「どういうことだそれは——」
その時、太陽から突如無数の手が伸びてきた。
「っ!?」
無造作に散った見えたそれは、槍のように、神々の胸を正確に突き刺した。
(ブチッ)
嫌な音がする。
無数の手は神々の肉を裂き、骨を貫いて、一瞬のうちに心臓を捥ぎ取った。
「うわ……っ」
「痛い! 痛い!!」
「助け……てっ……」
広場は瞬く間に血で染まった。
訳がわからないまま悶える神々の悲鳴が、澱みのように空間を満たしていた。
◆
「うっ……」
心臓を取られたのは、ケツァルコアトルも例外ではなかった。
「何という力だ……この私が何一つ抗えないというのか……」
嘗て太陽の座に就くほどの力を誇ったケツァルコアトル。
だが、今ではその面影は欠片も残っていなかった。
痛みを感じる余裕もなく、ただただ体が重い。
それでもケツァルコアトルは、残った力で辛うじて立った。
「……ショロ……トル……」
倒れ伏す家族の間で、血が止めどなく流れる胸を抑えながら、ケツァルコアトルは弟を探す。
(昔から怖がりだったあいつが、この光景を見たら——)
考えるだけで胸が張り裂けそうだった。
「ショロトル! ショロトル!!」
血を吐きそうになりながら、ケツァルコアトルは声を張り上げる。
だが、返事はない。
隅から隅まで広場を何度も往復したが、ショロトルの姿はどこにもなかった。
「ショロ——」
「——??」
ケツァルコアトルの体がぴたりと凍り付く。
誰かが、自分の肩に手を乗せたのだ。
「お前の弟が逃げた」
耳元で響く冷たい声に、ケツァルコアトルは震え上がる。
「これは兄であるお前の責任だ。お前が心臓を取ってこい」
「!!」
いつの間にか、ケツァルコアトルの手には小刀があった。
「断る!」
カラン、と音がした。
投げられた小刀が、石に当たって弾けた。
「弟を刺すなど、するものか!!」
ケツァルコアトルは声の主を黙らせようと、振り向いてその顔を見ようとした。
「——」
そこにいた声の主が、ケツァルコアトルの額に指を当てる。
すると、緑色だった彼の肌がみるみる黒くなった。
「——」
肌の色が変わるとともに、意識が霞んでいく。
体が自分のものではなくなる。
ケツァルコアトルは抵抗する気力を完全に失ったのだ。
「行け」
ケツァルコアトルは、無表情で弟の追跡に向かう。
命令だけが染み込んだ、空っぽになった心で——。
◆
「はぁ……はぁ……」
ケツァルコアトルの息は荒くなっていた。
広場を出てどれくらい経っただろう。
太陽が動かないものだから、時間の感覚がない。
ただ、体と心ばかりが疲弊しきっている。
「……!」
——いた。
◆
(ショロトルは、自分——否、それ以上に疲弊した様子だった。立つのがやっとなのが見てわかった)
その後のことは、今でも鮮明に覚えている。
(そっと風を吹いて気をよくさせ、その隙に縛り上げたんだ)
そして——。
「ぎゃああああああやめてえええええええ!!!!!」
耳を割く絶叫が響く中、殆ど躊躇いもなく、胸を刺して心臓を捥ぎ取った。
高く掲げられた心臓は、それまでの緊迫をものともしないかのように、静かに空へ昇っていった。
◆
「……」
ケツァルコアトルの眼には、物言わぬ弟の背中だけが映っていた。
服装も装飾も、それから今は隠れて見えない顔立ちも、自分の写し身のような姿で生まれた弟。
ただ、性格だけが真反対だった弟。
(わかっているんだ。お前が危険なことを繰り返していたのは、怖がりな自分を変える為だと)
ショロトルは尚も頭を埋めたままでいる。
(だが……私にはどうも、お前が無理をしているようにしか見えない。恐怖を克服したのではなく、押し殺しているのではないか……?)
ケツァルコアトルは、彼が火を操る力を手に入れた日を思い出した。
「私を心配させてくれるな。生身であの火山に飛び込むなど、正気の沙汰ではない」
「いいんです!」ショロトルは意気揚々と答える。
「お陰で、この通り火を使えるようになりました!」
掌に灯された炎が、弟の目を希望に輝かせている。
「次は冥界に行ってやりますから! いつか、必ず!」
「……」
あれほど真っ直ぐだった眼差が、今は見えない。




