(第五十八話)ピルトの正体
巨大な口腔が頭上に影を落とす。
シンもテパも、次の瞬間には鋭い牙で噛み砕かれるものだと覚悟した。
だが――。
「……?」
影が落ちてから数秒経っているが、シンもテパも喰われていない。
「……あれ?」
二人は恐る恐る見上げる。
頭上には真っ赤な口腔がある。だが動かない。
奥から腐臭にも似た嫌な匂いを出しているだけで、微動だにしない。
「どうなってるんだ……?」
不思議に思ったシンは、膝を屈めて後ろに下がり、紛い物の体全体を見渡す。
後から出てきたテパも、同じように目を凝らした。
(……!)
暗がりの中に浮かぶ巨影を見て、二人は驚愕する。
「こいつ……浮いてる!?」
◆
シンとテパは、自分たちを襲う寸前の姿勢で静止したままの巨体を見上げていた。
「……!」
やがてシンは気づいた。
「違う」
その声には確信がある。
「こいつは浮いてるんじゃない。誰かに動きを止められてるんだ」
確かめようと、シンが手を伸ばした瞬間――。
(ピカッ!!)
紛い物の体から、強烈な光が噴き上がった。
炎にも似たその光は、直視すれば目を焼かれそうな勢いがある。
実際、紛い物は身を焼かれて塵となり、廃墟の壁へ、そして床へと溶けるように崩れ落ちた。
「うっ……」
シンもテパも慌てて目を覆った。
光は四方八方へ伸び、闇を容赦なく切り裂いていく。
やがて光が収まった。
シンとテパが恐る恐る目を開くと、光があった場所に何かが浮かんでいた。
目を閉じた小さな生き物に見えるそれは――。
「……ピルト!?」
◆
(ん……ん、あっ!?)
ピルトは目を開けるなり顔を顰めた。
体中に紛い物の体液がこびりついている。
べたべたと不快で、触れば触るほど余計に広がりそうだった。
(あ~ばっちぃ……)
拭うのを諦め、ピルトはゆっくりと顔を上げる。
目の前に現れたのは、見慣れた二人の少年だった。
(テパ……シン……)
「ピルト……」二人は目を丸くしている。
「ピルト……やっぱりただの山椒魚じゃない……」シンの口が小さく動いた。
「お前は……誰なの?」
テパが真剣な表情で問う。
ピルトの無事を喜ぶよりも、その正体を知りたい気持ちが勝ったのだ。
(ふふっ)
ピルトはその言葉に、ほんの少し微笑む。そして――。
◆
(フワァァァ……)
ピルトが突如、体から眩い光を放った。
「うぁっ」
「また……?」
先程の閃光を思い出し、シンとテパは反射的に目を覆う。
「……ん?」
シンは指の隙間から様子を伺う。
目が、痛くない。
確かに眩しいが、その輝きは淡く優しい。
明星を思わせる、穏やかで、見ているだけで心が静まるような光だ。
「……!」
その中に浮かぶ姿を見た瞬間、シンは息を呑んだ。
もうそこに、あの愛らしい山椒魚の姿はない。
ピルトとは似ても似つかぬ”誰か”がいる。
「テパ、見ろ!」
「えっ!?」
シンに促され、テパはゆっくりと手を下ろす。
「ああっ!」
そして、その姿に思わず声をあげた。
◆
やがて光が収まる。そこに立っていたのは――。
「わぁ……」
思いもかけず、テパはその姿に見惚れる。
大きな三角形の頭飾り。
胴の前後に垂らした白い布。
淡い黄白色の巻貝の首飾り。
そして――麗しい青年にも似た顔の横についている、縦に伸びた犬のような耳。
(すごい……)
頭から足まで、全てが鮮やかな装飾で彩られている。
だが、華美には見えない。嫌味を感じない。
何もかもが自然に馴染み、その存在そのものが装飾を従えているように見える。
”人間とは違う、もっと高みにいる何か”――。
そう感じさせる気品があった。
「やあ!」
明るく爽やかな、そしてどこか茶目っ気を感じる声が、壁に床に木霊する。
(このお方は……!?)
シンとチャアクは目を丸くしてたじろぐ。
テパだけが状況を理解できず、きょろきょろと辺りを見回した。
◆
「僕はショロトル! びっくりした?」
ショロトルと名乗るその人物は、人懐こく話しかけてくる。
張り詰めた空気を和らげようとしているのだろう。
だが、誰も顔を上げない。
テパでさえ俯いている。
「……っ!」
突然、シンが片膝をついた。
両手の掌を天へ向けてショロトルを仰ぎ、視線でテパにもそうするよう促す。
テパがシンに続いた後、チャアクも頭をさらに深く下げた。
「やめてよ、水臭いなぁ」
困ったように笑うショロトル。
そう言われても、三人は誰一人として動かなかった。
シンとチャアクは知っている。
目の前にいる者が、”人間を超越した存在”であることを。
親しく語りかけられたところで、その隔たりは埋まらない。
寧ろ、気軽に接されるほど緊張して体が強張る。
やがてシンが口を開いた。
「炎の神、そして冥界への導き手ショロトル……」
「まさか、『供え物がないのをお許し下さい』って?」
「!?」
読まれた。
シンははっとして顔を上げる。
「別にいいよ。あんな化け物が出た後なんだから。供え物なんて用意できなくて当然だよ」
「ですが……何もできないのはあまりに烏滸がましいので……」
「うーん……」
ショロトルは以前から思っていた。
(シンって、この年頃にしてはすっごく分別臭いんだよなぁ。もっと肩の力抜けばいいのに)
そんなことを考えている間にも、シンは恭しく頭を下げ続ける。
「どんな些細なことでも構いません。何か、何かできることがあれば……」
シンは自分の為に、何かをしたくてたまらない。
黙って頭を下げているテパとチャアクも、そう思っているであろうことは想像に難くない。
このままでは埒が明かない。
少し考えて、ショロトルは言った。
「じゃあ、これから言うことやって」
三人の背筋が伸びる。
神の願い。
どれほど重大な使命が告げられるのか。
固唾を呑んで耳を傾けた。
「ここ全部掃除して!」
「…………え?」
「ごみも雑草も全部! ぴっかぴかにして!」
神々しい笑顔が廃墟に響き渡った。




