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血汐の群れる朝が来る前に  作者: Masa plus


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(第五十八話)ピルトの正体

 巨大な口腔が頭上に影を落とす。

 シンもテパも、次の瞬間には鋭い牙で噛み砕かれるものだと覚悟した。


だが――。


 

「……?」



影が落ちてから数秒経っているが、シンもテパも喰われていない。


 

「……あれ?」



二人は恐る恐る見上げる。

頭上には真っ赤な口腔がある。だが動かない。

奥から腐臭にも似た嫌な匂いを出しているだけで、微動だにしない。



「どうなってるんだ……?」



不思議に思ったシンは、膝を屈めて後ろに下がり、紛い物の体全体を見渡す。

後から出てきたテパも、同じように目を凝らした。


(……!)


暗がりの中に浮かぶ巨影を見て、二人は驚愕する。


「こいつ……浮いてる!?」



 シンとテパは、自分たちを襲う寸前の姿勢で静止したままの巨体を見上げていた。


「……!」


やがてシンは気づいた。


「違う」


その声には確信がある。


「こいつは浮いてるんじゃない。()()()()()()()()()()()()()()


確かめようと、シンが手を伸ばした瞬間――。


(ピカッ!!)


紛い物の体から、強烈な光が噴き上がった。

炎にも似たその光は、直視すれば目を焼かれそうな勢いがある。

実際、紛い物は身を焼かれて塵となり、廃墟の壁へ、そして床へと溶けるように崩れ落ちた。


「うっ……」


シンもテパも慌てて目を覆った。

光は四方八方へ伸び、闇を容赦なく切り裂いていく。


やがて光が収まった。

シンとテパが恐る恐る目を開くと、光があった場所に何かが浮かんでいた。


目を閉じた小さな生き物に見えるそれは――。


「……ピルト!?」



(ん……ん、あっ!?)


ピルトは目を開けるなり顔を顰めた。

体中に紛い物の体液がこびりついている。

べたべたと不快で、触れば触るほど余計に広がりそうだった。


(あ~ばっちぃ……)


拭うのを諦め、ピルトはゆっくりと顔を上げる。

目の前に現れたのは、見慣れた二人の少年だった。


(テパ……シン……)


「ピルト……」二人は目を丸くしている。


「ピルト……やっぱりただの山椒魚じゃない……」シンの口が小さく動いた。


「お前は……誰なの?」


テパが真剣な表情で問う。

ピルトの無事を喜ぶよりも、その正体を知りたい気持ちが勝ったのだ。


(ふふっ)

 

ピルトはその言葉に、ほんの少し微笑む。そして――。



(フワァァァ……)


ピルトが突如、体から眩い光を放った。


「うぁっ」

「また……?」


先程の閃光を思い出し、シンとテパは反射的に目を覆う。


「……ん?」


シンは指の隙間から様子を伺う。


目が、痛くない。


確かに眩しいが、その輝きは淡く優しい。

明星を思わせる、穏やかで、見ているだけで心が静まるような光だ。


「……!」


その中に浮かぶ姿を見た瞬間、シンは息を呑んだ。

もうそこに、あの愛らしい山椒魚の姿はない。

ピルトとは似ても似つかぬ”誰か”がいる。


「テパ、見ろ!」

「えっ!?」


シンに促され、テパはゆっくりと手を下ろす。


「ああっ!」


そして、その姿に思わず声をあげた。



 やがて光が収まる。そこに立っていたのは――。


「わぁ……」


思いもかけず、テパはその姿に見惚れる。


大きな三角形の頭飾り。

胴の前後に垂らした白い布。

淡い黄白色の巻貝の首飾り。

そして――麗しい青年にも似た顔の横についている、縦に伸びた犬のような耳。


(すごい……)


頭から足まで、全てが鮮やかな装飾で彩られている。

だが、華美には見えない。嫌味を感じない。


何もかもが自然に馴染み、その存在そのものが装飾を従えているように見える。


”人間とは違う、もっと高みにいる何か”――。

そう感じさせる気品があった。


「やあ!」


明るく爽やかな、そしてどこか茶目っ気を感じる声が、壁に床に木霊する。


(このお方は……!?)


シンとチャアクは目を丸くしてたじろぐ。

テパだけが状況を理解できず、きょろきょろと辺りを見回した。



「僕はショロトル! びっくりした?」


ショロトルと名乗るその人物は、人懐こく話しかけてくる。

張り詰めた空気を和らげようとしているのだろう。


だが、誰も顔を上げない。

テパでさえ俯いている。


「……っ!」


突然、シンが片膝をついた。

両手の掌を天へ向けてショロトルを仰ぎ、視線でテパにもそうするよう促す。

テパがシンに続いた後、チャアクも頭をさらに深く下げた。


「やめてよ、水臭いなぁ」


困ったように笑うショロトル。

そう言われても、三人は誰一人として動かなかった。


シンとチャアクは知っている。

目の前にいる者が、”人間を超越した存在”であることを。

親しく語りかけられたところで、その隔たりは埋まらない。


寧ろ、気軽に接されるほど緊張して体が強張る。


やがてシンが口を開いた。


「炎の神、そして冥界への導き手ショロトル……」


「まさか、『供え物がないのをお許し下さい』って?」


「!?」


読まれた。

シンははっとして顔を上げる。


「別にいいよ。あんな化け物が出た後なんだから。供え物なんて用意できなくて当然だよ」


「ですが……何もできないのはあまりに烏滸がましいので……」


「うーん……」


ショロトルは以前から思っていた。


(シンって、この年頃にしてはすっごく分別臭いんだよなぁ。もっと肩の力抜けばいいのに)


そんなことを考えている間にも、シンは恭しく頭を下げ続ける。


「どんな些細なことでも構いません。何か、何かできることがあれば……」


シンは自分の為に、何かをしたくてたまらない。

黙って頭を下げているテパとチャアクも、そう思っているであろうことは想像に難くない。


このままでは埒が明かない。


少し考えて、ショロトルは言った。


「じゃあ、これから言うことやって」


三人の背筋が伸びる。


神の願い。


どれほど重大な使命が告げられるのか。


固唾を呑んで耳を傾けた。


「ここ全部掃除して!」


「…………え?」


「ごみも雑草も全部! ぴっかぴかにして!」


神々しい笑顔が廃墟に響き渡った。

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