(第五十七話)愛しき父の紛い物
「……えっ?」
テパは呆然としていた。
「……ぇ、えっ……!?」
目の前にいるのは、どう見ても父の姿だった。
声も、間違いなく本人のものである。
――なのに。
「なん……で?」
赤黒く粘つく液体が、蛇のように腕を伝っている。
だがテパは、恐怖も嫌悪も感じられなかった。
◆
シンが立ち尽くしていると――。
(ヒュッ)
横合いから、何かが飛んできた。
「ううぅ……」
それはチャアクの紛い物の顔面に直撃した。
紛い物が呻き、僅かによろめく。
弾かれたそれは宙を舞い、暗闇の中の淡い光を受けて輪郭を浮かび上がらせた。
(シンの小刀……?)
「おい! マクアウィトルを取れ!」
テパが気を取られた隙に、シンが駆け寄ってくる。
テパは慌てて背中へ手を伸ばし、マクアウィトルを構えた。
「こいつはチャアクじゃない!」
「何で違うってわかるの!?」
「本物なら噛むわけないだろ!!」
二人が叫び合う間に、紛い物はゆっくりと体勢を立て直していた。
「来るぞ!」
二人は同時に武器を構え、紛い物を睨み据える。
――が。
◆
その頃、暗黒空間では、テスカトリポカがチャアクに鏡を見せていた。
「見ろ。面白いことになってきた」
主が愉悦に満ちた声を漏らす。
しかし、その光景はチャアクにとって恐怖以外の何物でもなかった。
「あっ!」
「嘘!?」
紛い物はその鋭利な牙で、二人の武器をいとも簡単に粉砕した。
これまで魔獣との戦いを潜り抜けてきた証。
その結晶とも言える武器が、一撃で砕け散る。
二人は武器を失った。
丸腰の状態で、紛い物に挑まなければならなくなった。
「仕方ない、散――」
シンが言い終わるのを待たず、紛い物はその腕に噛み付いた。
「うあっ……」
「いっ……」
シンとテパの腕から、堰が破壊されたかのように血が溢れる。
チャアクから見れば、顔ほどもある牙で腕を食い千切られなかっただけ、奇跡に近かった。
「おっ?」
テスカトリポカが、ふと興味深そうに目を細める。
それはテパの肩――ではなく、そこから足を滑らせた、桃色の小さな生き物だった。
「あああああぁぁ……」
赤、そして漆黒へと変わっていく体の中へ、それは瞬く間に呑みこまれていった。
◆
シンとテパが窮地に陥っただけではなく、桃色の生き物――ピルトまでもが紛い物の体内へと消えた。
「ははは! まさかあいつまで呑まれるとは!」
テスカトリポカが突然、高らかに笑い出した。
チャアクは、ここまで下品に笑う主を見たことがなかった。
「お前が愛していた息子どもの非力さ! そしてあの山椒魚の間抜けさ! これは傑作だ!!」
神とは思えぬ嘲笑に、チャアクは眉を顰める。
だが、鏡の向こうで起きている惨状は、それどころではないものだった。
「ぁ……」
「……」
夥しい血が流れ、シンもテパも意識を失いかけていた。
(このままでは、テパたちが……)
迷っている暇はない。
(ガッ!!)
「うあっ!!」
チャアクは再び主の腕を噛んだ。
噛み千切りかねない衝動を、辛うじて理性で抑える。
魔獣との戦いを含めても、これ程力を込めて牙を立てたのは初めてだった。
「……っ」
そして、間髪入れずに――。
(ガシャーン……)
主が悶えた隙に、チャアクは鏡の中へ飛び込んだ。
◆
シンとテパは、もはや意識を保つのも限界だった。
「……」
体から、熱という熱がどんどん失われる。
床の冷たささえも、感じなくなっていく。
二人の命の灯火が、静かに消えようとしていた。
その時――。
「ぎいあぁぁぁあぁっ!!!」
「!?」
空間を切り裂く凄まじい悲鳴に、シンとテパは目を覚ました。
目を凝らすと、紛い物の額に何かが喰らいついている。
漆黒の巨体。
鋭い牙。
二つの瞳から放たれる青白い光――。
「お、お父……様……?」
「チャアク……? 今度こそ、本物なのか?」
「話は後だ! 下がれ!」
言われるまま二人が後退すると、紛い物は太い首を振って体勢を立て直した。
そのままチャアクを振り払い、互いに睨み合う。
「お父様!」
「止めろ」
駆けだしたテパを、シンが止める。
「今近づくのは危険だ。心配なのはわかるが、見守るしかない」
◆
チャアクと紛い物が激しくぶつかり合う一方、その体内では、呑み込まれたピルトが翻弄されていた。
「わっ! うわわっ!」
脈打つ臓器が動くたび、粘つく壁へ叩きつけられ、また反対側へ弾かれる。
足をつける暇すらない。
運よく踏ん張れたと思えば、今度は足場そのものが波打ち、体勢を崩される。
「……うぉぇぇええぇぇぇ」
鼻を塞ごうにも、足場が不安定で手を離せない。
腐臭ばかりが鼻へ流れ込み、気が狂いそうになる。
「うええぇぇぇ」
吐き気を必死に堪えながら、ピルトは蠢く臓物へ懸命にしがみついた。
◆
チャアクと紛い物の戦力は互角だった。
「お父様……」
決着の見えない死闘を、シンとテパはただ見守ることしかできない。
テパの目に映るチャアクは、何度も牙を交えたせいで全身血塗れだった。
「シン! このままじゃお父様が……」
「あいつに何かされたらどうするんだ」
シンが睨む先では、紛い物もまた全身を血で染めていた。
互いに息を荒げ、睨み合う。
だが、体力の消耗が激しいのか、どちらも声を発さない。
今や二体は、チャアクが現れた時以上に見分けがつかなくなっていた。
「……あっ」
ふと、テパは足元を見る。そこには、マクアウィトルの破片が散らばっていた。
「……っ!」
テパは破片を掴み、紛い物に投げつける。
(お父様を、助けなきゃ……!)
漆黒の床に紛れていた破片を、テパは次々に拾って投げる。
チャアクを救いたい一心で、今のテパの感覚は異様なほど研ぎ澄まされていた。
――見なくても、破片の位置がわかる。
「よせ!」
シンが慌てて止めようとする。
だが、テパはその手を止めない。
「こっちが狙われたらどうす――」
――予感は的中した。
初めは蚊に刺された程にも感じていなかった紛い物も、流石に何度も投げられて苛立ったのか、ゆっくりと本物に背を向け、シンとテパに狙いを定めた。
「あ……!」
二人が息を呑むも既に遅く、紛い物は一瞬で距離を縮めていた。
「ぐわぁぁぁ……」
巨大な口が開く。
そして、二人の頭を、一息に呑み込もうと迫った。




