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血汐の群れる朝が来る前に  作者: Masa plus


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(第五十七話)愛しき父の紛い物

「……えっ?」


テパは呆然としていた。


「……ぇ、えっ……!?」


目の前にいるのは、どう見ても父の姿だった。

声も、間違いなく本人のものである。


――なのに。


「なん……で?」


赤黒く粘つく液体が、蛇のように腕を伝っている。

だがテパは、恐怖も嫌悪も感じられなかった。



 シンが立ち尽くしていると――。


(ヒュッ)


横合いから、何かが飛んできた。


「ううぅ……」

 

それはチャアクの紛い物の顔面に直撃した。

紛い物が呻き、僅かによろめく。

弾かれたそれは宙を舞い、暗闇の中の淡い光を受けて輪郭を浮かび上がらせた。


(シンの小刀……?)


「おい! マクアウィトルを取れ!」


テパが気を取られた隙に、シンが駆け寄ってくる。

テパは慌てて背中へ手を伸ばし、マクアウィトルを構えた。


「こいつはチャアクじゃない!」


「何で違うってわかるの!?」


「本物なら噛むわけないだろ!!」


二人が叫び合う間に、紛い物はゆっくりと体勢を立て直していた。


「来るぞ!」


二人は同時に武器を構え、紛い物を睨み据える。


――が。



 その頃、暗黒空間では、テスカトリポカがチャアクに鏡を見せていた。


「見ろ。面白いことになってきた」


主が愉悦に満ちた声を漏らす。

しかし、その光景はチャアクにとって恐怖以外の何物でもなかった。


 

「あっ!」


「嘘!?」


 

紛い物はその鋭利な牙で、二人の武器をいとも簡単に粉砕した。


これまで魔獣との戦いを潜り抜けてきた証。

その結晶とも言える武器が、一撃で砕け散る。


二人は武器を失った。

丸腰の状態で、紛い物に挑まなければならなくなった。


「仕方ない、散――」


シンが言い終わるのを待たず、紛い物はその腕に噛み付いた。


「うあっ……」


「いっ……」


シンとテパの腕から、堰が破壊されたかのように血が溢れる。

チャアクから見れば、顔ほどもある牙で腕を食い千切られなかっただけ、奇跡に近かった。


「おっ?」


テスカトリポカが、ふと興味深そうに目を細める。

それはテパの肩――ではなく、そこから足を滑らせた、桃色の小さな生き物だった。


「あああああぁぁ……」


赤、そして漆黒へと変わっていく体の中へ、それは瞬く間に呑みこまれていった。



 シンとテパが窮地に陥っただけではなく、桃色の生き物――ピルトまでもが紛い物の体内へと消えた。


「ははは! まさかあいつまで呑まれるとは!」


テスカトリポカが突然、高らかに笑い出した。

チャアクは、ここまで下品に笑う主を見たことがなかった。


「お前が愛していた息子どもの非力さ! そしてあの山椒魚の間抜けさ! これは傑作だ!!」


神とは思えぬ嘲笑に、チャアクは眉を顰める。

だが、鏡の向こうで起きている惨状は、それどころではないものだった。


「ぁ……」


「……」


夥しい血が流れ、シンもテパも意識を失いかけていた。



(このままでは、テパたちが……)



迷っている暇はない。


 

(ガッ!!)


 

「うあっ!!」


チャアクは再び主の腕を噛んだ。


噛み千切りかねない衝動を、辛うじて理性で抑える。


魔獣との戦いを含めても、これ程力を込めて牙を立てたのは初めてだった。


「……っ」


そして、間髪入れずに――。



(ガシャーン……)



主が悶えた隙に、チャアクは鏡の中へ飛び込んだ。



 シンとテパは、もはや意識を保つのも限界だった。


「……」


体から、熱という熱がどんどん失われる。

床の冷たささえも、感じなくなっていく。


二人の命の灯火が、静かに消えようとしていた。


その時――。



「ぎいあぁぁぁあぁっ!!!」



「!?」


空間を切り裂く凄まじい悲鳴に、シンとテパは目を覚ました。


目を凝らすと、紛い物の額に何かが喰らいついている。


漆黒の巨体。

鋭い牙。

二つの瞳から放たれる青白い光――。


「お、お父……様……?」


「チャアク……? 今度こそ、本物なのか?」


「話は後だ! 下がれ!」


言われるまま二人が後退すると、紛い物は太い首を振って体勢を立て直した。

そのままチャアクを振り払い、互いに睨み合う。


「お父様!」


「止めろ」


駆けだしたテパを、シンが止める。


「今近づくのは危険だ。心配なのはわかるが、見守るしかない」



 チャアクと紛い物が激しくぶつかり合う一方、その体内では、呑み込まれたピルトが翻弄されていた。


「わっ! うわわっ!」


脈打つ臓器が動くたび、粘つく壁へ叩きつけられ、また反対側へ弾かれる。

足をつける暇すらない。

運よく踏ん張れたと思えば、今度は足場そのものが波打ち、体勢を崩される。


「……うぉぇぇええぇぇぇ」


鼻を塞ごうにも、足場が不安定で手を離せない。

腐臭ばかりが鼻へ流れ込み、気が狂いそうになる。


「うええぇぇぇ」


吐き気を必死に堪えながら、ピルトは蠢く臓物へ懸命にしがみついた。



 チャアクと紛い物の戦力は互角だった。


「お父様……」


決着の見えない死闘を、シンとテパはただ見守ることしかできない。


テパの目に映るチャアクは、何度も牙を交えたせいで全身血塗れだった。


「シン! このままじゃお父様が……」


「あいつに何かされたらどうするんだ」


シンが睨む先では、紛い物もまた全身を血で染めていた。


互いに息を荒げ、睨み合う。

だが、体力の消耗が激しいのか、どちらも声を発さない。


今や二体は、チャアクが現れた時以上に見分けがつかなくなっていた。


「……あっ」


ふと、テパは足元を見る。そこには、マクアウィトルの破片が散らばっていた。


「……っ!」


テパは破片を掴み、紛い物に投げつける。


(お父様を、助けなきゃ……!)


漆黒の床に紛れていた破片を、テパは次々に拾って投げる。

チャアクを救いたい一心で、今のテパの感覚は異様なほど研ぎ澄まされていた。


――見なくても、破片の位置がわかる。


「よせ!」


シンが慌てて止めようとする。

だが、テパはその手を止めない。


「こっちが狙われたらどうす――」


――予感は的中した。


初めは蚊に刺された程にも感じていなかった紛い物も、流石に何度も投げられて苛立ったのか、ゆっくりと本物に背を向け、シンとテパに狙いを定めた。


「あ……!」


二人が息を呑むも既に遅く、紛い物は一瞬で距離を縮めていた。


「ぐわぁぁぁ……」


巨大な口が開く。


そして、二人の頭を、一息に呑み込もうと迫った。

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