(第五十四話)忌まわしき色の血
森を抜けて歩いていくうち、木々の青臭さに混じって、微かに潮の香りが漂い始めた。
「目的の町が近いな」
シンは前方へ目を凝らす。
まだ町の姿そのものは見えない。
だが、鼻を掠める塩気と、空気に混じる湿り気が、確かに海辺の集落の存在を告げていた。
「サクベも伸びてる」
柔らかい土の感触が、白亜の道の硬い感触へと変わっている。
鼻から、足から、人の営みが近づいていることを感じ取れる。
「ピルト、もうすぐだって」
テパは、肩の上のピルトに優しく声をかける。
「きゅう」
ピルトは小さく頷く。
だが、テパが前を向いた直後、すぐ俯いてしまった。
「……」
視線の先には、サクベの上に伸びるシンとテパの影が見える。
(ウィシュトシワトル……気づいてくれればいいけど……)
◆
やがて、町の入り口が見えてきた。
「うわぁ……」
町はそれ程大きな規模ではないが、道路がしっかりと整備されていて、疎らではあるが市場も形成されている。
「あれ、美味しそう……」
「テパ、食事は後だ」
海辺の町よろしく、市場には数え切れない程多くの魚が並んでいる。
小型の魚、大型の魚、鮮やかな色の魚、地味な色の魚。
蛸や烏賊、貝類まで所狭しと並べられている。
「……はぁ」
シンが溜息をつくほど、テパは海産物に釘付けになっていた。
◆
そんなテパも、神殿の前に着くや否や、表情が引き締まった。
「……」
胸の奥に沈めていた“本当の使命”を、静かに思い出す。
市場に胸を躍らせていた時間など、ほんの束の間の夢だったかのように。
「こちらです」
シンはいつの間にか腕輪からコヨトルを出して、神官に渡していた。
神官は紋章ですぐに素性を見抜き、頂へと導く。
コヨトルは、何一つ抵抗せずに階段を昇っていった。
「……」
視界からコヨトルの背中が遠ざかっていく。
二人はそれを、ただ黙って見ている。
◆
そして儀式が執り行われた。
「……心臓、取られたね」
「ああ」
シンは勿論テパも、感覚が麻痺していた。
町を満たしていた磯の香りが、神殿の頂から流れ落ちる血の臭いに塗り潰されても、違和感を覚えない。
寧ろ、”いつも通りになった”という奇妙な安堵すらあった。
やがて、神官がコヨトルの心臓を高く掲げる。
「あの人、最期まで抵抗しなかったね」
「ある意味楽な話だ。儀式が滞りなく終わったからな」
シンが言う通り、儀式には何の問題も起きなかった。
他に思うことはない。
(……)
ピルトも押し黙っている。
だが、彼の目は神殿の頂を見ていない。
雲が疎らに浮かぶ晴れた空――その彼方を見ている。
そして――
太陽がほんの少し西へ傾いた時。
(……!)
ピルトは突然、テパの肩から飛び降りた。
「……ピルト?」
テパが呼び止めた時には、もう姿は消えていた。
◆
町の上空にはウィシュトシワトルがいた。
「あら。随分素直ね、あの贄」
未練がましい様子もなく心臓を捧げたコヨトルを、女神は冷たい目で見降ろしている。
「まあいいわ。心臓はもらうわよ」
ウィシュトシワトルが手を伸ばした時だった。
「!?」
下界から、小さな影が凄まじい勢いで駆けてくる。
短い脚を必死に動かし、跳ね、走り、また跳ねる。
そうして一直線にウィシュトシワトルの元へ辿り着くと、その生き物は本来の姿へ戻った。
「待て! その心臓を取るな!」
◆
「なっ、何よ急に!?」ウィシュトシワトルは顔を顰める。
「その心臓の血には、ミクトランテクートリの息がかかってる! 取ったら危ない!」
「どういうことよ!」
困惑するウィシュトシワトルの前で、ショロトルは懐から小刀を出す。
「嘘だと思うなら腕を切ってみて」
「いきなり何――」
言い返しかけたウィシュトシワトルは、ふと口を噤む。
ショロトルの表情は、冗談を言っている顔ではない。
「……貸して」
渋々腕を切る。すると――。
「!!」
腕を伝う血を見て、ウィシュトシワトルは愕然とした。
「何これ……本当に私の血なの?」
「そうだよ」
ショロトルは小刀を返して貰い、自分の腕を切った。
流れたのはウィシュトシワトルと同じ、青白く淡く光る液体だった。
「……あんたも……?」
「もしかしたら……僕たちはずっと、あいつに監視されていたかもしれない。今更遅いけど、これ以上心臓を取ったら――」
「……っ!」
ウィシュトシワトルは、未だ血が滴る腕を下ろした。
そして、拳をぎりぎりと握りしめる。
俯いていて表情は見えない。
だが、小刻みに震えるその手が、彼女の感情を物語っている。
「!!」
ショロトルは察した。
ウィシュトシワトルを――海水の女神として畏れられる彼女を、このままただ見るだけだったら――。
「ウィシュトシ――」
その時にはもう、彼女の姿はなかった。
否――
(まさか、あいつ……!)
彼女は――”いた”。
コヨトルの亡骸の中に――。
◆
その頃、地上では異様な空気が張り詰めていた。
「こ、これは……」
神官の表情は戦慄に染まっていた。
高く掲げた心臓に、夥しい量の塩が纏わりつき始めたのだ。
「どういうことだ……このような現象は見たことがない……」
神官が狼狽える間に、塩はその腕までも侵食し始める。
「まさか……ウィシュトシワトルが……」
その悪い予感は当たった。
(ガバッ)
横たわっていたコヨトルが、突如として体を起こした。
その体には、皮膚が見えなくなる程に、びっしりと紋章が張り巡らされている。
そして――
紋章が塩にも似た白い輝きを放った時、コヨトルは心臓を奪い返した。
(ズブッ)
華奢な腕からは想像できない力で、心臓を握り潰す。
そしてゆっくり宙へ浮かび、神官を見下ろした。
『……』
言葉はない。
ただ、凍えるほど冷たい視線だけが、神官の瞳に映っていた。




