(第五十三話)神々に流れるもの
シンとテパが眠りに就いた後、ショロトルはいつものように死者をミクトランの門まで案内した。
「……」
本来なら、そのまま見送って引き返すはずだった。
だが今日は違う。
門の前に立ったまま、動かない。
「……」
ずっと門の上の方を見たままで、最後に入った死者の影すら視界に入っていなかった。
(ホーッ……)
そこには数羽の梟がいる。
ある者は飛び回り、ある者は枝に止まって首をくるりと回している。
死角となる場所が、相当限られているのは火を見るより明らかだ。
(うーん、やっぱりこの姿じゃ無理だな)
ショロトルは山椒魚へ姿を変え、梟の視界を縫うように慎重に進む。
◆
門を潜ったショロトルに、以前来た時の記憶が蘇る。
(あの時は散々だったな)
テスカトリポカに捕らえられ、家畜のように引かれた。
自分を犬と見下す彼の振る舞いには、いくら屈辱を覚えても足りない。
(だけど……あれがあったから、中の構造は大体覚えたんだよね)
苦々しく思いつつ、ショロトルは迷いなく進んでいく。
そして辿り着いた。
あの、思い出すだけで吐き気がする部屋に。
(……っ……)
小さな桃色の手で、思わず口を塞ぐ。
今回もまた、二つの影が怪しく動いている。
(またやってんのか……)
嫌悪をぐっと堪え、影が一つ消える、その瞬間をじっと待った。
◆
やがてその時が来た。
(……いなくなったな)
影が――それも女の影が、一人残された。
部屋を去った男の影は、姿はおろか、足音すら出していない。
(今だ!)
次の瞬間、ショロトルは元の姿に戻って飛びかかり、帳を引き裂いた。
そして、中にいた影を鋭く睨み据える。
「……ミクテカシワトル」
ショロトルは怒りを押し殺し、敢えて淡々とその名を呼んだ。
その手には、鋭利な小刀が握られている。
◆
「何!?」
帳の向こうの影が、突然の招かれざる客の侵入に狼狽する。
「あなた、誰――」
その影――ミクテカシワトルを前に、ショロトルは冷徹な表情を崩さない。
「僕だよ」
ショロトルは犬の姿になり、ミクテカシワトルの前で大人しく佇む。
だが、その目は彼女をまっすぐに見据えている。
まるで、冷たく燃える炎のようだ。
「あ、あぁ……あなたね。以前も――」
緊迫の空気を和らげようとするミクテカシワトル。
だがショロトルは、そんな彼女の思いを切り捨てるように言い放った。
「あんた、約束を破ったな」
◆
「私が……約束を破った、ですって?」
唐突な言葉に、ミクテカシワトルは戸惑いを隠せない。
ショロトルはそれを見て、何を今更とばかりに問う。
「じゃあ何であいつが――テスカトリポカがここにいたんだよ? まるで、僕がここへ来てるのを知ってるみたいだった」
「し、知らないわ、そんなの……」
「嘘つけ!」ショロトルの怒鳴り声が、室内を震わせる。
「あんた、黙ってろって言ったのに、旦那に喋ったんだろ! で、その旦那がテスカトリポカと組んでた――そういう話じゃないのか!」
ショロトルは、小刀の切先をミクテカシワトルの喉元に突きつける。
(まさか……心臓を取るつもり?)
ミクテカシワトルの額を冷汗が伝う。
だが、ショロトルは小刀を突きつけたまま、その手を止めている。
「……っ」
ショロトルは項垂れ、手も下ろした。
「あんたが約束守ってたら……あの子たちはあんな目に遭わなかった。いらない苦労をせずに済んだんだよ」
「あの子たちって……まさか、何かあったの?」
その反応に、ショロトルは違和感を覚える。
「あんた……ひょっとして、本当にシンとテパのこと知らないのか?」
「本当ですわ。誰にも明かしていませんもの」
「……」
ずっと一方的に疑っていた自分が、滑稽に思える。
ショロトルは気まずくなって、項垂れたままミクテカシワトルに背を向ける。
その直後――
「誰だ!!」
◆
入ってきたのはミクトランテクートリだった。
「おお、お前、怪我はないか?」
「え、えぇ……」
「物音がしたが……誰かここに入ったのか?」
「いえ」
「……そうか」
ミクトランテクートリは、妻の体を頭から足まで隈なく見ている。
特に、これといった異常は見られない。
「無事でよかったが……また何かされては堪らん」
そう言うと、ミクトランテクートリは懐から何かを取り出した。
それには――梟のような骸骨のような、奇妙な彫刻が施されている。
「……エエカチチトリ【※1】ですわね」
「ああ」
軽く返して、ミクトランテクートリはエエカチチトリに息を吹き込む。
(ヒエェェェェェァァァァァァァ!!!)
センポワルショチトルで飾られた部屋にはとても相応しくない、耳を劈く禍々しい音が響く。
死者たちの断末魔にも似た音は、風圧凄まじく、部屋中の黄金の花弁を散らした。
「すまない。後で整える」
「構いませんわ。これで梟たちがしっかり見張りをしてくれますもの」
「また何かあったら呼んでくれ。すぐに来るから」
「ええ」
ミクトランテクートリは妻の部屋を出る。
その瞬間、彼は夫という皮を脱ぎ、冥界の王へと戻る。
「……ふう」
溜息交じりに、ミクトランテクートリは暗い廊下を歩いていった。
◆
暫くして――。
「出ていらっしゃい。夫はもう去りましたわ」
「……へ~い」
床の下から、小さな山椒魚がそろそろと出てきた。
「とりあえず、あんたがばらしたんじゃないのはわかった。心臓は取らない。もう帰るよ」
「梟にはくれぐれもお気をつけて」
「へっ、旦那が呼んだくせによく言うよ」
不貞腐れてぼやきながら、ショロトルはゆっくりとその場を後にした。
◆
ショロトルは門の前まで戻ってきた。
(この格好じゃ速く動けないのに、監視の目までつけられちゃぁさぁ……)
まだ聞こえる梟の声に、ショロトルはうんざりする。
とはいえその音量は、門を出る前と比べると、耳を澄ましてやっと聞こえる程度でしかない。
(そろそろ、大丈夫かな)
ショロトルは犬の姿に戻り、足を踏み出す。
その時――
「ホーゥ!!!」
数羽の梟が、ショロトルに襲い掛かった。
「わっ!?」
不意を突かれ、ショロトルは何度も体をつつかれる。
「いっ、痛、痛い! あっち行け!」
吠えたり噛みついたりして、何とか梟を追い返した。
だが、体のあちこちから血が出ている。
(早く帰らないと……)
ショロトルはふと、負傷した前足を上げた。
「……!?」
暗闇でも異様によく見える、自分の血の色。
それを見て、ショロトルは愕然とする。
「血が……青い??」
【※1】エエカチチトリ……古代メソアメリカの陶器製の笛。吹くと人間の悲鳴にも似た音がすることから「デスホイッスル」とも呼ばれる。本作ではミクトランテクートリが護身用に持っているが、本来は戦いで敵の戦意を喪失させたり、生贄を伴う儀式で用いられるものである。




