(第五十二話)繋がれた血
「シン!!」
テパは、倒れ伏したシンの元へ駆け寄った。
「あぁ、酷い……」
膝をつき、シンの抱き起こす。
腹から溢れ出す血は、闇の中でも異様なほど鮮やかだった。
「こんなに……」
そっと触れただけで、手のひらが一瞬で真っ赤に染まる。
怖い。
なのに、目が離せない。
「……」
流れ続ける血。
真っ赤なその中に、微かな光が混じっている。
夜空から零れ落ちた星屑のような、点々とした輝き。
それは――贄子の証。
神に捧げられる運命を背負った者の血だ。
◆
テパの脳裏に、テスカトリポカから明かされた真実が、止めどなく溢れてくる。
『お前とお前の姉は、予め神に捧げると決められた”贄子”なのだ。どう足搔こうとも、心の臓を抜かれる定めからは逃れられない』
『誰かを守りたいわけじゃない。ただ勝ち続けて、一日でも長く生きたかった。それだけなんだ……姉さんの言葉を、無駄にしないために』
それに対しての自分の返答。
『シンは……生きる為なら、テパを見捨てるの?』
シンはこう答えた。
『いや、そんなことはない』
『絶対に、だ』
(そうだ)
テパの鼓動が、急に強くなる。
(シンに捨てられたくないなら、お願いするだけじゃだめだ)
鼓動が、ドクン、ドクンと、さらに激しくなる。
(テパが……テパが自分で……)
次の瞬間、テパの体は魔獣の方へ――
――行かなかった。
代わりに――
「……っ!!」
裂けた腹へ、その口を近づけた。
そして、流れる血をずるずると啜った。
(ウオォォォオォ……)
遠吠えが木々を揺らす。
はっと顔を上げたテパは、魔獣と目が合った。
魔獣は、自分に狙いを定めている。
このままでは間に合わない。
(……!)
次の瞬間、テパは地を蹴っていた。
マクアウィトルを握る手に力を込め、そのまま魔獣へ飛びかかる。
◆
「……」
いつの間にか、シンは意識の底に沈んでいた。
「……」
閉じた目の向こうに広がるのは、光一つない世界。
匂いも、感触も、音さえもなかった。
そんな世界の果てから、微かに何かが聞こえる。
「……ぐぁ……ぁ……」
鈍い呻き声だ。
人間のものではない。
でも、何の生き物か思い出せない。
「……ぁ……ぁ……」
息は掠れている。
そして今にも、途切れようとしている。
一つだけわかった。
この生き物は、間もなく死ぬ。
(バタッ)
そして本当に、それは動かなくなった。
「……ふぅ」
そよ風に紛れて、誰かの溜息が聞こえる。
(……誰だ?)
聞いたことのある声だ。
それも、何度も。
なのに思い出せない。
それどころか――
今自分は、会ったことのない人の声を聞いている気がする。
「おい、お前は……」
「シン……」
「……テパ!?」
◆
「テパ……」
シンは言葉を失った。
彼の目に映るのは、光のない、白く濁った目。
いつもの面影は、そこには全くない。
「お前……本当に、テパか?」
「シン……」
「な、何だよ……」
「もう、一人じゃないよ。”家族”だよ……」
「!!」
目に気を取られ、ずっと気づかなかった。
テパの口から、うっすらと赤黒い液体が垂れている。
――血だ。
(まさか!?)
恐ろしい。
本当だとしても、認めたくない。
だが、シンの視線はゆっくりと自分の腹へ移る。
テパの口と同じ色に染まっている。
「そ、そんな……あり得ない……」
体に熱を与えていた、最後の灯火が消えた。
目、鼻、耳、口、皮膚。
五感の全てが、果てしない恐怖で塗り潰された。
◆
「何だ……何が起きたんだ……」
絶えず震える唇が、辛うじて言葉を紡ぐ。
「……見て」
テパが退いた先には、何かがいる。
腹を割かれ、仰向けに倒れてもがいている。
「よく見てよ」
テパの指の先に、定まらない視線を何とか合わせたシン。
倒れていたのは――魔獣だった。
「お前……まさか、一人で……?」
「……うん」
テパは虚ろな白い目で、こくりと頷く。
あまりにも空虚な仕草だ。
操り人形が勝手に動いているような、不気味極まりない姿だった。
だが、本当に恐ろしい事実は、それではなかった――。
◆
(魔獣はどうなった?)
シンは、テパから目を逸らすように、魔獣の方へ視線を向ける。
その瞬間、何とも奇妙な現象が起きた。
自分が止めを刺していないはずの魔獣の体から、贄子が現れたのだ。
――女の姿をしている。
「あたしは……コヨ……トル……」
贄子がふと顔を上げた。
「うっ……」
シンは息を呑んだ。
その顔は、どことなく姉に似ている。
『私の分まで、しっかり――』
「消えろ!!」
叫びとともに、シンは贄子を封じた。
姉の言葉を思い出す前に。
自分が――壊れる前に。
◆
戦いの後、シンとテパは辛うじて無事だった家で休んでいた。
(魔獣が現れたということは、どこか近くの村で祭りが行われるはずだ)
シンは、贄子の体に浮かび上がった紋章を思い出す。
(あの波みたいな紋章……もしかして、海水の女神ウィシュトシワトルか)
次の町はおそらく、海の近くにある。
だが、この森には潮の匂いはない。
(明日早めにここを出て、村を探そう)
シンは眠ろうとして体を横たえる。
その隣では、テパが既に深い眠りに就いていた。
「すぅ、すぅ……」
夜風に乗って、テパの寝息が耳に届く。
星明りの中、シンはテパの寝顔をじっと見つめる。
(戦っていないときのこいつの顔は、こんなにも穏やかだ。今までと変わらない)
だが、先程までのテパの顔は、これとはかけ離れていた。
あんなにも生気を欠いた、とても人間とは思えない顔。
そして――
(僕の血を呑んで、僕と同じ力を得た……)
贄子の血を普通の人間が飲むこと自体が異例だが、よりにもよってテパは、その血で魔獣に止めを刺したのだ。
どういう原理かはわからないが、少なくともテパが、ただの人間ではなくなったということは確かだ。
(僕が……僕がやられなければ……)
悔しくて悲しくて、シンははらはらと涙を零した。
◆
シンとテパの一部始終を、ピルトは見ていた。
(テパ……シン……)
変わり果てたテパは勿論、自分の不甲斐なさを責め続けるシンが、心配でならない。
(……あ)
見上げた空の遠くで、金星が輝いている。
そろそろ、死者の案内に行かなければならない。
(……くぅっ……)
ピルトは拳を握り締める。
いつもなら、自分の本当の使命を思い起こさせる金星。
だが今は、その使命よりも、胸に渦巻く感情の方が強かった。
ピルトの心に、静かに、怒りが燃え上がる。
(あいつが……あいつが約束を破らなければ……)




