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血汐の群れる朝が来る前に  作者: Masa plus


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(第五十五話)海の女神の怒り

『……』


コヨトルは冷たい視線で神官を見下ろしたまま、沈黙している。

背後では太陽が昇り、その逆光が彼女の全身を黒い影で包み込んでいる。


暫くしてコヨトルは、徐に口を開いた。



『私に毒を盛ろうとしたわね』



それは確かに女性の声だった。

だがそれは、コヨトルのか細い声ではない。


耳にしただけで本能が震えるような、激しい怒気を孕んだ声。


――明らかに、コヨトルとは別人だ。



『人間ごときが……この無礼者!!』



その場にいた誰もが、その声に怯えた。


神官も、下界の民たちも、そしてシンとテパも。

 

「これは……ウィシュトシ――」


神官がそう言いかけた瞬間。



(ゴォォォォォ……)



町全体を揺らす轟音が響き渡った。

厳かな空気は一瞬で崩れ去り、町は混乱に包まれる。


シンとテパも、例外ではなかった。


「な、何!?」


「……波が割れる音だ」


シンの顔が強張った。


――嫌な予感がする。


「まさか!?」


 

 轟音が町へ届く少し前。

 西方の沿岸では、いつも通り穏やかな海が広がっていた。


「今日も大漁だなぁ!」


「これだけ獲れりゃあ、明日は大儲けだ!」


漁師たちは上機嫌だった。

糸を垂らせば次々と魚がかかり、舟はあっという間に魚で埋まっていく。


海のあちこちから歓声が響いていた、その時。


 

(ゴォォォォォ……)



「ん?」


「何だぁ?」


海の異変に、漁師たちはまだ気づいていない。


「あんたぁ!!」


「早く戻って!!」


岸辺では、漁師の妻たちが青ざめた顔で叫んでいた。


「波が……波が!!」


「!?」


その時にはもう、遅かった。

海が荒れ狂い、波が捻じ曲がり、見たこともない巨大な渦が生まれていた。


「うわぁぁぁぁぁ!!!!!」


喜びに沸いていた漁師たちが、次々と呑みこまれていった。



「嘘……」


「あぁ……」


轟音が収まるや否や、シンとテパは海岸へ駆け出した。

そこで二人が目にしたのは、砂浜を埋め尽くす夥しい死体だった。


「やっぱり……ウィシュトシワトルがお怒りになったんだ」


「どうして? ちゃんと贄を捧げたのに……」


「わからない……僕だって、ご機嫌を損ねるような真似をした覚えはない」


シンにもテパにも、心当たりはなかった。


魔獣を倒し、贄を取り出す。

偽りではない、確かな贄を。

そしてそれを、女神に捧げた。


いつも通りのことをした。

だからこの後には女神が恵みを齎してくださる。


そうだと思っていた。


だが、現実は全く違う。


「……!」


不意に、シンが顔を上げる。

 

「さっき、コヨトルが”私に毒を盛った”って言ってたな」


「それ、テパも気になってた……」


テパの肩が小さく震えている。


「どういうことなの!? テパは毒なんて入れてない!!」


テパは怯えていた。

自分がコヨトルにとどめを刺して、この惨劇が起きた。

シンがとどめを刺していた頃には、一度もこんなことはなかった。


何かあるとすれば、それは他ならぬ自分に原因がある。


シンがそう疑わない筈がない――。


 

「わかってる」

 


「……えっ?」


「原因はまだわからない。だが、少なくともお前のせいじゃないと思ってる」


「ほんと?」


「ああ」


予想外の言葉に、テパは目を丸くした。

その胸に、僅かな安堵が灯る。


だが、シンの表情はどこか硬かった。


「……」


脳裏に浮かぶのは、テパがコヨトルを倒した時の光景。

彼の口から流れていた血の色は――自分のと同じだった。


(もし、もし本当にこいつが毒を盛ったなら、僕も……)


「シン?」


テパがシンの手を握る。

それは、妙に冷たかった。



 テパの肩の上では、ピルトが戦慄に震えている。


「……っ」


何に悲しんでいるのか。何に怒っているのか。

考えても考えてもわからない。


「……っ!」


ウィシュトシワトルを止められなかった。

そのせいで大勢の人間が死んだ。


そして――


テパとシンを、また悲しませてしまった。


(どうして……この子たちは、何も悪くないのに……)



「……」


無機質な潮の香りが、死体の中で吹き抜けていく。

何とも言えない感覚に襲われ、シンもテパも押し黙っている。


自分たちが間違ったことをしたとは思えない。

事実だとしても認めたくない。


――でも。

 

したことの結果が、目の前の惨たらしい光景だなんて――。


「……」


双方押し黙ったまま、時間だけが過ぎていた。


――その時。



「いたぞ!」

「あいつらだ!」



「!?」


シンとテパの背後から、数人の男が現れた。


背中に籠を背負っている。

旅の途中、或いは何かを売りに来たようにも見える。


だが、市場で品物を売っていた者とは決定的に違う。


その手には――小刀や槍など、武器を握られている。


「あれは……?」


「ポチテカ【※1】だ」


「何それ――」


「逃げるぞ! 説明は後だ!」


シンはテパの手をぐっと掴んで走ろうとした。


だが、目の前には死体の山がある。その向こうには海が広がる。

後ろは言わずもがな。


「くっ……!」


シンはやむを得ず、左に向かって走り出す。テパも手を引かれて走った。


その時。


(ヒュッ!)


鋭い音と共に、何かが二人の足元へ突き刺さった。


――槍だ。


 

 その後も、ポチテカは二人めがけて矢やら石やらを容赦なく投げてきた。


「止まれ!」


怒号が飛ぶ。だが二人は足を止めない。


「わかっているんだぞ! お前たちがウィツィロポチトリの祭りを乱した張本人だとな!」


その言葉を聞いた瞬間、二人の動きが止まった。


「王都に続いてここでも災いを齎すつもりだったんだろう!?」


「いや、違――」


シンが言い返しかけた時。


「シン!!」


テパの顔が凍り付く。

シンの脚に、矢が刺さっていたのだ。


「!!」


さらに、別の矢がテパへ向かって飛んできた。


もう間に合わない。躱せない。



「きゅう!!」



その瞬間、ピルトが鋭く鳴いた。

眩い光が弾け、シンとテパを包み込む。


「……あれ?」

「あいつらが、消えた!?」


ポチテカたちの視界に残っていたのは、海と砂浜、そしてその狭間を埋め尽くす死体だけだった。

【※1】ポチテカ…古代メソアメリカの長距離交易商人。武装した隊商という形で各地を巡り、時には諜報活動を行うこともあった。

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