(第五十五話)海の女神の怒り
『……』
コヨトルは冷たい視線で神官を見下ろしたまま、沈黙している。
背後では太陽が昇り、その逆光が彼女の全身を黒い影で包み込んでいる。
暫くしてコヨトルは、徐に口を開いた。
『私に毒を盛ろうとしたわね』
それは確かに女性の声だった。
だがそれは、コヨトルのか細い声ではない。
耳にしただけで本能が震えるような、激しい怒気を孕んだ声。
――明らかに、コヨトルとは別人だ。
『人間ごときが……この無礼者!!』
その場にいた誰もが、その声に怯えた。
神官も、下界の民たちも、そしてシンとテパも。
「これは……ウィシュトシ――」
神官がそう言いかけた瞬間。
(ゴォォォォォ……)
町全体を揺らす轟音が響き渡った。
厳かな空気は一瞬で崩れ去り、町は混乱に包まれる。
シンとテパも、例外ではなかった。
「な、何!?」
「……波が割れる音だ」
シンの顔が強張った。
――嫌な予感がする。
「まさか!?」
◆
轟音が町へ届く少し前。
西方の沿岸では、いつも通り穏やかな海が広がっていた。
「今日も大漁だなぁ!」
「これだけ獲れりゃあ、明日は大儲けだ!」
漁師たちは上機嫌だった。
糸を垂らせば次々と魚がかかり、舟はあっという間に魚で埋まっていく。
海のあちこちから歓声が響いていた、その時。
(ゴォォォォォ……)
「ん?」
「何だぁ?」
海の異変に、漁師たちはまだ気づいていない。
「あんたぁ!!」
「早く戻って!!」
岸辺では、漁師の妻たちが青ざめた顔で叫んでいた。
「波が……波が!!」
「!?」
その時にはもう、遅かった。
海が荒れ狂い、波が捻じ曲がり、見たこともない巨大な渦が生まれていた。
「うわぁぁぁぁぁ!!!!!」
喜びに沸いていた漁師たちが、次々と呑みこまれていった。
◆
「嘘……」
「あぁ……」
轟音が収まるや否や、シンとテパは海岸へ駆け出した。
そこで二人が目にしたのは、砂浜を埋め尽くす夥しい死体だった。
「やっぱり……ウィシュトシワトルがお怒りになったんだ」
「どうして? ちゃんと贄を捧げたのに……」
「わからない……僕だって、ご機嫌を損ねるような真似をした覚えはない」
シンにもテパにも、心当たりはなかった。
魔獣を倒し、贄を取り出す。
偽りではない、確かな贄を。
そしてそれを、女神に捧げた。
いつも通りのことをした。
だからこの後には女神が恵みを齎してくださる。
そうだと思っていた。
だが、現実は全く違う。
「……!」
不意に、シンが顔を上げる。
「さっき、コヨトルが”私に毒を盛った”って言ってたな」
「それ、テパも気になってた……」
テパの肩が小さく震えている。
「どういうことなの!? テパは毒なんて入れてない!!」
テパは怯えていた。
自分がコヨトルにとどめを刺して、この惨劇が起きた。
シンがとどめを刺していた頃には、一度もこんなことはなかった。
何かあるとすれば、それは他ならぬ自分に原因がある。
シンがそう疑わない筈がない――。
「わかってる」
「……えっ?」
「原因はまだわからない。だが、少なくともお前のせいじゃないと思ってる」
「ほんと?」
「ああ」
予想外の言葉に、テパは目を丸くした。
その胸に、僅かな安堵が灯る。
だが、シンの表情はどこか硬かった。
「……」
脳裏に浮かぶのは、テパがコヨトルを倒した時の光景。
彼の口から流れていた血の色は――自分のと同じだった。
(もし、もし本当にこいつが毒を盛ったなら、僕も……)
「シン?」
テパがシンの手を握る。
それは、妙に冷たかった。
◆
テパの肩の上では、ピルトが戦慄に震えている。
「……っ」
何に悲しんでいるのか。何に怒っているのか。
考えても考えてもわからない。
「……っ!」
ウィシュトシワトルを止められなかった。
そのせいで大勢の人間が死んだ。
そして――
テパとシンを、また悲しませてしまった。
(どうして……この子たちは、何も悪くないのに……)
◆
「……」
無機質な潮の香りが、死体の中で吹き抜けていく。
何とも言えない感覚に襲われ、シンもテパも押し黙っている。
自分たちが間違ったことをしたとは思えない。
事実だとしても認めたくない。
――でも。
したことの結果が、目の前の惨たらしい光景だなんて――。
「……」
双方押し黙ったまま、時間だけが過ぎていた。
――その時。
「いたぞ!」
「あいつらだ!」
「!?」
シンとテパの背後から、数人の男が現れた。
背中に籠を背負っている。
旅の途中、或いは何かを売りに来たようにも見える。
だが、市場で品物を売っていた者とは決定的に違う。
その手には――小刀や槍など、武器を握られている。
「あれは……?」
「ポチテカ【※1】だ」
「何それ――」
「逃げるぞ! 説明は後だ!」
シンはテパの手をぐっと掴んで走ろうとした。
だが、目の前には死体の山がある。その向こうには海が広がる。
後ろは言わずもがな。
「くっ……!」
シンはやむを得ず、左に向かって走り出す。テパも手を引かれて走った。
その時。
(ヒュッ!)
鋭い音と共に、何かが二人の足元へ突き刺さった。
――槍だ。
◆
その後も、ポチテカは二人めがけて矢やら石やらを容赦なく投げてきた。
「止まれ!」
怒号が飛ぶ。だが二人は足を止めない。
「わかっているんだぞ! お前たちがウィツィロポチトリの祭りを乱した張本人だとな!」
その言葉を聞いた瞬間、二人の動きが止まった。
「王都に続いてここでも災いを齎すつもりだったんだろう!?」
「いや、違――」
シンが言い返しかけた時。
「シン!!」
テパの顔が凍り付く。
シンの脚に、矢が刺さっていたのだ。
「!!」
さらに、別の矢がテパへ向かって飛んできた。
もう間に合わない。躱せない。
「きゅう!!」
その瞬間、ピルトが鋭く鳴いた。
眩い光が弾け、シンとテパを包み込む。
「……あれ?」
「あいつらが、消えた!?」
ポチテカたちの視界に残っていたのは、海と砂浜、そしてその狭間を埋め尽くす死体だけだった。
【※1】ポチテカ…古代メソアメリカの長距離交易商人。武装した隊商という形で各地を巡り、時には諜報活動を行うこともあった。




