(第四十八話)黒曜石の欠片
シンとテパが兵に追われていた頃。
光の届かぬ闇の空間で、ひとつの影が音もなく立ち上がった。
「どちらへ行かれるのですか!?」
「……」
縋るような声を上げたのはチャアクだった。
だが、その問いに応じる気配はない。
「あの、どうか……どうかテパは……!」
懇願の言葉が形を成す前に、彼の身体は見えない力に縛り上げられた。
抗う間もなく、四肢は闇に封じられる。
「安心しろ」
低く、しかし確信に満ちた声が響く。
「大事なことを伝えに行くだけだ」
――パチン。
指が鳴った瞬間、空間に浮かんでいた黒曜石の鏡が砕け散った。
鋭い破片が無数に飛び、闇へと溶けていく。
その先に繋がるのは――。
シンとテパが逃げ込んだ、あの森だ。
◆
茂みの奥に、二つの影が息を潜めている。
「ここなら大――」
言い終える前に、声が割り込んだ。
(おい、出てこい!)
(くそ、どこ行ったんだ)
(逃げられると思うなよ!)
怒号は近い。あまりにも、近すぎる。
先程まで遠くにあったはずの気配が、瞬く間に迫ってくる。
「やっぱりだめだ。逃げよう」
シンとテパは、足音を立てないよう注意しながらその場を離れた。
◆
どれほど走っただろうか。
やがて、追手の声は消え、足音も途絶えた。
「もう……大丈夫、かな」
テパが恐る恐る茂みから出ると――。
(ドガッ、ドガッ)
「ひゃっ!!」
すぐ背後から叩きつけるような音。
反射的に身体が震える。
「違う」
シンの手が、そっと背中に触れた。
「あれは兵士じゃない」
「えっ?」
「この森にいる獣だ」
言われて目を凝らすと、確かに見える。
木々の間に揺れる影は、人間よりもはるかに大きい。
「あ、ほんとだ。何だ……」
安堵しかけたテパを、シンの声が引き戻す。
「安心してる場合じゃない。ここも危険だ。出よう」
二人は再び歩き出した。
◆
辿り着いた先は、命の気配に乏しい岩地だった。
「ここ、本当に安全なの……?」
無理もない。
人の気配はないが、それは同時に“何もない”ということでもあった。
食べ物は見当たらず、足元には細く頼りない水の流れがあるだけである。
「魔獣と必死で戦った結果がこれか……皮肉だな」
シンが乾いた声で呟く。
「酷いよ、こんなの……」
テパはその場に崩れるように膝をついた。
シンはただ隣に座り、寄り添うことしかできない。
「王都でここまで警戒された。噂はもう広まるだろうな……」
重い現実を噛みしめるように、彼は言う。
「暫くは、ここにいるしかない」
二人は僅かな水をすくい、喉を潤す。
それだけで、空腹を誤魔化すしかなかった。
(あぁ……)
遠くから見守るピルトは、歯噛みした。
だが、できることは何もない。
(どうか……二人とも死なないで……)
その願いだけが、胸の奥で燃えていた。
◆
昼過ぎになり、空が少し曇ってきた。そして涼しい風が吹いてきた。
「……あのさ」
隣で俯いていたテパが、ぽつりと口を開いた。
「ザワリが言ってたけど……シンも前に言ってたよね? ”自分は初めからここにいたんじゃない”、って」
「……覚えてたのか」
返事はかすれていた。
視線はどこか遠くを彷徨っている。
「ずっと気になってたんだ。ザワリが出してたの。骸骨の顔した男の人と女の人、他にもいっぱい、人の形の……」
「……」
シンは視線を逸らしたまま、沈黙している。
(ん……)
テパは横目でシンを見る。
だが、すぐに視線を逸らしてしまった。
(……あ)
伸ばしかけた手も、触れる前に引っ込めた。
◆
時間が流れ、雲は厚みを増し、風は唸り始めた。
二人は大きな岩陰へ身を寄せる。
「実は、だな……」
シンは岩陰で、やっと口を開く。
「魔獣は――」
(ピキン――)
その音に、シンは気づかなかった。
そして、足元に落ちていた、黒曜石の欠片にも――。
(フワッ……)
ひとりでに欠片が割れ、粉塵が舞う。
指先ほどの大きさしかない欠片から、あり得ない程の量の黒い粉塵が、空間に広がっていく。
視界が、闇に侵される。
「ハハハハハ……!」
渦巻く塵の向こうに、突如黒い影が現れた。
徐々に近づくそれは、黒い体をしている。
右脚はなく、煙がそれらしい形を成している。
胸元には、紅白の縁がある大きな鏡。
そして顔は、黒と黄色の縞模様。
シンは悟った。
「……テスカトリポカ!?」
◆
腕を組んで悠然とした姿で、テスカトリポカが現れた。
「おいおい、この俺の前でその態度か。頭が高いぞ」
恐れ戦いて闇の神の顔を見つめていた二人の耳に、雷にも似た闇の神の声が轟く。
「はっ! も、申し訳ございません……」
シンは慌てて頭を下げる。それを見てテパも続いた。
だが、ピルトだけは違った。
自分の存在に気づいていない彼を、ただまっすぐに見据えている。
「お前……何しに来た」
「おう」
その一言で、ようやく神は彼に気づいた。
「成程、尾けていたということか」
その言葉に、テパがはっと動揺する。
「ピルト……どういうこと?」
そっとピルトに顔を向けて問うたが、ピルトはテスカトリポカをじっと見つめたまま答えない。
「お前、そいつが気になるか?」
テスカトリポカの声が、いつの間にか耳元にある。
テパは息を呑み、かろうじて踏み留まる。
「……いや、まだいい。それより……」
神の視線が、ゆっくりとシンへ向けられる。
「俺が用があるのは、こいつだ」
一歩、近づく。
「顔を上げろ」
「……」
シンは動かない。
その沈黙を嘲るように、神は告げた。
「お前が倒してきた魔獣とやらは、全てお前の兄弟なんだろう? シンカヨトル」
「――ッ!!」
◆
『魔獣の正体は、シンの兄弟である』――。
その言葉は、凍てつく刃のように思考を断ち切った。
シンだけでなく、その隣のテパも。
(そんな……う、嘘、でしょ……?)
以前シンから聞いたのは二つ。
自分が初めからこの世界にいたのではないということ。
唯一の家族である姉を、生贄という悲しい形で失ったこと――。
(魔獣が……今まで戦ってきた奴らが兄弟だなんて……)
理解が追いつかない。
その隙間に、テスカトリポカの声が滑り込んだ。
「お前の母はミクテカシワトル」
冷ややかな、そして愉しむような声。
「そして父は……冥界の王ミクトランテクートリだ!」




