(第四十七話)王都を包む混沌の気配
(……ん……)
その頃、気を失っていたピルトが、ゆっくりと目を覚ました。
(ん、ん……)
鈍く残る痛みに顔を顰めながら、彼は小さな体を起こす。
(んもぅ……手荒だなぁ)
木々の間から覗ける空には、太陽がない。
ただ、青とも黒ともつかぬ、不気味な色が広がっているだけだ。
(あれ? もう夕方?)
そう思った瞬間。
背後から、微かな光が差し込んだ。
(んん……?)
空に、一筋の光が現れていた。まるで、この暗い空を裂くかのように。
(え!? もう朝!?)
ピルトは驚いて飛びあがる。
間違いない。
あれは、新たな日を告げる光だ。
(あちゃ……、務めをさぼっちゃったよ)
ピルト小さな手で頭を抱えた。
冥界の入口で足止めされている無数の死者たちの姿が、脳裏をよぎる。
(あーあ……)
溜息をつきながら、もう一度空を見上げた、その時。
(……あ!)
そこには、光に紛れかけた、真っ白な球体があった。
(こっちが先だね!)
その瞬間、ピルトの瞳が鋭く細まる。
森を蝕む蜘蛛糸へ――狙いを定めた。
◆
白い糸に閉ざされた空間の中では、ザワリの爪が、じわじわとテパの喉元へ迫っていた。
(……!)
やがて、その先端が食い込む。
皮膚が軋み、奥の喉笛が押し潰されていく。
(……! ……!!)
息が、できない。
シンは動かない。
(……………………!!!!!)
本当に、本当にここで終わるのだと、テパが悟りかけた、その刹那。
(シュッ!!)
「!?」
何が起きたのか、すぐには分からなかった。
白い糸の中に、さらに細い糸が走った――。
そう錯覚するほど、一瞬の出来事だった。
だがそれは、糸ではない。
“それ”が通過した直後、空間の上部がぱっくりと裂けた。
閉ざされていた白の世界に、外界の風と匂いが流れ込んだ。
――やっと、ここから出られる。
姿は見えない。
だが確かに、絶望を切り裂いた存在がいる。
「ピルト!!」
塞がれていたはずの喉から、テパの声が絞り出された。
◆
「きゅう! きゅう!」
その呼び声に応えるように、桃色の影が颯爽と躍り出る。
一閃で糸を薙いだのは、ピルトだった。
「ピルト!!」
驚く間もなく、ピルトは縦横無尽に駆け、次々と糸を断っていく。
「ピルト、こっち!!」
喉が潰れかけている。
声も濁っている。
それでも構わない。
テパは必死にピルトの影を追って呼びかけた。
「な、何!?」
その声と共に、テパの喉の圧迫が消える。
不意の乱入に、ザワリが動きを止めたのだ。
◆
「……ん……?」
俯いていたシンは、周囲の物音に顔を上げる。
(……!?)
世界が変わっている。
そこは、自分がいた場所ではない。
目を閉じれば真っ黒で、
目を開ければ真っ白だったはずの世界。
その世界に――上半分だけではあるが――”色”がある。
「!!」
その瞬間、シンの意識は完全に覚醒した。
悪夢が、終わった。
◆
シンとテパが窮地から救われる一方で、ザワリは追い詰められていた。
「ちょ、ちょっと……何よ、訳わからない山椒魚まで出て来て……!」
ザワリは空間を切り裂いていくピルトを追うのが精一杯だった。
捕えていた二人の少年のことなど、最早忘れている。
「あんた、ただじゃおかないわよ!」
ザワリはピルト目がけて糸を乱射する。
だが、小柄で素早い彼は攻撃を全て躱した。しかも、とても軽やかに。
「あぁもう、苛々するわ!!」
ザワリは怒りに任せて攻撃を繰り返す。
少年たちが消えていたことに気づかずに――。
◆
糸の束縛を解かれたシンとテパは、地面へと降り立っていた。
「助かったね……」
安堵するテパに、シンは短く言う。
「奴を倒すのが先だ」
シンはそう言って、その場を離れる。
「どこ行くの?」
だが、シンはすぐに足を止めて振り向いた。
その手には、小刀とマクアウィトルが握られている。
「奴が落ちたところを狙う」
「ピルトは?」
「大丈夫だ。あいつを信じろ」
シンは小刀を、テパは受け取ったマクアウィトルを力強く握りしめた。
◆
「きゅう! きゅう!」
ピルトの動きが加速する。
そしてついに――糸玉が、完全に崩壊した。
「ぎゃっ!」
足場を失ったザワリが、地面へと叩きつけられる。
衝撃が大地を揺らし、シンとテパも膝をついた。
◆
「ぁ……ぁ……」
ひっくり返って情けない声を出しているザワリ。
その目に、二つの影が差し込んだ。
「!」
ザワリはこの時になってようやく、少年二人を捕らえていたことを思い出した。
「……あんた……たち……」
「間を取らせすぎたな」
背が高い方の影が、冷たく言い放つ。
その手には、血が滴る小刀が握られていた。
「まだ何か言うことがあるか」
「……いいえ」
ザワリは妙にあっさりと否定した。
抗えない自分の運命を、受け入れているようだ。
「……ならば」
影は小刀を振り上げ、巨大な蜘蛛の体を一思いに両断する。
中からは、妙齢と思しき女性が出てきた。
(!)
その体からは、鷲と蜂鳥の羽が生えている。
鮮やかながらも勇ましい、神の如き風格が備わっていた。
影が言った。
「お前か。ウィツィロポチトリの贄子は」
◆
翌日。煌々と輝く朝日が、双子神殿の間から昇る。
「……あっちで、やるんだ」
テパが視線を向けたのは、並び立つ神殿のうち右の方――ウィツィロポチトリのものだ。
その頂には、体中から羽が生え、鳥と区別がつかない見た目のザワリが立っている。
「こういうの、もう慣れた」
「そうか」
シンとテパが互いに視線を合わせぬまま、沈黙が流れた。
そうしている間にも、ザワリの後ろに神官が近づいていた。
この後どうなるか、二人はわかっている。
が、神官が体を横たえようとした直前――。
「……ふ、ふふ、ふぁっははははは!!!!!」
突然、ザワリが天を仰いで狂ったように笑った。
「ははははは……」
暫く笑った後、ザワリはシンとテパを真っ直ぐに見下ろして言った。
「あなたたち! これで勝ったと思わないでね! 寧ろ、”これで終わる”のよ!!」
「おい、それはどういうことだ!?」
「全て、テスカトリポカ様がお見通しなのよ!!」
「……何だと!?」
◆
ザワリの衝撃的な一言に、一帯は騒然となった。
「え……?」
「何だよテスカトリポカ様って……」
「これはウィツィロポチトリ様のお祭りでしょ……?」
市民が口々に不安を漏らす。
混乱が広がるその様を、ウィツィロポチトリもしっかりと見ていた。
「あの少年らは……!」
間違いない。血を捧げずに自分たちの姿を見ることができると、神々の間で警戒を強めていた者たちだ。
「やはりか……最悪の予測が当たった」
ウィツィロポチトリはいてもたってもいられなくなった。
◆
眼下で、ザワリの体が横たえられる。
「もういいわ。やって頂戴」
その呟きから間もなく、神官の刃がザワリの心臓を貫く。
ザワリの胸から血が流れる。
そのまま息絶えるのを、神官が見守っていた時のことだった。
『奴らこそが、この王都を脅かす者だ』
横たわっていたはずのザワリが、急にガバッと跳ね起きた。
しかもその声は、生前とは似ても似つかない、重く威圧的な男の声だった。
「こ、これは……もしや……」
神官は腰を抜かした。
今ザワリに起きている現象には心当たりがあるが、恐ろしくて口に出せない。
「ぁぁぁ……」
神官は怯えながら後ずさりする。
握られていた小刀が、ぽろりと落ちた。
◆
ザワリはゆっくりと右腕を上げる。
「!!」
シンもテパも、その姿にぎくりと息を呑んだ。
ザワリは――自分たちを指さしている!
『奴らを追え!!』
その合図と共に、神殿の下に立っていた兵士たちが、一斉に追って来た。
「まずい、逃げるぞ!」
「わあぁ!!」
考える暇などなかった。
二人は逃げた。ひたすら走って逃げた。
◆
神殿の背から、煌々と輝く太陽が昇る。
その姿は正に、『輝ける御神』の威容そのものだった。
「はぁっ、はぁっ……」
必死に逃げる二人の前には、黒い影が長く伸びている。
どこへ行っても逃げられないと、誰かが警告しているかのように――。




