第6話 無口な辺境侯の朝の茶
その翌朝も、役所の机の端には銀の水筒が置かれていた。
蓋を開けると、昨日より少しだけやわらかい香りがした。杜松に野生の蜂蜜をほんの少し落としてあるらしい。
「冷える前に飲め」
ちょうど戸口に現れたヴィクトルが、いつもの無愛想な声で言う。
「毎朝、本当に出してくださるんですね」
「必要ならと言った」
私は思わず笑ってしまった。
その日はエイスフェルト村の果樹地籍を測り直した。未亡人サビーネの果樹園は、最新台帳だと半分以下の面積しか登録されていない。だが実際に歩けば、植樹間隔も石垣の古さも、元の境界がどこにあったかを教えてくれる。
「ここからここまで、昔はうちの梨だったんだよ」
サビーネが震える指で石垣をなぞる。
「夫が亡くなってから、急に図面が変わったんだ」
私は植え間の歩幅を測り、旧図と照合した。やはり八列分が丸ごと削られている。減らした面積が、ちょうど別帳簿の放牧地へ足されていた。
「戻せます」
私が言うと、サビーネの目が大きくなる。
「本当に?」
「石垣の積み方と樹齢が証拠になります。嘘の線より長く残るものです」
帰り道、ヴィクトルが馬を寄せた。
「村人は君を怖がっていない」
「王都では、よく怖いと言われました」
「王都は、正しいことを怖がる人間が多いんだろう」
ぶっきらぼうな言い方なのに、妙に胸に残る。
「地図は綺麗に見せるためじゃありません」
私は水筒の温かさを両手で包んだ。
「そこにいる人が、ちゃんと自分の場所へ戻れるようにするためのものです」
ヴィクトルは少しだけ目を細めた。
「なら、うちの地図は君に任せるべきだな」
王都では誰も、私の言葉をこんなふうに受け取らなかった。
湯気の向こうで、北辺の朝が少しだけ明るく見えた。




