第3話 北辺領への左遷命令
北辺領へ向かう馬車は、王都の石畳の匂いを二日で吹き飛ばした。
窓を少し開ければ、湿った土と針葉樹、まだ冷たい川風が入ってくる。王都では冷たく感じていた空気が、今は妙に息をしやすくしてくれた。
ノルトハイム辺境侯領の役所は、城館に付属した石造りの低い建物だった。だが帳場は乱れ、壁の地図には墨で消された村名がいくつもある。
「王都から来た地籍監査官か」
低い声に振り返ると、黒い外套をまとった男が立っていた。辺境侯ヴィクトル・ノルトハイム。三十八歳。無駄のない姿勢は、冬の境界石みたいに簡素で動かない。
「ヘレナ・ヴァイスナーです」
「顔色は悪くないな。王都で折れてきた人間は、もっと浅い息をする」
歓迎とは言いがたい言葉だったのに、不思議と刺さらなかった。
彼は傍らの従者から銀の小さな水筒を受け取り、私に差し出した。
「杜松茶だ。道が冷えただろう」
蓋を開けると、温かい湯気とともに青い香りが立つ。針葉樹よりやわらかく、舌の上で少しだけ甘い。
「ありがとうございます」
「礼は要らない。必要なら毎朝出す」
それだけ言って、彼は役所の壁地図の前へ歩いた。
そこには、白鹿草原の南端がごっそり削られた最新図と、別の手で描き足された課税区分が並んでいる。帳場の奥から、測量頭のグレタが腕組みして出てきた。
「宮廷さん。うちでは三つの村が同じ草地で税を取られてる。なのに地図じゃ一つ分しか残ってない」
「村名は」
「エイスフェルト、ラウベ、シュタイン。ついでに、去年まであった水車場が今の図じゃ隣領扱いだ」
私は机に置かれた訴状をめくった。どれも面積欄だけが妙にきれいに揃えられている。現地で暮らす人の苦情より、帳簿の見た目だけを整えた線だ。
「実地へ出ましょう」
「着いてすぐか」
ヴィクトルが問う。
「紙だけ見ても、この線が誰を苦しめたかまではわかりません」
彼は短くうなずいた。
「馬は出す。好きなだけ歩け」
追放先としては、あまりに都合がよすぎた。
ここは片づけを命じられた辺境ではない。
王都で隠した線の、続きそのものだ。




