第2話 消えた境界杭の記録
夜の地図室は、昼のざわめきが嘘みたいに静かだった。
私は抜き取られた控え帖の代わりに、保管庫の修正伝票を机いっぱいに広げる。白鹿草原の補正図だけ、赤糸の結び方が違う。王国地籍局では左に一度返す結びが正式だが、この伝票は右に流している。
アルベルトの執務机に積まれた書類と同じ結び方だった。
「やっぱり」
指先で伝票の縁をなぞる。実測担当欄は空白のまま、承認印だけが急いで押されていた。しかも印泥の色が王国用ではなく、地方出張用の安い赤だ。
私は地図棚の裏から古い補正図を引き出した。三年前の白鹿草原は、たしかにノルトハイム辺境侯領の共有草地として登録されている。現行図だけが不自然に切り取られていた。
「まだそんなことをしているの」
振り返ると、継母のオデットと父エルンスト、そして地籍局長まで戸口に立っていた。後ろにはクララとアルベルトもいる。ずいぶん揃うのが早い。誰かが、私が残るとわかって呼んだのだろう。
「ヘレナ」
父は疲れた声で言った。
「婚約者と従妹の配置に不満があるのはわかる。だが春の改訂前に書庫を荒らすのはやめなさい」
「荒らしているのではありません。補正伝票が偽物です。鍵と控え帖も抜かれています」
「まあ、怖い」
クララが胸元に手を当てた。
「お姉様に嫌われているのは知っていましたけれど、わたくしが書類まで盗んだみたいに言われるなんて」
「論点をずらさないで」
私が一歩進むと、局長が一枚の命令書を机へ置いた。
「北辺領地籍監査補任命令だ」
言葉の意味が、すぐには入ってこなかった。
「白鹿草原を含む北方第七区は苦情が多い。記録官である君が現地へ赴き、境界争いを鎮めてこい。君自身が線に不備があると言うのなら、現地で確かめるのが筋だろう」
調査ではない。体よく王都から追い出すための左遷命令だった。
アルベルトは静かに言う。
「少し距離を置こう、ヘレナ。君は今、冷静じゃない」
その口ぶりで全部つながった。
抜かれた鍵、偽の補正伝票、急ぎすぎた承認印。そしてこの、あまりに整った処分。
私は命令書を手に取り、封の縁に残る赤い泥を指でこすった。王都のものではない。北方出張用の携行印泥だった。
「わかりました。行きます」
泣きも怒鳴りもしなかったからか、皆が少しだけ驚いた顔をした。
でも、私の中ではもう別の感情が立ち上がっていた。
私は直線をごまかすために使われた結び方を覚えた。
紙の上の線は消せても、手癖までは消えない。




