第1話 奪われた地図室の鍵
王国の春の地図改訂では、誰が最初に境界線を引くかで、その年の土地争いの勝敗が決まる。
三十三歳になった今も、私は窓の外の景色より先に地籍台帳の数字を見てしまう。面積、地目、境界石番号、修正印。王国地図室で十一年、王都の領地争いを片づけてきた癖だった。
「今年の春季実地確認は、クララが前に立つ」
婚約者のアルベルト・ライナーが、地図机に新しい改訂図を広げたまま言った。
隣には従妹のクララ・エルフェルトが立っている。二十七歳。淡い水色のドレスに白手袋、心配そうに伏せた睫毛まで、守ってあげたくなるように整えられていた。
「お姉様は記録の方がお上手ですもの。現地でのご説明は、もっとやわらかい雰囲気の者の方が喜ばれると思うの」
「地籍確認は雰囲気で行うものではありません」
私は改訂図へ顔を近づけた。北方第七区、白鹿草原の南端を流れる小川が、半指ぶん東へずれている。紙の上ではわずかでも、現地では牧草地一帯が別領地へ移る距離だ。
「この補正、誰が実測しましたか」
問うと、クララは首をかしげた。
「地図室に届いていた最新版でしょう? わたくし、とても見やすいと思いましたわ」
違う。小川の癖が消えている。蛇行の角度も、測量印の位置も、実地を歩いた人間の線ではない。
私は反射的に自分の棚を開けた。現地確認用の真鍮鍵箱、境界杭記録帖、補助方位盤。だが北方第七区の鍵だけが消えていた。境界杭の控え帖も、白鹿草原の頁だけ抜かれている。
「……誰か、私の箱を開けましたね」
部屋の空気がわずかに揺れた。アルベルトは視線を逸らし、クララは白手袋の指先をそっと重ねる。
「また記録か、ヘレナ」
アルベルトの声は、私をなだめるときだけ妙に甘い。
「春の改訂前に騒ぎを起こさないでくれ。クララは体が弱いんだ。余計な負担をかけるな」
「負担をかけられているのは王国の地籍です。この線は実測と合っていません」
「言いがかりに聞こえるわ」
クララが小さくため息をつく。周囲の書記官たちが気まずそうに目を伏せた。私は冷たい。クララは可憐。王都ではもう、その構図が完成している。
「鍵と控え帖が消えています。確認が必要です」
「十分だ」
アルベルトは改訂図を片手で押さえた。
「今年はクララが実地確認の顔になる。君は裏で整合だけ取っていればいい。もともと君は、前に立つより影で線を引く方が向いている」
その言葉より、紙の上で不自然にまっすぐ引かれた小川の線の方が、私にはよほど冷たかった。
地図が先に歪んだのではない。
誰かが、現地の境界を動かしてから紙を直したのだ。




