第12話 買い戻したい元婚約者
アルベルトが北辺へ来たのは、ラウベ村の仮復帰と白鹿草原の再測量が王都へ届いた直後だった。
応接室へ通された彼は、以前と同じ穏やかな顔をしている。けれど私には、その顔が相手を丸め込むための仮面にしか見えなくなっていた。
「ヘレナ、君の実力は認めている」
最初の一言がそれだった。
「王都へ戻れ。今なら地図室の席も整え直せる。婚約も、このまま流す必要はない」
「条件は」
私が問うと、アルベルトは少しだけ声を落とした。
「北辺の件は、局内の整理不足として収める。君は余計な名を出さず、修正図だけ提出すればいい。クララも表からは退く」
やはりそうだ。
欲しいのは私ではない。私の線と、私が揃えた証拠だけ。
「あなたが買い戻したいのは、婚約者ではなく監査官の手でしょう」
アルベルトの口元がわずかに引きつる。
「君は昔から、そうやって刺々しい」
「刺々しいのは不正です」
私が言い切った瞬間、扉が開いた。ヴィクトルがいつもの黒い外套のまま入ってくる。
「商談なら終わったようだ」
静かな声なのに、部屋の温度が変わった気がした。
「これは私とヘレナの問題だ」
「ここはノルトハイム辺境侯領だ。領地境界をいじった話なら、当然うちの問題でもある」
逃げ道を失ったアルベルトは、最後に私を見た。
「王都へ戻らなければ、君は永遠に影のままだ」
私ははっきり答える。
「もう誰の影にも戻りません」
彼が去ったあと、指先の震えが遅れてきた。
ヴィクトルは何も問わず、机の端に銀の水筒を置く。
「今日は冷えている」
蓋を開けると、杜松茶の湯気が上がった。
王都では、私が弱る瞬間を狙って言葉を差し込まれた。
でもここでは違う。
黙って置かれた温度の方が、どんな甘い言葉より信用できた。




