第9話『氷河期の天才たち』
2000年5月6日。土曜日。
マギ・ハブの1階。
元・印刷工場だった空間に、異物が並んでいる。
中古のDELL PowerEdge。3台。秋葉原の裏通りで木村が見つけてきた。倒産したベンチャーからの引き上げ品だ。1台8万円。リース落ちの傷だらけの筐体だが、中身は生きている。
航は、サーバーラックの前にしゃがみ込んでいた。
背中に汗が滲む。5月の三郷は、もう夏の気配がする。空調設備はまだない。扇風機が2台、むなしく首を振っている。床の隅には剥き出しのLANケーブルがのたくっている。
『マスター。ISDN回線の束ね処理、完了しました』
F501iの画面に、アイリスの文字が流れる。
「スループットは」
『理論値の73%。ボトルネックはNTTの局舎です』
航は、舌打ちした。
2000年のインターネット。ADSL普及前夜。ISDNの64kbpsを4回線束ねても、256kbps。2026年の光回線なら一瞬で終わる処理が、ここでは何時間もかかる。
「パケット予測制御のテストを始める」
『了解』
画面に、コードが流れ始める。
TCPの輻輳制御を先読みし、パケットロスを予測して事前に再送要求を出す。理論的には可能だが、この時代のCPUパワーでは処理が追いつかない——はずだった。
『テスト完了。韓国サーバーへのRTT、平均147ms。予測制御なしは312ms。53%改善』
「……使える」
航は、立ち上がった。
窓の外を見る。田んぼ。用水路。建設中のTX高架。
この何もない場所から、世界のOSを書き換える。
だが——
航は、自分の手を見た。13歳の、小さな手。
1億3千万円がある。未来の知識がある。アイリスがいる。それでも、この手は二本しかない。
『マスター。人材が必要です』
「……わかってる」
『ITバブル崩壊で、多くの才能が路頭に迷っています。今なら、安く買い叩けます』
「相変わらず容赦ないな」
『効率的なだけです』
航は、F501iを閉じた。
買い叩く。
39歳の自分は、就職氷河期を知っている。新卒の就職率が6割を切り、優秀な人間が非正規に落ち、自殺者が年間3万人を超えた時代。
その時代の才能を、安く買い叩く。
——救済か、搾取か。どちらでもいい。結果だけが正義だ。
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5月13日。深夜2時。
航は、PCの前に座っていた。
画面には、2ちゃんねるのプログラマー板。
2000年の2ちゃんねる。まだ「便所の落書き」と呼ばれていた頃。罵倒と煽りと自演が渦巻く、ネットの掃き溜め。だが、この混沌の中に、本物の才能が潜んでいることを航は知っている。
『マスター。パズルの準備ができました』
アイリスが、画面にコードを表示する。
楕円曲線暗号。2000年時点では、学術論文の中にしか存在しない技術。RSAが主流のこの時代に、ECCを理解できる人間は極めて限られる。
「これを解ける奴がいたら、本物だ」
『はい。この時代の知識だけでは、解答に辿り着くことはほぼ不可能です』
航は、キーボードに手を置いた。
スレッドを立てる。
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【暗号】解けたら50万円【マジ】
1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2000/05/13(土) 02:15
以下の暗号を解読せよ。
解けた奴には現金50万円。
連絡先はメール欄。
[暗号文]
E: y² = x³ + ax + b (mod p)
p = 6277101735386680763835789423207666416083908700390324961279
a = -3
b = 64210519e59c80e70fa7e9ab72243049feb8deecc146b9b1
G = (指定された基点座標)
暗号化メッセージ:(座標列)
ルール:
・ヒントは出さない
・期限は1週間
・釣りじゃない
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スレッドは、すぐに荒れた。
2 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2000/05/13(土) 02:17
また厨房の釣りか
死ね
3 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2000/05/13(土) 02:18
>>1の母です。息子がご迷惑を
4 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2000/05/13(土) 02:19
メ欄でIP抜くタイプの釣りだろ
踏むなよ
5 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2000/05/13(土) 02:23
暗号の形式が見たことない
RSAじゃないな
6 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2000/05/13(土) 02:31
>>5
楕円曲線か?
パラメータが変だぞ
FIPS 186-2のドラフトか?
7 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2000/05/13(土) 02:38
>>6
お前何者だよ
まさか解く気か?
8 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2000/05/13(土) 02:45
ECDLP舐めんな
Pentium IIIで回したら実家が燃える
釣り確定、終了
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航は、画面を見つめていた。
『マスター。少なくとも3人が、暗号の異常さに気づいています』
「だが、解ける奴はいるか」
『わかりません。しかし——本物が現れたら、すぐにお知らせします』
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5月18日。午後11時。
5日が経った。スレッドは300を超えていた。だが、正解者はいない。
「解けるわけない」「1は研究者か?」「50万は詐欺」——議論は空回りを続けている。
航は、諦めかけていた。
『マスター。動きがありました』
アイリスの通知が、F501iを震わせる。
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287 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2000/05/18(木) 22:47
横レス
この暗号、楕円曲線の離散対数問題だな
パラメータが既知の曲線と一致しない
NISTのドラフトにも載ってねえ
288 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2000/05/18(木) 22:51
>>287
誰だお前
コテつけろ
289 名前:K 投稿日:2000/05/18(木) 22:53
Kでいい
この曲線、素数位数がでかすぎる
160ビット以上
まともに計算したらPentiumが溶ける
290 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2000/05/18(木) 22:56
>>289
だからなんだよ
解けんのか解けねえのか
291 名前:K 投稿日:2000/05/18(木) 23:02
普通にやったら無理
でもパラメータに穴がある
意図的に仕込まれてる
>>1はそれを見つけろって言ってる
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航の背筋が凍った。
『マスター。この「K」という人物——』
「穴に気づいた」
『はい。私がアルゴリズムに仕込んだバックドアです。これに気づける人間は、この時代にはほとんど存在しないはずです』
航は、画面を凝視した。
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292 名前:K 投稿日:2000/05/18(木) 23:15
解いた
答えはメールで送った
>>1が本物かどうか確かめる
293 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2000/05/18(木) 23:17
は?マジで解いたの?
晒せよ
294 名前:K 投稿日:2000/05/18(木) 23:21
晒さない
この暗号、普通じゃない
解法を公開したらまずいことになる
295 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2000/05/18(木) 23:27
>>1
お前、何者だ
この曲線のパラメータ、どこで手に入れた
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航は、メールボックスを開いた。
1通。
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差出人:k_ryo@xxxxx.ne.jp
件名:解答
答えは「Hello, future」
この暗号は罠だ。
曲線のパラメータにバックドアが仕込まれてる。
普通の数学者なら気づかない。
お前、この暗号をどこで手に入れた。
あるいは——お前が作ったのか。
もし後者なら、お前は危険な人間だ。
K
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航は、返信を打った。
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件名:Re: 解答
正解。50万円を渡す。
直接会えるか。
三郷駅南口。5月20日、14時。
俺は中学生の格好をしてる。
驚くなよ。
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5月20日。土曜日。午後2時。
三郷駅南口。
航は、ロータリーの端に立っていた。5月の陽射し。湿った風が、田んぼの匂いを運んでくる。
14時5分。
男が現れた。
痩せている。目の下に深いクマ。無精髭。よれたTシャツにジーンズ。サンダル。
20代前半。だが、疲弊した顔は、もっと歳を取って見える。その瞳の奥に、何かが青白く明滅している。怒りか、飢えか——航には、まだ判断がつかなかった。
男は、周囲を見回した。そして、航を見た。
「……お前か」
低い声。三日は風呂に入っていない匂い。
「神崎亮」
航は、名前を呼んだ。
男の目が、細まった。
「なんで俺の名前を知ってる」
「メールアドレスから辿った」
嘘だ。航は、未来からこの男を知っている。
神崎亮。1977年生まれ。23歳。東大理学部数学科中退。ベンチャー企業に就職したが、ITバブル崩壊で会社は倒産。今は無職。
航は、この男の未来を知っている。孤独な15年。遅すぎた評価。
——その回り道を、全部カットする。
「50万、持ってきた」
封筒を差し出す。
神崎は、受け取らなかった。
「先に聞く」
目が、航を射抜く。
「お前、何者だ。中学生がこんな暗号を作れるわけがない。あのパラメータは、今の数学界じゃ知られてない。NISTのドラフトにすら載ってない。なのにお前は——」
「答える前に、一つ見せたいものがある」
航は、F501iを取り出した。
「触っていい」
神崎は、躊躇した。だが、好奇心が勝った。
携帯を受け取る。画面を見る。
『初めまして。アイリスです』
神崎の顔が、凍りついた。
「……なんだ、これ」
『私はAIです。10KBのメモリで動作しています』
「10KB? 馬鹿言うな。この応答速度、この文脈理解——」
『できます。証明しましょうか』
画面に、コードが流れ始める。アイリス自身のソースコード。10KBに圧縮された、2026年の技術。
神崎の手が、震え始めた。
「……本物か」
「本物だ」
「お前が作ったのか」
「ああ」
神崎は、航を見た。13歳の中学生。だが、その目には——
「お前……何者だ」
「ただの中学生だ。未来が少しだけ見える」
神崎は、黙った。長い沈黙。
やがて、封筒を受け取った。
「……50万、もらう」
「ああ」
「それと——」
神崎は、航の目を見た。
「お前の『未来』とやらに、俺を使え」
---
マギ・ハブ。午後4時。
神崎は、サーバールームを見回していた。
「……マジかよ」
呟く声に、畏怖が滲んでいる。
「3台のPowerEdgeで、この処理速度? あり得ない」
「アイリスのアルゴリズムだ。パケット予測制御。TCPの輻輳を先読みして、遅延を半減させる」
「先読み? どうやって」
「機械学習だ」
航は、それ以上説明しなかった。
神崎が、じっとこちらを見ている。
「……2026年、か」
「信じなくていい」
「信じるさ」
神崎は、笑った。疲れた、だが、どこか吹っ切れたような笑い。
「あの暗号を見た時から、わかってた。あのパラメータは、今の数学じゃ導出できない。未来から来たか、あるいは——お前が人間じゃないか」
航は、何も言わなかった。
神崎は、サーバーの前に立った。
「俺は、ずっと探してた」
「何を」
「自分の技術が、世界を変えるって感覚」
神崎の目が、青いLEDを見つめている。
「大学を辞めた時、教授に言われた。『お前の発想は早すぎる。10年後なら評価されるかもしれないが、今は誰も理解しない』」
「……」
「会社が潰れた時、上司に言われた。『お前の技術は素晴らしいが、売れない。市場がついてこない』」
神崎は、振り返った。
「でも、お前は違う。お前は、俺の26年先を持ってる」
「……俺の下で働く気はあるか」
「働く?」
「月給50万。マギ・システムズの社員として雇う」
神崎の目が、一瞬だけ揺れた。
「50万……」
「不満か」
「いや——」
神崎は、乾いた笑いを漏らした。
「屈辱的な金額だ」
航の眉が、上がった。
「俺の技術なら、本来はその3倍でも安い。でも今の俺には、それを証明する場所がない。大学中退、職歴は潰れたベンチャーが1社。履歴書に書ける武器が何もない」
神崎は、封筒を手の中で弄んだ。
「氷河期ってのはな、こういう時代だ。才能があっても、タイミングが悪けりゃ犬死にする。お前はそれを知ってて、俺を買い叩きに来た」
「……否定はしない」
「だろうな」
神崎は、航の目を見た。
「でも、いい。金の問題じゃねえ。俺は——面白いものが見たい。お前の見てる未来が本物かどうか、この目で確かめたい」
航は、手を差し出した。
「鳴海航。13歳。お前の人生を使わせてもらう」
神崎は、その手を握った。
「神崎亮。23歳。精々こき使え。——ただし、つまらなくなったら降りるぞ」
---
午後8時。
マギ・ハブの2階。
航と神崎は、PCの前に座っていた。
画面には、ゲームのログイン画面。
『Valkyrie Online』
韓国産のMMORPG。2000年にクローズドテスト開始。日本からのアクセスは、遅延がひどくてまともにプレイできないと言われている。
「……これを、やるのか」
神崎が、画面を見つめる。
「ああ。このゲームで、金を稼ぐ」
「ゲームで?」
「RMT。ゲーム内のアイテムを、現実の金で売る」
神崎の顔が、歪んだ。
「聞いたことはある。グレーゾーンだろ」
「だからこそ、今やる。法整備される前に、市場を押さえる」
航は、ログインボタンを押した。
画面が切り替わる。韓国サーバーへの接続。
通常なら、日本からは遅延がひどくて——
「……は?」
神崎の声が、低くなった。
「思ったよりラグが少ねえ。200msくらいあるはずだろ、日本から韓国だと」
「アイリス」
航は、F501iを見せた。
『パケット予測制御、起動中。韓国サーバーとの遅延、147ms』
「147……3割以上削ってる……」
神崎は、画面を凝視した。キャラクターが動く。引っかかりが少ない。
「これ、チートか」
「チートじゃない。通信最適化だ」
「通信最適化で、ここまで……」
神崎は、椅子の背にもたれた。
「……バグだ」
「は?」
「お前という存在自体が、この時代のバグだ。システムのエラー。あり得ない例外処理」
航は、笑わなかった。
「褒め言葉として受け取っておく」
画面の中で、キャラクターが走り始める。
三郷のボロ工場から放たれたパケットが、海を越え、韓国のサーバーに到達する。
航は、自分の手元に最初の駒が配置された音を聞いた。
窓の外では、夜明けの光が田んぼを薄く染め始めている。
2000年の、汚れたクロックがまた一つ刻まれた。




