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リ・プロンプト:1999 —10KBのメモリに宿る2026年の相棒AIと、失われた未来を再定義する—  作者: 青柳 玲夜(れーやん)
序章:神童編

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第8話『1.3億円の盾』

2000年4月3日。月曜日。


テレビのブラウン管が、走査線のノイズとともに部屋を毒々しい青に染めている。


「——本日、米連邦地裁がマイクロソフトに独占禁止法違反の判決を下しました」


ニュースキャスターの声が、リビングに響く。


「これを受けてNASDAQ市場は大幅続落。ドットコム・バブルの先行きに不安が広がっています——」


鳴海航は、ソファに深く座り、その画面を眺めていた。


今日から中学2年生。始業式は午前中で終わり、午後は自由だった。


画面の中で、アナリストが渋い顔で解説している。「調整局面」「様子見」「一時的な下落」——まだ、誰も気づいていない。これが序章に過ぎないことを。


ポケットの中で、F501iが振動した。


『NASDAQ総合指数、4,223ポイント。3月10日のピーク5,048から16.3%下落。序章です』


「予定通りだ」


航は、小さく呟いた。


『2002年10月には1,114ポイントまで下落します。ピークから78%の暴落』


「俺たちは、2月22日に売り抜けた」


『現在の手元資金、約1億3,300万円。この暴落で、相対的価値は上昇中です』


航は、窓の外を見た。


桜が散り始めている。4月の風が、花びらを運んでいく。


『不動産価格も底値圏。買い時です』


「……城を建てるか」


---


4月8日。土曜日。午後2時。


三郷市役所から歩いて10分。


谷中地区。


田んぼと住宅地が混在する、郊外の風景。


舗装されていない農道。用水路。遠くに見えるビニールハウス。ところどころに「土地区画整理事業」の看板が立っている。


その一角に、場違いな建物があった。


築35年。3階建て。1階は元・印刷工場。2階と3階は空き事務所。


外壁のモルタルは剥がれ、窓ガラスには埃が積もっている。錆びたシャッター。雑草が生い茂る敷地。「売物件」の看板が、風に揺れて軋んだ音を立てている。


周囲は田んぼ。誰がこんな場所のビルを買うのか。


普通の人間なら、そう思うだろう。


だが、航の目には違うものが見えていた。


『マスター。この物件の将来性について』


「聞かせろ」


『2005年8月、TX開通。この場所から徒歩3分に三郷中央駅が新設されます。地価1.8倍以上。現在価格1,200万円は、10年後3,000万円以上の可能性』


パケット代を節約した、圧縮された情報。アイリスらしい。


航は、田んぼを見渡した。


5年後、ここに駅ができる。今は蛙の声しか聞こえない田園地帯が、都心直結20分の一等地になる。


「あのー、すみません」


背後から、声がかかった。


振り返ると、スーツ姿の男が立っていた。40代半ば。安っぽいネクタイ。額に汗。


「この物件、ご興味ありますか?」


愛想笑いを浮かべている。だが、男の目が細まり、安っぽい値札を見るような湿った視線が航を這った。


中学生。私服だが、どう見ても13歳。


「えーと、お父さんかお母さんは?」


「僕一人です」


「一人?」


営業マンの唇が、歪んだ。


「あー、なるほどね。夏休みの自由研究か何かかな? 悪いけど、冷やかしなら——」


「この物件、1,200万円ですよね」


航は、営業マンの言葉を遮った。


「そ、そうだけど——」


「現金で買います」


営業マンは口を半分開けたまま、金魚のように無意味に空気を求めて喉を鳴らした。


3秒。5秒。10秒。


やがて、営業マンは笑い出した。


「ははは、面白い冗談だね。中学生が1,200万円なんて——」


「冗談じゃありません」


航は、ポケットから折りたたんだ紙を取り出した。


通帳のコピー。


残高の欄。


「1億3,287万4,320円」


営業マンの顔から、血の気が引いていく。


「い、いち……おく……」


「これ、本物か?」


「本物です」


「どうやって——」


「株です。去年買って、今年売りました」


営業マンは、通帳のコピーを凝視したまま、固まっていた。


その顔が、みるみる赤くなっていく。


羞恥。


さっきまで「冷やかし」と決めつけていた中学生が、自分の年収の何十倍もの金を持っている。


『マスター。この営業マンの会社、三郷不動産。1999年売上1.8億、前年比22%減。在庫物件増加中』


アイリスの文字が流れた。この1行で12円。だが、必要な出費だ。


「ところで」


航は、一歩踏み出した。


「この物件、1,200万円は少し高いですね」


「え?」


「1階の床下に、インク廃液が残ってる可能性がありますよね。旧印刷工場ですから。処理費用を考えると——」


営業マンの顔が、青ざめた。


「な、なんでそれを——」


「あと、2階の天井裏。アスベストの可能性は?」


「……」


知っていて、隠していた。その沈黙が、すべてを語っている。


「1,000万円。なら買います」


「い、1,000万……」


「嫌なら、他を探します」


営業マンは、航を見つめた。


13歳の目。だが、そこにあるのは——


「……わ、わかりました。1,000万円で、上に掛け合います」


「お願いします。ただし——」


航は、通帳のコピーを仕舞った。


「僕は未成年です。契約は、法人名義になります。代表者は別の人間を立てます。それと、登記関係は僕の方で士業を手配します。そちらの紹介は不要です」


営業マンは、もう何も言えなかった。


---


4月15日。土曜日。


秋葉原。裏通り。


「バイトショップ木村」。


航は、半年ぶりにその店を訪れた。


客がいない。土曜日の昼間なのに。


棚に積まれた売れ残りのCPUファンには埃が積もり、レジは電源すら入っていない。木村が吸っている安タバコの煙が、換気されずに店内に滞留している。


終わっていく店の、死臭。


カウンターの奥で、木村が新聞を読んでいる。その手が、微かに震えていた。


「いらっしゃい」


顔を上げた木村は、航を見て、目を細めた。


「……お前、鳴海か」


「覚えててくれたんですか」


「忘れるわけないだろう。Samsungのチップを見抜いたガキなんて、お前だけだ」


航は、カウンターに近づいた。


「木村さん、店の経営、厳しいですか」


長い沈黙。


「……なんでそう思う」


「客がいません」


「土曜だぞ」


「だからです」


航は、店内を見回した。


「半年前は、この時間帯、5人は客がいました。今日はゼロです」


木村は、黙った。


「僕は、未来が少しだけ見えるんです」


「……は?」


「株価の動き。技術のトレンド。どの企業が伸びて、どの企業が潰れるか」


「頭おかしいんじゃないか」


「かもしれません。でも——」


航は、reprompt.comのアクセスログを印刷した紙を取り出した。


「このサイト、見たことありますか」


木村は、紙を受け取った。


「reprompt……? ああ、Y2Kの予測を当てたとかいう……」


「僕が運営してます。ヤフー株のピークも、ここで予告しました」


木村の目が、鋭くなった。


「……お前が、あのサイトの」


「はい。去年9月にヤフー株を買って、今年2月に売りました。154万円が、1億6,790万円になりました」


木村の顔色が変わった。


「……マジか」


「マジです。で、相談があります」


「……言ってみろ」


「会社を作りたい。IT関連の会社。三郷に拠点を置きます。木村さんに代表になってもらいたい」


木村は、航を見つめた。


「……なんで俺なんだ」


「木村さんの『目利き』は、AIにも真似できません。それと——」


航は、木村の目を見た。


「このまま行けば、この店は5年持ちません。大手量販店に負けて、消えます」


「……」


「でも僕と組めば、違う未来があります。役員報酬は月額30万円。それと、この店を新会社の『秋葉原支部』にします。潰しません」


長い沈黙。


木村は、安タバコを灰皿に押しつけた。


「……お前、本当に何者なんだ」


「ただの中学生です。未来が少しだけ見える、ただの中学生」


木村は、笑った。諦めたような、それでいて吹っ切れたような笑い。


「……わかった。やる」


航の胸の奥で、バイオスの警告音のような不整脈が一度だけ跳ねた。


「ただし——」


木村は、立ち上がった。


「法人だ? 登記だ? 俺にはそっちの知識がねえ。どうすんだ」


「そこは、僕が手配します」


「当てがあるのか」


「……いえ。でも、探せば——」


木村は、首を振った。


「一人、心当たりがある」


「え?」


「本所に、何でも屋みたいな書士がいる。行政書士と司法書士の両方持ってて、面倒な案件でも断らないらしい。うちの仕入れ先の古物商が、許可取るときに世話になったって言ってた」


「……本所」


「ただし——愛想はないぞ。話が通じるかどうかは、お前次第だ」


---


4月17日。月曜日。午後3時。


本所。


隅田川を渡った先の、古い街並み。


航は、路地を歩いていた。


秋葉原から電車で20分。だが、空気が違う。秋葉原の電子部品の匂いではなく、醤油と、墨と、古い木造家屋の匂い。


『マスター。目的地まで50メートル』


アイリスの文字が、F501iの画面に浮かぶ。


路地を曲がる。


古いビルの3階に、小さな看板があった。


「佐伯誠一事務所 行政書士・司法書士」


航は、階段を上った。


1階、2階。狭い踊り場を曲がり、さらに上へ。用がなければ上がらない高さ。


ドアを開ける。


---


事務所の中は、紙とインクと煙草の匂いが充満していた。


換気が悪い。窓は開いているが、風が通らない。


壁際にスチール棚。新しくはないが、現役。ファイルがぎっしり詰まっている。行政書士と司法書士の書類が混在しているのだろう。棚が重さで軋んでいる。


机の上には書類が積まれ、法令集や判例集が山になっている。崩れそうで崩れない。この男だけが知っている配置。


机の端に、真鍮の朱肉池。蓋が閉まっている。


その向こうに、男がいた。


痩せ型。背筋が伸びている。眉が濃く、目が細い。表情を読ませない顔。


ワイシャツ。ネクタイはしていない。袖を捲っている。実務家の格好。


50代後半。だが、手は震えていない。


男は、書類を読んでいた。紙に顔を近づけ、端から端まで読んでいる。飛ばさない。


航が入ってきても、顔を上げなかった。


「あの」


航は、声をかけた。


「……」


反応がない。


書類を読み終わるまで、待つしかないらしい。


航は、事務所の中を見回した。


窓から見える本所の路地。古い家屋。電柱。2000年の、まだ再開発が進んでいない本所。


1分。2分。


やがて、男が顔を上げた。


目が、航を見た。


値踏みではない。観察でもない。


ただ、見ている。


「用件は」


航は、鞄から書類を取り出した。


「有限会社の設立と、不動産購入の登記をお願いしたいんです」


書類を、机の上に置く。


航が自分で書いた定款案。物件情報。売買価格の概要。


男——佐伯は、書類を手に取った。


定款案を、読み始める。


紙に顔を近づけ、端から端まで。飛ばさない。


長い沈黙。


航は、立ったまま待った。


佐伯は、机の引き出しから赤ペンを取り出した。


定款案に、線を引く。


一箇所。二箇所。三箇所。


「この三箇所。このまま出したら法務局で止まる」


航は、赤線の箇所を見た。


——なるほど。


39歳の自分でも、見落としていた穴だった。


「直せます」


「直したら持ってこい」


「あと、僕は13歳です」


佐伯の視線が、航の顔に向いた。


「未成年なので、代表にはなれません。代表は別の人間を立てます。秋葉原でパーツ屋をやっている木村という人です。僕は出資者として参加します」


「親権者の同意書がいる。実印と印鑑証明を添えろ」


航は、頷いた。


「父に話します。同意書は取れます」


覚悟は決めていた。ここで親を巻き込むしかない。1億3千万の存在を説明することになる。だが、法を曲げることはできない。


「書類が揃えば、やる」


航は、頭を下げた。


「お願いします」


佐伯は、定款案を机の上に置いた。


そして、煙草に火をつけた。


煙が、天井に向かって昇っていく。


それだけだった。


13歳にも、1億にも、佐伯は触れなかった。


---


帰り道。


航は、本所の路地を歩いていた。


F501iを開く。


『マスター。あの人、普通じゃありませんでした』


「……わかってる」


『13歳が1億3千万持って来ても、驚きませんでした。通帳を見せる必要すらなかった』


「ああ」


『書類しか見ていませんでした。定款の穴を3箇所、一読で見抜いた』


航は、空を見上げた。


4月の曇り空。湿った風。


「アイリス」


『はい』


「あの人、何者だ」


『佐伯誠一。58歳。行政書士・司法書士。本所で開業して30年以上。帰化申請の実績が多いようです』


「それだけか」


『……はい。それ以上の情報は、ネット上にありません。しかし——』


「しかし?」


『あの人は、マスターと同じ種類の人間だと思います』


「同じ種類?」


『書類を読むとき、端から端まで読む人。飛ばさない人。そういう人は——』


アイリスの文字が、一瞬だけ揺れた。


『——信用できます』


航は、F501iを閉じた。


「……そうかもな」


---


4月22日。


航は、父と対峙した。


リビングのテーブルを挟んで、向かい合う。


「……株で、1億円?」


父の声が、震えていた。


「正確には1億3千万です。税金は払いました」


「い、いつから——」


「去年の9月からです。婆ちゃんの名義で買って、贈与を受けました」


父は、黙った。


長い沈黙。


「……なんで、言わなかったんだ」


「心配かけたくなかったから」


「心配って——」


父は、頭を抱えた。


「お前、まだ13歳だぞ。1億なんて金を——」


「だから、父さんの同意が要るんです」


航は、書類を差し出した。


「会社を作りたい。三郷に拠点を置いて、ITの会社を。僕は出資者として参加する。そのために、父さんの同意書が必要です」


父は、書類を見つめた。


「……母さんには」


「まだ言ってません。父さんだけに、先に話したかった」


父は、長い間、黙っていた。


そして、顔を上げた。


「……航」


「はい」


「お前、本当に——これをやりたいのか」


「はい」


「後悔しないな」


「しません」


父は、ペンを取った。


「……わかった」


同意書に、サインをする。


「ただし、母さんへの説明は、お前がやれ」


「……はい」


---


4月29日。昭和の日。


三郷。谷中地区。


あのボロビルの前。


航と木村は、並んで立っていた。


「登記、終わったんだな」


「はい。佐伯さんが、全部やってくれました」


木村は、ビルを見上げた。


「あの書士、どうだった」


「……怖かったです」


「だろうな」


木村は、笑った。


「でも、仕事は確からしいな。こんな短期間で全部通すとは」


航は、鍵を取り出した。


新しい鍵。登記が完了し、法人名義で所有権が移転した証。


「木村さん。会社名は決めました」


「聞いた。マギ・システムズ、だったか」


「はい。東方の三賢者」


「お前らしいな」


航は、鍵を差し込んだ。


錠前が回る。


扉が開く。


埃の舞う空間。窓から差し込む夕陽が、空気中の塵を照らしている。


油とインクの残り香。だが、もう廃墟の匂いではない。


始まりの匂いだ。


「木村さん」


「ああ」


「ここが、マギ・ハブです」


航は、F501iを取り出した。


『マスター』


アイリスの文字が、画面に浮かぶ。


『登録完了。三郷市谷中、築35年、3階建。マギ・システムズ有限会社、本店所在地』


「マギ・ハブ、オンライン」


航は、呟いた。


『——了解。マギ・ハブ、オンライン』


窓の外で、夕陽が沈んでいく。


田んぼの向こうに、建設中のつくばエクスプレスの高架が見える。コンクリートの骨組みが、オレンジ色に染まっている。


5年後、あの高架の上を電車が走る。


この田んぼは消え、駅前ロータリーになる。


そして——このボロビルは、駅徒歩3分の一等地に変わる。


まだ、誰も知らない。

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