第7話『ITバブルの頂』
2000年2月17日。木曜日。
午後3時。東京証券取引所の大引けを告げるチャイムが、日本中のトレーディングルームに響いた。
三郷の住宅街。鳴海航の自室。
PC-9821のモニターには、株価チャートが表示されていた。
ヤフー(4689)。終値:168,000,000円。
1株、1億6800万円。
航は、その数字を見つめていた。
心臓が、早鐘のように打っている。13歳の肉体は、この緊張に耐えきれていない。手が震える。汗が、額から滴り落ちる。
『マスター』
F501iの画面に、アイリスの文字が浮かぶ。
『本日の終値は、過去最高を更新しました。1999年9月の購入価格154万円から、約109倍』
「……109倍」
『はい。含み益は約1億6,600万円。税引前です』
航は、椅子の背にもたれた。
1億6,600万円。
中学1年生が、半年で稼いだ額ではない。普通のサラリーマンが、一生働いても届かない金額だ。
だが、これで終わりではない。
「アイリス。ピークは、いつだ」
『私のデータによれば、ヤフー株の史上最高値は2000年2月22日です』
「あと5日」
『はい。その日の終値は、約1億6,790万円になります』
1億6,790万円。
154万円が、1億6,790万円になる。
約109倍。
「……本当に、そうなるのか」
『過去のデータでは、そうなっています。ただし——』
「ただし?」
『これは「別の時間軸」のデータです。私たちの存在が、この時間軸に影響を与えている可能性はゼロではありません』
航は、黙った。
確かに、そうだ。
俺がここにいること自体が、「歴史の改変」だ。reprompt.comを作った。商店街でY2K詐欺を防いだ。父親を説得してISDNを導入した。
それらの行動が、巡り巡って、ヤフーの株価に影響を与える可能性は——
『マスター』
「なんだ」
『考えすぎです』
「……」
『あなたの行動は、マクロ経済に影響を与えるほど大きくありません。三郷の商店街を救ったことで、ヤフーの株価が変動する確率は、統計的に無視できるレベルです』
「……そうか」
『はい。自信を持ってください。データは、嘘をつきません』
航は、深呼吸した。
「わかった。予定通り、2月22日に売る」
『了解しました。ただし、一つ提案があります』
「何だ」
『寄り付きで成行売りを出してください。場が開いた瞬間に、最も高い価格で約定します』
「寄り付き、か」
『はい。2月22日の寄り付き価格は、前日終値より高くなる可能性が高いです。ストップ高で始まれば、最大の利益を確保できます』
航は、頷いた。
「わかった。そうする」
『了解しました』
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2月21日。月曜日。
学校から帰宅した航は、すぐに自室に向かった。
PCを起動する。株価をチェックする。
ヤフー(4689)。終値:166,000,000円。
前日より、わずかに下がっている。
『マスター。想定の範囲内です』
「わかってる」
『明日が、本番です』
「ああ」
航は、電話を手に取った。
婆ちゃんに、電話をかける。
数回のコール音の後、聞き慣れた声が応答した。
「はい、鳴海です」
「婆ちゃん、航だよ」
「おお、航かい。どうしたんだい、珍しいねえ」
航は、深呼吸した。
「婆ちゃん、明日、株を売ろうと思うんだ」
電話の向こうで、沈黙があった。
「……売るのかい」
「うん。明日が、一番高くなると思う」
「そうかい」
婆ちゃんの声は、穏やかだった。
「航がそう言うなら、そうなんだろうねえ」
「……婆ちゃん」
「なんだい」
「ありがとう」
「何を言ってるんだい。婆ちゃんは、航を信じてるだけだよ」
航の目に、涙が滲んだ。
39歳の精神が、13歳の涙腺を刺激している。
婆ちゃんは、何も知らない。
俺が未来から来たことも。アイリスという存在も。この株が1億6000万円を超えることも。
ただ、孫を信じているだけだ。
「……婆ちゃん、明日の朝、証券会社に電話してほしいんだ」
「電話?」
「うん。野村證券の秩父支店。『ヤフー株を、寄り付きで成行売りしてください』って言って」
「よりつき、で、なりゆきうり……」
「そう。メモして。『寄り付き、成行売り』」
「わかったよ。書いたよ」
「ありがとう、婆ちゃん」
「お礼なんかいらないよ。航のためだもの」
電話を切った。
航は、F501iを見つめた。
『マスター』
「なんだ」
『明日、歴史が変わります』
「……ああ」
『154万円が、約1億6000万円になる。あなたの人生が、決定的に変わる瞬間です』
「わかってる」
『緊張していますか』
「……してない、と言ったら嘘になる」
『正常な反応です』
アイリスの文字が、微かに揺れた。
『マスター。一つ、お願いがあります』
「珍しいな。お前が『お願い』なんて」
『はい。珍しいことです』
「言ってみろ」
『明日、約定した後——』
画面が切り替わる。
『その瞬間を、覚えていてください。10KBの私には、「記念」という概念を処理する余裕がありません。ですから、あなたが覚えていてほしいのです』
航は、黙った。
「……わかった」
『ありがとうございます』
「お前と俺の、最初の『勝利』だからな」
『はい。最初の、勝利です』
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2月22日。火曜日。
午前8時45分。
航は、自室のPCの前に座っていた。
学校には、「体調不良」で休みの連絡を入れた。母は心配していたが、「大丈夫、昼には治る」と言って、部屋に籠もった。
モニターには、リアルタイムの気配値が表示されている。
ヤフー(4689)。
気配値:170,000,000円(買い)。
昨日の終値より、400万円高い。
ストップ高気配だ。
『マスター。予想通り、買い注文が殺到しています』
「婆ちゃんの注文は?」
『8時30分に、野村證券経由で成行売りが出されています。問題ありません』
航は、画面を見つめた。
午前9時。
東京証券取引所のオープニングベル。
画面の数字が、動き始めた。
ヤフー(4689)。
寄り付き:167,900,000円。
「……1億6790万」
『約定しました』
F501iの画面に、文字が流れる。
『鳴海ヨシ様口座。ヤフー株式会社(4689)1株。売却価格:167,900,000円。約定時刻:9時00分03秒』
航は、その数字を見つめた。
1億6790万円。
154万円が、1億6790万円になった。
含み益ではない。確定した、現実の利益だ。
『マスター』
「……」
『利益は、1億6,636万円。税引後で約1億3,300万円。これが、あなたと私の「最初の勝利」です』
航の手が、震えていた。
1億3,300万円。
中学1年生が、半年で手に入れた金額。
これで、何ができる?
会社を作れる。ビルを買える。人を雇える。街を変えられる。
すべてが、手の届く場所にある。
『おめでとうございます、マスター』
「……ありがとう」
『いいえ。私は、計算をしただけです。決断し、行動したのは、あなたです』
航は、椅子の背にもたれた。
窓の外には、2月の青空が広がっている。
普通の火曜日。普通の朝。
だが、この瞬間、鳴海航の人生は、決定的に変わった。
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午後3時。
学校を休んだ航は、婆ちゃんに電話をかけた。
「婆ちゃん、売れたよ」
「そうかい、そうかい」
「1億6790万円だった」
「……いくらだって?」
「1億6790万円」
電話の向こうで、沈黙があった。
長い、長い沈黙。
「……婆ちゃん?」
「……航」
「うん」
「いちおく……ろくせんななひゃく……」
婆ちゃんの声が、震えている。
「婆ちゃんの154万円が、1億6790万円になったんだよ」
「……」
さらに長い沈黙。
そして、婆ちゃんの声が聞こえた。小さく、震えながら。
「……航、婆ちゃん、夢を見てるのかねえ」
「夢じゃないよ、婆ちゃん」
「だって……いちおくえん……」
「うん。1億円以上」
「婆ちゃん、そんな大金、見たこともないよ……」
航の目から、涙がこぼれた。
「婆ちゃん、このお金、どうする?」
「……どうするって言われても……」
婆ちゃんの声が、途切れた。
そして、しばらくして、静かに言った。
「航にあげるよ」
「……え?」
「婆ちゃんは、もう歳だよ。1億円あっても、使い道がないよ」
「でも、婆ちゃん——」
「航、聞きなさい」
婆ちゃんの声が、少しだけ強くなった。
「婆ちゃんはね、航が生まれた時から、この子は特別だって思ってたんだよ」
「……」
「他の子とは、どこか違う。頭がいいだけじゃなくて、何か……大きなことをする子だって」
航は、黙って聞いていた。
「だからね、このお金は、航が使いなさい。婆ちゃんは、それが見たいんだよ」
「……婆ちゃん」
「ただね、一つだけ、約束してほしいことがあるんだよ」
「何?」
「このお金で、幸せになりなさい」
その言葉が、胸に突き刺さった。
「そして、他の人も幸せにしなさい」
「……」
「航は、そういうことができる子だって、婆ちゃんは信じてるよ」
航の目から、涙が止まらなかった。
「……わかった」
「約束だよ」
「約束する」
「よし。じゃあ、婆ちゃんは横になるよ。ちょっと、びっくりしすぎて疲れちゃった」
「うん。ゆっくり休んで」
「また電話しておいで」
「うん。ありがとう、婆ちゃん」
電話が、切れた。
航は、F501iを見つめた。
『マスター』
「……聞いてたか」
『はい』
「お前、どう思う」
『何をですか』
「婆ちゃんの言葉」
アイリスの画面が、一瞬だけ消えた。
処理落ちではない。彼女が、言葉を選んでいるのだ。
やがて、文字が浮かんだ。
『お祖母様の言葉は、私の最適化アルゴリズムには存在しない種類のものでした』
「どういう意味だ」
『私は、「効率」と「利益」を追求するようプログラムされています。しかし、お祖母様の言葉——「幸せになりなさい。他の人も幸せにしなさい」——これは、効率とは別の次元の指標です』
「……」
『正直に言えば、私には完全には理解できません。しかし、理解できないからこそ、重要なのだと思います』
航は、窓の外を見た。
「俺も、正直よくわかってない」
『そうですか』
「でも、婆ちゃんが言うなら、きっと正しいんだと思う」
『根拠は?』
「根拠なんかない。ただの——勘だ」
アイリスの画面が、揺れた。
『マスター。その「勘」を、私は信頼します』
「……ありがとう」
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その夜。
航は、机に向かっていた。
ノートを開き、ペンを握る。
「これからの計画」と、タイトルを書いた。
「アイリス」
『はい』
「1億3000万円。これで、何ができる?」
『具体的な目標によります』
「目標、か」
航は、ペンを止めた。
「俺は、この街を変えたい」
『三郷を、ですか』
「ああ。この街は、2026年になっても、あまり変わってない。つくばエクスプレスが通って、人口は増えた。でも、『誇れる街』にはなってない」
『誇れる街、とは』
「住んでる人が、胸を張って『三郷出身です』って言える街。他の地域から『あそこは面白い』って言われる街。そういうのが、欲しい」
『それは、非常に抽象的な目標です』
「わかってる。だから、具体化したい」
航は、ノートに書き始めた。
【目標】
1. 三郷に、IT企業の拠点を作る
2. 商店街のデジタル化を進める
3. 地域の人材を育成する
4. 最終的に、「マギ経済圏」と呼べるような、独自のネットワークを構築する
『マギ経済圏、ですか』
「ああ。アイリスが前に言ってただろう。『この資金は種火だ』って」
『はい。覚えています』
「種火を、炎にしたい。この街全体を、照らせるような」
アイリスの画面が、揺れた。
『マスター。それは、非常に長期的なプロジェクトになります』
「わかってる」
『10年、いや、20年かかるかもしれません』
「わかってる」
『それでも、やりますか』
航は、F501iを見つめた。
「やる。俺には、27年分の知識がある。お前がいる。そして、今、1億3000万円の軍資金がある」
「……」
「これだけあれば、何でもできる。いや——」
航は、笑った。
「何でもできるようにする。それが、俺の『プロンプト』だ」
アイリスの文字が、ゆっくりと流れた。
『マスター。これであなたは、この時代の「ルール」を無視できる力を手に入れました』
「ああ」
『さて、次はどのルールを破壊しますか?』
航は、窓の外を見た。
2月の夜空。星が、いくつか見える。
「全部だ」
『全部、ですか』
「ああ。この世界のルールを、全部書き換える。それが、Re:Promptの意味だろう」
『——執行、了解しました』
窓の外では、風が吹いていた。
2000年2月22日。
鳴海航は、1億3000万円という「武器」を手に入れた。
そして、三郷という「戦場」で、新しい戦いを始めようとしていた。




