第55話「四日の猶予」
2001年11月2日。金曜日。三郷。自宅。午前7時15分。
階段を降りた。
リビング。テーブルの上に、味噌汁の湯気が立っている。豆腐とわかめ。椀の縁に、わずかに湯気が凝結して水滴になっている。昨夜の残りを温め直した、朝の味噌汁の匂い。
母は、流しに立っていた。背中を向けたまま、洗い物をしている。水音。スポンジが食器の縁を擦る音。
父の席は、空いていた。畳まれた新聞だけが置かれている。一面の見出しは、経済指標の悪化。テレビ欄まで見なくても、父がこの家を出る前に一面と二面だけ目を通す習慣は39歳の航の記憶と寸分違わなかった。父は、朝の7時前にこの椅子を立つ。金融不安が見出しになろうが、空から何か降ろうが、その時刻は動かない。
「おはよう」
「おはよう」
母は、振り返らなかった。スポンジの音だけが、答えになっていた。
航は、食卓に座った。
味噌汁。豆腐とわかめ。卵焼き。海苔。ご飯。昨日と、同じ朝食。
一口、味噌汁を啜った。
熱かった。胃の底に、熱が落ちていく。だしの塩気が、舌の上で数秒だけ残った。
「母さん」
「ん」
「今日、早退する」
母は、水を止めた。蛇口の最後の一滴が、シンクに落ちる音。
3秒ほど、動かなかった。
それから、布巾で手を拭いた。布巾は、流しの横の小さなフックにかけてあるやつだ。航の記憶の中で、母はこの30年、同じ動作をしている。
「気をつけて行きなさい」
振り返らない、背中からの声だった。
「……うん」
それだけだった。
航は、卵焼きを箸で挟んだ。
甘い。砂糖の味。母の味。記憶の中と、寸分違わない味。
甘いのに喉の奥で、別の味が混じった気がした。
——誰かが枕元で、卵焼きを差し入れてくれた朝。
白い天井。点滴の音。消毒液の匂い。自分の舌が久しぶりの固形物を受け取る時の、躊躇と歓喜。
卵焼きを口に運んだ指は、自分の指ではなかった。母の指でもなかった。
細い指。女の指。薬指に、細い銀色の線。指輪か、何か別のものか。わからない。
その指が、卵焼きを一切れ、航の口の中に置いた。
指先が航の下唇に、一瞬だけ触れた。
温かい指だった。
——食べて。
そういう声が、聞こえた気がした。声の形は、思い出せない。だが、その一言の重みだけが、胸の底にまだ残っていた。
誰だ。
一瞬の残像。消えた。
航は味噌汁で、口の中を流した。
今の味は、2001年の母の卵焼きだ。それ以外の何でもない。
自分にそう言い聞かせた。
だが、舌の奥にはまだ、別の甘さが残っていた。
15歳の口が、味を受け取っている。
39歳の脳は、今日の手順をもう組み立て始めていた。
昨日、3地点に網を被せた。今日、Lが動く。動いた先を見て、こちらも動く。それが、今日の流れだった。
母の背中を、一度だけ見た。
母は、まだ振り返らなかった。
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午前8時40分。皐月中学校。
1時間目、英語。
11月2日の教室は、11月の匂いがした。ストーブはまだ焚いていない。窓は少しだけ開けてある。机の天板が、朝の冷気をまだ吸い込んでいて、肘が触れると冷たかった。
英語の教師が、黒板に関係代名詞の例文を書いている。
「I have a friend who plays the piano.」
航は、ノートに同じ文を写した。15歳の字で。先週が分詞の後置修飾で、今週から関係代名詞に入ったばかりの黒板だった。
2時間目は、数学。二次関数の変域の問題。
航は、授業を受けていた。
適度に間違え、適度に正解した。3時間目の英単語テストで、1問だけ意図的に落とした。いつもより1問多く落とした。ここ数週間、航はテストの点数を少しずつ下げていた。三工技の合格圏の、上の方に留まる点数に。
授業の合間、右のポケットでF503iSが一度だけ振動した。
事前にアイリスと決めた合図。
一度の振動は「進捗あり、緊急性低い」。
取り出さなかった。
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午後12時10分。校門。
小林は、職員室前の廊下で待っていた。
昼休み前の廊下は、給食の匂いで満ちている。今日は揚げパンらしい。砂糖と脂の混じった甘い匂いが、校舎の北側から流れてきていた。
小林は、いつものジャージ姿だった。眼鏡のブリッジを、一度だけ指で上げた。
早退届にハンコを押した。それから、航を見た。
「鳴海」
「はい」
「お前、今、何を選んでる」
航は、答えなかった。
答えなかったのは、答えがなかったからではなかった。
小林の問いは、進路の話とも今日の早退の話とも、どちらとも読めた。三工技で本当にいいのか、という問い。あるいは、中学生がこんな頻度で早退して何をやっているのか、という問い。
どちらの問いにも、航には答えられなかった。
「……考えます」
航は、そう答えた。
小林は眼鏡の奥で、少しだけ目を細めた。
それ以上は聞かなかった。早退届を返して、職員室に戻っていった。
ジャージの背中が、職員室のドアの向こうに消えた。
航はその背中を、一度だけ見送った。
火曜日の三者面談の後から、小林は航の早退に余計な質問をしなくなっていた。ハンコを押しながら「気をつけて」と言う。それだけの儀式が、水曜、木曜と続いた。
今日が、三日連続目だった。
その三日目に、小林は口を開いた。
聞かなくなったのは、無関心になったからではなかった。
近づかないように、距離を置いていたからだった。
その距離が、今日、少しだけ緩んだ。
近づかれた分だけ、航は小林の視線が重く感じられた。
校門を出た。
11月の三郷は、秋晴れだった。空が高く、薄い雲が西の方に流れている。学ランの黒が陽射しを吸って、肩のあたりが少しだけ熱を持った。
駅までの道を歩いた。
ポケットのF503iSから、声がイヤホンで届いた。
『マスター。渡辺先生、喜楽にいらっしゃいましたが、さきほど事務所に戻られたそうです』
「戻った? 何があった」
航は、少しだけ歩調を落とした。
『上村弁護士から、午後2時に面談の申し入れ。緊急です』
「昼飯は」
『途中で出たそうです。食べかけのまま』
航は信号の手前で、一度だけ足を止めた。
赤信号。向こう側に買い物袋を提げた主婦が二人、立ち話をしている。笑い声が、短く聞こえた。
「行く」
イヤホンの向こうが一拍、置いた。
『……喜楽に、ですか』
「昼は食う。一人でも」
『了解しました』
信号が青になった。
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午後12時25分。喜楽。
引き戸を開けた時、店の中の空気が航を受け止めた。
醤油ラーメンのスープの湯気。厨房の奥で炊いているチャーシューの甘い匂い。カウンターの布巾が一度絞られた直後の、微かな漂白剤の香り。
昭和の匂いが残るラーメン屋。カウンター8席。テーブルなし。壁のサッポロビールのポスターは、去年見たものと同じだった。ラミネートされた「醤油ラーメン 500円」の値札も、航が小学生の頃から同じだった。
カウンターの奥で、航がいつも渡辺と並んで座る席は空だった。
渡辺の席の前に、丼が一つ。スープが半分ほど残っている。箸が丼の縁に、中途半端な角度で置かれていた。食べている途中で席を立った跡だった。
宮田さんが、カウンターの向こうから顔を上げた。白い調理帽の下、頬の肉が少しだけ落ちていた。
「航くん」
「こんにちは」
宮田さんは、布巾で手を拭いた。
「渡辺さん、急に呼び出されてな。さっきまでここにいたんだが」
「聞きました」
宮田さんは、視線を航の目に合わせた。
「食ってくかい」
「はい」
宮田さんは、鍋に麺を入れた。湯気が一段、厨房から立ち上った。
航はカウンターの、渡辺が座っていた席の二つ隣に座った。間に、空けた席が二つある。一人で食うときの距離だった。
宮田さんが、丼を置いた。
湯気。刻みネギ。メンマ。チャーシュー2枚。卵は半分。
「航くん」
「はい」
「渡辺さん、慌てて出て行ったな。あんな顔で出て行く客は、珍しい」
宮田さんは渡辺の空の丼を取り、カウンターの端に下げた。
「何かあったのかい」
「……少し」
「そうか」
宮田さんは、それ以上聞かなかった。渡辺の丼を洗いに厨房の奥に下がった。水を流す音が、しばらく続いた。
航は、スープを一口飲んだ。
温かい。だが、味が遠かった。
昨日、渡辺と食べた醤油ラーメンと同じ味のはずだった。同じ豚骨、同じ醤油、同じ麺。宮田さんが、いつもと同じ動作で作ったスープ。
違う味がした。
「……昨日とは、違うな」
呟いた。
厨房の奥から、宮田さんの声が返ってきた。
「航くん」
「はい」
「俺が何年、ここで丼を出してると思ってんだ」
航は、答えなかった。
「豚骨。醤油。麺。全部同じだよ。昨日も、今日も」
宮田さんは、レードルで鍋をひとすくいした。
「客が『違う』って言い出したら、だいたい客の方が違ってんだ」
宮田さんが厨房の奥から、航を見た。
「顔色が、昨日と違うぞ」
航は、答えなかった。
「急いでる顔だな。何か、詰めてる顔だ」
「……そうですか」
「昨日は、そういう顔じゃなかった」
航は、麺を噛んだ。
温かい。だが、飲み込んだ後、胃に熱が残らなかった。
昨日は、熱が残った。
昨日は、渡辺と一緒だった。だが、渡辺がいたから熱が残ったのではなかった。昨日の航は、3地点に網を被せて、勝ちの輪郭が見えた日の航だった。今日の航は、その網を閉じる日の航だった。
勝ちが見えている分だけ、失敗の重さが胃に残るようになっていた。
航が、昨日と違うのだ。
丼の半分のところで、航は一度レンゲを置いた。
残ったスープには、まだ湯気が立っていた。
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午後1時20分。マギ・ハブ。
ドアを開けた時、航は一瞬だけ息を詰めた。
1階のサーバールームから、煙草の匂いとUltra 60のファンの低い唸り。そこに一つ、いつもと違う音が混じっていた。メティスの担当サーバーの補助ファンが、通常より高い回転数で回っている。解析負荷が上がっている証拠だった。
「おう、戻ったか」
木村の声。サーバールームから。
靴を脱ぎ、廊下を歩いた。
神崎はコンソールの前にいた。目の下の隈が、昨日より濃い。画面に、メティスの解析ジョブのバーグラフが流れている。緑色のセルが左から右へ、秒単位で更新され続けていた。
木村は、机の隅に座っていた。火のついていない煙草を指で挟んだまま、灰皿の縁を見ている。昨夜の夜更けに吸った一本以来、今日はまだ一本も吸っていないらしい。木村が煙草を吸わない時は、木村が何かを待っている時だった。
「タイガ商事の資金ショート、メティスの計算が出た」
神崎が画面を指した。
「現状ペースで、95時間28分後」
航は、画面の数字を見た。残り時間を分単位まで刻んだ表示が、秒ごとに一つずつ減っていく。メティスが動いている証拠だった。
「計算根拠は」
〈霧島名義の凍結口座の過去18か月の出金履歴から、タイガ商事への流入ペースを特定しました。月額35万円の定期送金〉
航は、その数字を頭の中で辿った。
「止まってるのか」
〈先週月曜の仮差押え以降、この流入は止まっています。支出側は家賃月額18万円、通信と光熱費の推定、関連会社への小規模送金。大家さん経由で木村さんが木曜までに確認済みの範囲です〉
木村が、腕を組んだまま頷いた。
〈流入ゼロ、支出は既知。残高は推定値ですが、最終送金直後から現在までの経過時間と照らし合わせると、95時間28分後に支出能力が底を打ちます。誤差、前後2時間〉
「現状ペースで」
〈はい。Lが別の資金源を動員していなければ〉
その一言が、胃の底で少し重さを持った。
計算の外側にひとつだけ、こちらに見えていないものがある。Lが霧島以外の資金源を抱えているかどうか。持っていれば、95時間は延びる。持っていなければ、計算通りに落ちる。
「4日か」
「計算上は」
航はコンソールに向き直った。メティスの画面の隣に、アイリスの待機パネルが並んでいた。水曜の通信負荷で損傷した音声合成モジュールは、まだ半分しか修復できていない。画面の光は通常の六割程度。低く、呼吸するように明滅していた。
「アイリス」
「はい、マスター」
声に、ノイズ。修復は、まだ途中。
〔マスター、確認を〕
テミスが続けた。
〔次の一手は、タイガ商事の資金底抜けと、彦成アパートのどちらから着手しますか〕
4日。そのうち、明日と明後日は、市場が動かない。文化の日の土曜と、それに続く日曜。市場が再開するのは月曜の九時。そこから資金ショートまで、約28時間。戦える時間は、その28時間だけだった。
航は椅子の背にもたれた。木村が火のついていない煙草を、ようやく口にくわえた。吸う前の、宣言の動作だった。
「市場だ」
声に今日、初めて力が戻った。
「月曜の寄り付きで、メティスを市場に出す」
〈了解しました、マスター〉
木村が、煙草に火をつけた。
一本目の煙が、天井に向かった。
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午後3時10分。
F503iSが鳴った。渡辺法律事務所。
航は通話ボタンを押した。
「鳴海です」
「渡辺だ。昼は、すまなかった」
「いえ」
受話器の向こうで、紙をめくる音が一度した。
「上村との面談が、さっき終わった。中身は後で書面で送る」
「はい」
受話器の向こうで、紙をめくる音がした。渡辺は事務所に戻ってから一度も休んでいないはずだった。朝から上村との面談、タイガの立入検査の情報集約。60代の体で、一日中紙と電話のあいだを往復している。
それでも、声は平坦だった。
「タイガ商事の立入検査、14時40分に終了」
「結果は」
「防火管理者未選任。消火器の設置義務違反。避難経路の不備。合計三件。是正期限一週間」
航は、ペンを取った。テミスのコンソールの端に置いてある紙切れに、三件と書いた。横に線を引いて、日数を加えた。是正期限は来週の金曜。タイガ商事が資金ショートする火曜を、3日ほど越えた先にある。是正命令が間に合うより先に、向こうの足が折れる計算になる。
渡辺も、同じ計算をしているはずだった。
「Lは動きますか」
「どちらでも、動く」
「ありがとうございます」
しばらく、受話器の向こうで紙の音が続いた。渡辺が何を整理しているのか、航には見えない。だが、渡辺が次の話題に移る前の息を整える時間だということはわかった。
「一つ、連絡がある」
「はい」
「佐伯先生から、昨日の夕方電話があった」
航の指が、ペンを持ったまま止まった。
本所の事務所に「臨時休業」の貼り紙を見た日から、佐伯とは連絡が取れていなかった。名前はずっと、口にしていた。頭の中でも呼び続けていた。応答がないだけだった。
その応答が渡辺を経由して、戻ってきた。
「……佐伯さんから」
「鳴海くんの様子を聞かれた。判決の回収、弁護士照会、消防通報。順番に説明した」
「佐伯さんは、何と」
渡辺は、一拍置いた。
「『聞こえた』とだけ言って、切った」
航は受話器を耳に当てたまま、机の端を見ていた。
木目の古い事務机。木村が中古で買ってきた机。端が少し欠けている。その欠けたところに、航の目が焦点を合わせていた。合わせていないと、目の奥が熱くなりそうだった。
「佐伯先生は、今は戻って来ない。だが、聞いている」
航は、頷いた。
渡辺は、それ以上は何も言わなかった。
電話が切れた。
受話器を置いた後、航はしばらく動かなかった。
聞こえた。
その一言を、頭の中で反芻した。
聞こえた、とだけ言って切った。佐伯は航の動きを、外から聞いている。口を出さない。線を引きに来ない。ただ、聞いている。
それは、不在ではなかった。
不在の形をした、存在だった。
先月の本所で、佐伯は「線はお前が引け」と言った。「来ていいぞ」と続けた。あの言葉を航はずっと、許可として持ち歩いてきた。困ったら戻ってこい、という意味だと思っていた。
今日、渡辺の口から伝わってきた一言で、航はあの日の言葉の別の意味を受け取った。
「来ていいぞ」は、許可ではなかった。
——お前が引いた線の向こうで、俺は聞いている。
そういう意味だった。
先月までの航なら、佐伯のその距離を寂しいと感じたかもしれなかった。
今の航は、違った。
佐伯の距離は、信じていることの距離だった。
口を出さないことが、信頼だった。聞いていることが、応えだった。
航は机の端の欠けから、ゆっくりと目を離した。目の奥の熱が落ち着くまでに、何呼吸か要した。
「線はお前が引け」と言った男が、引いた線の向こうから、聞いている。
航は、受話器から手を離した。手のひらに、プラスチックの冷たさがまだ残っていた。
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午後7時。
神崎は午後の仕事を半分片付けたところで、仮眠室に引っ込んだ。四十分ほどで出てきた。顔を洗ったらしく、前髪の先が濡れていた。木村は煙草を吸った。今日、三本目。最初の一本からの間隔が、だんだん短くなっていた。
「月曜の段取りを詰める」
〔マスター〕
テミスが応じた。
〔フジハラエステート、およびその関連会社三社。未上場株式、総額七億二千万円相当。霧島の資産迂回ルートの最終地点です〕
航は、画面に並ぶ法人名を目で追った。
「担保割れを起こす道筋は」
〔確認済み。月曜の寄り付き、九時から、適法な売却で実価への戻しが可能です。約定と受渡の所要を勘案しても、火曜の資金ショートには間に合います〕
航は、頷いた。
「月曜、やる」
〔了解しました〕
〈市場側通信路、準備完了。土日は私が監視を継続します〉
メティスが続けた。
「頼む」
アイリスの待機パネルが、柔らかく光った。
「マスター」
「ん」
「私は、少し眠ります」
航は待機パネルの光を、一度見た。
「ああ」
「決戦の朝に、呼んでください」
「わかった」
光が、ゆっくり暗くなった。完全には消えなかった。底に、微かな光が残った。
アイリスが眠る姿を航が見るのは、6月のHDD障害以来だった。あの時は、物理的な損傷だった。今回は、自分で選んだ消耗だった。
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午後10時30分。
サーバールームの明かりを落とした。
神崎は仮眠室に入った。土日の監視当番を前半担うつもりで、早めに寝かせた。木村は帰った。明日の朝、出直してくると言って。
航は、椅子に座っていた。
Ultra 60のファンの音。テミスのジョブキューが、低く流れている。メティスの市場側通信路が、夜間も稼働している。アイリスは、眠っている。
月曜の朝まで、約五十八時間。その先、火曜の昼まで、約八十六時間。
サーバーラックのLEDが、低く点滅している。その点滅は、三台のUltra 60の呼吸のリズムで揃っていた。一拍、一拍、同じ間隔で。去年の春、ここを立ち上げた日から、変わらない間隔で。
航は、椅子にもたれた。目を閉じた。
体が、椅子に体重を預けた。
月曜の手順が頭の中でもう一度、組み立てられていた。その前に、土日の二日間がある。市場は動かない。こちらも、動けない。動けない時間の使い方が、月曜九時の一本の売り注文の重さを決める。
サーバールームは、航一人だった。
昼の喜楽も、一人だった。
同じ一人のはずだった。
だが、昼の一人と今夜の一人は違った。
宮田さんが言った通り、違っているのは航の方だった。
月曜の昼、喜楽に行けば誰か隣の席にいるかもしれない。渡辺かもしれない。木村かもしれない。神崎かもしれない。誰でもいい。誰かが隣にいる席が、空いていればいい。
そう思ってから、航は少しだけ息を吐いた。
39歳の自分がそんなことを願うとは、先月までの航は思っていなかった。
先月、佐伯に「線はお前が引け」と言われた時、航は、一人で引くのだと思っていた。
今は、違う。引いた線は、自分だけのものではなかった。
月曜の九時に、メティスが市場に出る。テミスが後ろで解析を回す。アイリスは、マギ・ハブの底で微かな光を残したまま眠っている。渡辺が書面を仕上げる。木村がここに戻ってくる。神崎が仮眠室で寝ている。佐伯は、どこかで聞いている。
誰もいない夜の、サーバールーム。
だが、誰もいないわけでは、なかった。
航は目を閉じたまま、小さく頷いた。
アイリスの待機パネルの底の光が、一瞬だけ強くなった気がした。
ノイズの向こうから、姉が微かに笑った気がした。
声の形は、聞こえなかった。だが、笑みの温度だけは胸の底に届いた。
今朝、卵焼きを口に運んだ女の指の温度と、同じだった。
時制の離れた二つの温度が、同じ胸の底で重なっていた。
誰かわからない女の指。姉と名前を持ち始めた機械の笑み。
どちらも名前を、持っていない。
名前を持たないまま、温かかった。
航は、小さく息を吐いた。
気のせい、かもしれなかった。
気のせいでも、よかった。




