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リ・プロンプト:1999 —10KBのメモリに宿る2026年の相棒AIと、失われた未来を再定義する—  作者: 青柳 玲夜(れーやん)
序章:神童編

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第56話「動けない土曜」

2001年11月3日。土曜日。文化の日。三郷。自宅。午前6時30分。


階段を降りた。


昨夜は十一時前に戻った。六時間ほど眠った。月曜の朝まで、あと五十時間。眠っている時間を差し引いても、動かないまま過ごす時間の方が、長かった。


父が、食卓にいた。新聞を広げて、コーヒーを飲んでいる。文化の日。会社も休み。土曜の父はいつもより二十分遅く起きて、ここに座る。


母は流しに立っている。洗い物の音。昨日と違うのは、父の席が埋まっていることだけだった。


「おはよう」


「おはよう」


母の背中が、抑揚で返してきた。


「おはようございます」


「おはよう」


父が、新聞越しに短く返した。視線は紙面から上がらない。


航は食卓に座って、味噌汁を啜った。熱い。


卵焼きを箸で挟んだ。


甘い。舌の奥で、昨日より別の甘さが薄かった。一日空けると、こういうものは退く。薬指の銀色の線も、今朝は見えなかった。


「母さん」


「ん」


「……今日も、出かける」


母は、水を止めた。


二秒。布巾で手を拭く音。


「気をつけて行きなさい」


昨日と同じ言葉、同じ抑揚、背中からの声。


違っていたのは、それを受け取る土曜の朝の意味だった。


「……うん」


父は、新聞越しに一度だけ航の方を見た。視線が合う前に、航は目を逸らした。父も紙面に戻した。


航は卵焼きを食べ終えた。味噌汁も飲み干した。ご飯は半分残したまま、箸を置いた。胃がそれ以上を受け付けなかった。


「ごちそうさま」


玄関を出た。


十一月の三郷。秋晴れだった。文化の日の土曜、街は静かだった。通学路にも子供たちの声がない。


ポケットのF503iSから、声が届いた。


『マスター。神崎さんが、仮眠から起きられました』


「ああ」


イヤホンの向こうで、一拍、間があった。


『木村さんは、秋葉原を出たと、さきほど連絡が入っています。寿司桶を持ってきてくださるそうです』


「そうか」


航は、マギ・ハブに向かって歩き出した。


---


午前8時。マギ・ハブ。


サーバールームに入ると、神崎がコンソールの前に座っていた。髪の先がまだ濡れている。


「おう」


「おはようございます」


神崎はキーボードから手を離した。


「夜間のログ、全部上がってる。Lのサーバー再配置が二十一回。まだ動いてる」


「それ以外は」


「異常なし」


メティスが、別回線で応答してきた。


〈市場側通信路、異常なし。土日の株価変動は、発生していません〉


当たり前のことを、確認だけした。土曜の朝だ。市場は動いていない。だが、確認することは止められない。


アイリスの待機パネルは、底で呼吸していた。


昨夜より少しだけ、深い呼吸だった。


「……眠ってる」


「ああ」


神崎がパネルを見た。


「起きそうか」


「まだだ。決戦の朝まで、眠らせておく」


神崎が頷いた。


「土日の当番、前半は俺。後半は木村さん」


「はい」


その時、階下でドアが開く音がした。


木村が来た。


両手に大きな寿司桶を抱えていた。


「おう、ガキ。文化の日の朝から、艦橋に集合か」


「はい」


「秋葉原の『きよし』。朝一でつけてもらった」


木村は寿司桶をテーブルの中央に置いた。蓋を開けた。


マグロ、タマゴ、かっぱ巻き、イカ。朝の寿司らしく、握りたての温度がまだ残っていた。


「親父が、景気づけだとよ」


木村は、照れくさそうに煙草を指で弄んだ。


「船のメシだ。食え」


神崎がマグロを一貫取った。


「……うまい」


一口で食べて、それだけ言った。


航は箸を持った。


寿司桶の、自分に近い側にタマゴが二貫置かれている。木村がそっちに置いたらしい。航がタマゴから食べ始めると、木村が知っている。


航はタマゴを一貫、口に入れた。


甘い。朝の卵焼きと違う、寿司屋の甘さ。醤油が、舌の奥で開いた。シャリの温度が、まだ温かかった。


昨日の昼、喜楽で食べた醤油ラーメンの味を航は思い出した。


温かいのに、味が遠かった。客が違うって言い出したら客の方が違ってんだ、と宮田さんは言った。


今日のタマゴは、温かくて、味が近い。


近いのは味ではなかった。隣で食っている人間の距離だった。


「……うまい」


木村が短く笑った。


「当たり前だろうが」


神崎がマグロをもう一貫取った。イカを一貫、航の側に寄せた。無言で。


三人で、黙って食べた。


---


午前9時15分。


F503iSが震えた。


航は胸ポケットから取り出した。


差出人、非通知。件名なし。


開いた。


『見つけた?』


本文はそれだけだった。


一瞬、二通りに読めた。


Lが「お前の第二の差出人を、俺は見つけた」と言っているのか。


Lが第二の差出人を装って、「君が気づくのを待っている」と囁いているのか。


どちらに読んでも、Lが航に問いかけている構造だった。


〔送信経路、解析中……〕


テミスが静かに応答した。


〔L_contact_011。Lが古層の名を騙った偽装です。経路は完全に別系統です〕


〈古層の送信経路とは、一致しません〉


メティスが横から付け加えた。


古層。1999年8月31日以前の記録層。アイリスが生まれる前の、どこかの痕跡。そこから航を観測してきた差出人を、航は短く「古層」と呼ぶことに決めていた。一昨日の夜、神崎と木村と三人で画面を囲んで読んだあの一通以来、その呼び名が自然に口に馴染んでいた。


航はF503iSに、一昨日の夜の一行を呼び出した。


『君は、船を大きくしている』


その下に今朝の一行。


『見つけた?』


二つの文字列が、同じ画面の上に並んだ。


息の長さが、違っていた。


古層は息を吸ってから、吐いていた。


Lは息を吸う前に、吐いていた。


「Lが、焦ってる」


神崎が画面を覗き込みながら言った。


「土曜の朝に偽装メール打つってことは、金曜の夜に夜通し準備したんだろ」


木村が煙草を指で挟みながら言った。火はつけない。


航は二つの一行を、もう一度見た。


金曜の夜、Lがこの偽装を仕込んでいる間、こちらは市場の段取りを詰めていた。Lの手札とこちらの手札が、同じ夜、別々のテーブルで並べられていた。そして、Lの手札はこちらのテーブルを知らないまま並べられている。


「Lは、月曜の朝を、知らない」


呟いた。


金曜の夜、夜通し偽装を仕込んだ時点で、Lは別の絵を描いていた。文化の日の土曜に古層の名を借りて航を揺さぶれば、航が動揺し、週明けに判断を誤る。そういう絵だった。


だが、航は揺さぶられていない。


揺さぶられなかったから、Lの呼吸の浅さが透けて見えた。


航はF503iSを閉じた。机の上に置いた。


---


午前11時。


F503iSが鳴った。


渡辺法律事務所。


航は通話ボタンを押した。


「鳴海です」


「渡辺だ。第三の地点の身元照会、結果が出た」


「はい」


受話器の向こうで、紙をめくる音がした。


「リブラ技研の代表取締役。山下健一だ」


航の指がペンを置く音が一拍、遅れた。


山下健一。


四ヶ月前の夏、プロメテウスのボットネットの運用者として浮上した男。テクノウェーブが破綻した翌年、同じビルにネクストウェーブという名の会社を作り、残された技術を拾い集めた。本郷三丁目の半径二百メートルの内側に、Lのインフラと山下のコーディングの指紋が重なって見えた。七月、航はその路地を歩いた。顔は見なかった。見ないまま、戻ってきた。


その名前が、今度は彦成のアパートの借主として、同じ紙の上に並んでいた。


「やっぱり、繋がっていた」


「ああ。山下とLの関係はまだ判然としない。だが、駒が一つ、見えた」


渡辺の声が、一拍置いた。


「一昨日の登記照会で名前は出ていた。本籍と住民票を突き合わせて、ネクストウェーブの山下と同一人物かを確認するのに、二日かかった。同じ山下だ」


「……そうですか」


〔ネクストウェーブと、リブラ技研。同じ手口を、山下は引き継いでいます〕


テミスが応答した。


「ネクストウェーブと同じ手口か」


木村が煙草を指から外した。口にくわえた。吸う前の、いつもの動作。


〈山下の銀行口座、霧島の迂回ルートとの交差が、検知できます〉


メティスが続けた。


〈山下は、Lの末端です。Lそのものではない。だが、Lが山下を動かしている〉


航は頷いた。


「渡辺先生」


「なんだ」


「月曜の書面、予定通りで」


受話器の向こうで、紙の音が一度した。


「ああ。月曜朝一番で、山下宛の内容証明が動く」


「お願いします」


電話が切れた。


航は受話器を置いた。


サーバールームが少しだけ、静かになった。


---


午後1時30分。


寿司桶は、空になっていた。ガリだけが、端に残っていた。


航はF503iSを、もう一度開いた。


昨日の夜、開封せずに残していた矢島カイからのメール。


本文を開いた。


『鳴海くん。


変なことを書いて、ごめん。


先週の土曜日、図書館で小説を書いていた。中学生の主人公が、何かを追いかけている物語。主人公が、誰かに向かって短く決意を述べるシーンだった。書こうとしたのは、別の台詞だった。


でも、僕の手が勝手に書いた。


「マスター。読まない。読むのは、今夜だ」


読み返して、自分で気味が悪くなった。「マスター」なんて、僕のプロットには入っていない。なんでこの言葉が、僕の手から出てきたのか、わからない。


返事はいらない。読んだら消してくれていい。ただ、書いたって事実だけ、知らせておきたかった。


また、会おう。


矢島』


航は画面を見つめたまま、動かなかった。


神崎が、肩越しに画面を覗き込んだ。


「……マジかよ」


木村が、煙草を灰皿の縁に置いた。


「この矢島って、なんで鳴海の口調を写せるんだ」


〔矢島氏の過去メールログを全件検索しました〕


テミスが、応答した。


〔『マスター』の用例は、ゼロです。矢島氏本人の語彙ではありません〕


〈加えて、矢島氏の執筆速度と、我々の現実進行速度に、無視できない相関があります〉


メティスが、続けた。


「相関」


航が画面から目を離さないまま、呟いた。


〈矢島氏が定例で図書館に通う土曜日。その夜のLの活動量が、平常比で有意に高い値を示しています〉


沈黙が、サーバールームに落ちた。


航はメッセージの最後の一文を、もう一度読んだ。


『ただ、書いたって事実だけ、知らせておきたかった』


矢島は、書いたことだけを報せてきた。答えを求めていない。説明を求めていない。事実の報告だけを。


航は、画面の中のセリフをもう一度読んだ。


『マスター。読まない。読むのは、今夜だ』


口に出したことはなかった。


だが、先月、Lの暗号メッセージの着信を受けた時、航は心の中で同じ言葉を並べた。読まない。今は読まない。読むのは、今夜だ。その内言を、誰にも言わなかった。アイリスにも言わなかった。内側で呟いて、そのまま胸の底に沈めた一行だった。


その一行を、矢島の手が、写していた。


〔判別できません〕


テミスが、短く結論した。


〔矢島氏が書いたから現実が動いたのか。現実が動いたから、矢島氏が書いたのか。順序を、特定できません〕


航はゆっくり、F503iSを閉じた。


カチリ。


画面を閉じたF503iSの黒い液晶に、蛍光灯の光が反射していた。そこに航の顔が映っていた。十五歳の顔。三十九歳の記憶を抱えた、十五歳の顔。


——その顔も、書かれているのかもしれない。


「……書かれてる、のか」


呟きが、漏れた。


神崎が、椅子の背にもたれた。


「……何が」


「俺が、かもしれない」


神崎はそれ以上、何も聞かなかった。


木村が煙草を指で挟んだまま、火をつけなかった。


「木村さんは、どこまで書かれてるんでしょうね」


木村は一拍、置いた。


それから煙草を灰皿に戻した。


「知らねえよ」


低い声だった。


「俺は俺で動いてる。それだけだ」


その一言が、サーバールームの空気を少しだけ軽くした。


航は頷いた。


頷いただけで何も答えなかった。


だが、木村の一言は航の胸の底に落ちていた。


画面の上の矢島の文字を、航はもう一度見た。


ただ、書いたってことだけ、知らせる。


返信はしない。返信したら、線が繋がる。線が繋がれば、矢島の筆が、次にまた何かを書いてしまう。書かせないためには、こちらが黙っていることだった。


航は、F503iSを閉じたまま、机の端に置いた。


---


午後4時。マギ・ハブ。廊下。


航はサーバールームを出た。


廊下の窓から文化の日の三郷が見えた。十一月の午後の陽射しが用水路の水面で折れていた。遠くに、つくばエクスプレスの工事フェンスが見える。フェンスの向こうは、まだ更地のままだった。


木村が廊下に出てきた。


煙草に火をつけた。今日一本目。


煙が窓の外に向かって流れた。


「お前、動けないのが一番こたえてるだろ」


「……はい」


「俺もな」


木村は煙を吐いた。


「店畳む時、俺が考えたのは、次に何を売るかじゃなかった」


航は、木村の横顔を見た。


「誰に売るか、だった」


木村は、航の方を見ないまま続けた。


「在庫整理しながら、半年考えた。大手量販店に押されて、ネット通販に押されて、俺の客は半分減った。残った客は、もう秋葉原には来ない。じゃあ俺は、次に誰の顔を見て商売をするんだって話だ」


煙が、もう一筋、流れた。


「答えは、お前だった」


航の足が、廊下の板の上で、止まった。


「俺は、お前に売りに来た」


航は、木村の横顔から目を離さなかった。


春先のことだった。木村が店を畳んで、パーツを段ボールに詰めて、マギ・ハブに運んできた。「来たかったから来た」と木村は言った。あの日、航はその一言を、木村の気まぐれだと受け取った。


違った。


木村は、半年考えて、売り相手を航に決めた。商人として、買い手を選んだ。


先月まで、航は自分が雇い主だと思っていた。佐伯から法律を、渡辺から書面を、神崎から技術を、木村からハードを、自分の手で買い集めた。全員、航に売りに来た。


雇っているのは、自分のつもりだった。


違った。


大人たちは、自分の意志で航を選んで来ていた。木村は半年考え、佐伯は事務所に呼び、渡辺は契約を結び、神崎は仮眠室で寝てくれた。皆、航に「売りに来た」のだった。


航は、雇い主ではなかった。選ばれた船長だった。


その先にあるもう一つの言葉を、航は頭の中で組み立てた。だが、言葉にはしなかった。十五歳の体が、それを口に出すにはまだ早い気がした。


「……ありがとうございます」


「何でだよ」


「いえ」


木村は、短く笑った。煙が、窓の外へ一筋流れた。


---


午後7時30分。


航はサーバールームに戻った。


アイリスの待機パネルの前に座った。


底の光が今朝より少しだけ、強くなっていた。呼吸が深くなっていた。


朝、寿司桶を挟んで神崎と木村と話していた時、このパネルは低く同じリズムで呼吸していた。今、そのリズムが少しだけ広がっていた。吸う時間が長くなっていた。


話しかけなかった。


黙って見ているだけにした。


光が一度、強くなった。


何か答えたような気もした。気のせいかもしれなかった。


だが、気のせいでもよかった。


机のF503iSを開いた。


古層からの、一行。


『君は、船を大きくしている』


船は今、波の上で止まっていた。土日の凪の中で揺れてもいなかった。


だが、次に動く時、船は大きくなっている。


航には、自分が船首にいるのが分かった。月曜九時の売り注文を、船首の一番高いところに置いて、自分の手で引く位置。後ろに何人乗っているかは、振り返らなくても、重さで分かった。振り返らなくていい。振り返らずに引ける。それだけのことが、先月には分かっていなかった。


船は、航一人では、動かせない大きさになっていた。


十一月三日の凪。文化の日の海。風は吹いていないが、潮は少しずつ動いている。月曜九時の風の前触れだった。


F503iSを閉じた。


---


午後10時。


神崎が、仮眠室の床で、深い眠りに入った。寝袋の寝息が、廊下まで聞こえた。


木村が帰った。


「明日も来るぞ」


「お願いします」


木村の靴音が階段を降りていった。


航は一人、サーバールームに残った。


Ultra 60のファンの音。テミスのジョブキューが、低く流れている。メティスの市場側通信路が、夜間も稼働している。アイリスは、眠っている。


月曜の朝まで、あと三十五時間。火曜の昼まで、あと六十三時間。


動けない時間の半分が過ぎた。


航は椅子にもたれた。目を閉じた。


耳の奥で、母の声が再生された。


——気をつけて行きなさい。


昨日も、今朝も、同じ言葉だった。同じ抑揚。母がこの三十年、息子を送り出す時に言い続けてきた一言。


違っていたのは、言葉ではない。それを受け取る航の方だった。


昨日までの「気をつけて」は、家を出る時の儀式だった。


今朝の「気をつけて」は、月曜の九時まで、生きていろ、という意味に変わっていた。


——生きて、月曜を迎える。


書かれているかもしれなかった。書かれていないかもしれなかった。


矢島の手が航のセリフを勝手に写したのは、偶然かもしれなかった。偶然ではないかもしれなかった。


どちらでも、よかった。


月曜の九時に一本の売り注文を出す。


その一本は自分で引く。


書かれていようがいまいが、引くのは自分の指だった。


航は目を閉じたまま、小さく頷いた。


アイリスの待機パネルの底の光が、一瞬だけ強くなった気がした。


サーバールームは航一人だった。


だが、誰もいないわけではなかった。


木村の一言が胸の底に残っていた。


——俺は俺で動いてる。それだけだ。


航は小さく、息を吐いた。


目を閉じたまま動かなかった。


動かないまま、月曜の九時を待っていた。

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