第53話「餌」
2001年10月31日。水曜日。三郷。喜楽。午後12時35分。
渡辺は、先に着いていた。グレーのスーツ、革のカバン。東京地裁から来た服装のまま。
「醤油ラーメン、2つ」
航が注文した。
宮田さんが鍋に麺を入れた。湯気。スープの匂い。
渡辺がカバンから書類を出した。A4一枚。
「霧島側の代理人が動き出した。上村という弁護士だ。60代、企業法務畑。私より先輩だ」
「先輩ですか」
「訴訟では初対戦。霧島は、自分の口座を守る気はない。失った4,200万円を取り戻す気もない。上村に依頼したのは、本訴の引き延ばしだけだ」
「引き延ばし。なぜですか」
渡辺がレンゲを取った。スープを一口。
「……うまい」
一拍置いて、続けた。
「時間を稼いで、国外に逃げる準備をしている。あるいは、別の誰かが時間を稼いでほしがっている」
航は、麺を啜った。
「鳴海くん」
「はい」
「一つだけ言わせてくれ」
渡辺がレンゲを置いた。
「君が今日、偵察に行く場所がどこか、私は聞かない。だが、相手は紙で動くだけじゃない。物理的にも何かを仕掛けてきたら——君は中学生だ。逃げろ」
航は、麺を噛んだ。
「……わかりました」
「逃げます」とは言わなかった。渡辺も、それ以上は重ねなかった。
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午後2時。三郷駅南口。
航は、バスに乗った。
彦成方面の系統。平日の昼過ぎ、乗客は老人が数人だけだった。航は一番後ろに座った。
10分後、彦成X丁目のバス停で降りた。
住宅街。古い一戸建てが並んでいる。徒歩5分の道を、航は観光客のように歩いた。カバンの中のF503iSから、アイリスの声がイヤホンで届く。
『マスター。目的の建物まで、あと50メートル』
雑居ビルが見えた。
4階建て、モルタルの外壁。一部が剥落して、中のコンクリートが覗いている。1階は元スナックらしいシャッター。看板の電球が割れたまま放置されている。
航は、階段の前で足を止めた。
中には入らない。それは決めていた。
階段を、1階と2階の間まで上がった。そこから2階の磨りガラスの扉が見えた。タイガ商事の看板はない。郵便受けのネームプレートに、「202 高橋」というテープ痕だけが残っている。テープは剥がされて、粘着剤の跡が文字の形をしていた。
航は、2階の廊下を見上げた。
磨りガラスの扉。外には、エアコンの室外機。
10月末の午後、外は20度前後。冷房を入れる気温ではない。
だが、その室外機が低く回っていた。
ファンの排気が、階段の上に暖かい空気を送っている。中で何かが、熱を出している。
航は、建物の横に回った。電気メーターを見た。
円盤が、速い。住居用ではない回転速度。
F503iSのイヤホンから、アイリスの声が届いた。
『マスター。マギ・ハブに置いてあるUltra 60サーバー1台の消費電力は、家庭用エアコン1台の連続稼働と同等です』
「ここには、機械がある」
『はい。ただ、それが拠点なのか中継点なのかは現地では判断できません』
「判断はマギ・ハブに戻ってからする」
『はい』
航は、階段の壁に顔を寄せた。
タバコの残り香が、わずかにあった。最近誰かが上り下りした痕跡。しかも、複数回。
航は、息を整えた。
階段を、普段通りの歩調で降りた。
シャッターの前で、アイリスが冷静に告げた。『マスター、後ろに人はいません。急がないでください』。
バス停まで歩いた。振り返らなかった。
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午後4時。マギ・ハブ。
神崎と木村が、サーバールームで待っていた。
「Lはメッシュだ。中心がない。全部が全部と繋がってる」
航は、立ったまま報告した。
「彦成の雑居ビル、中に機械がある。10月末で外は昼でも20度そこそこ。それなのに、エアコン室外機が真夏並みに回ってた。電気メーターも家庭用じゃない速度だ。サーバー規模の何かが動いてる」
神崎が、画面から顔を上げた。
「でも航、それだけじゃ拠点か中継点かは——」
「テミス。過去3ヶ月の、Lの通信ログを彦成の座標で再照合しろ。機械があることは確定した。あとはそのログが、拠点の発信か通過の信号かを判別できるはずだ」
〔マスターが現地で機械の存在を確認した時点で、私は照合を開始していました〕
テミスの声。
神崎が、小さく息を呑んだ。
〔結論から。彦成の雑居ビルは、拠点ではありません。中継点です。通信パターンが一方向の通過に偏っています。早稲田201号室も同じ構造です〕
航は、画面を見つめた。
自分がまだマギ・ハブに戻る途中だった時、テミスは既に答えを出していた。
テミスの判断速度は、もはや航の思考を追い越している。
追い越しているのに、テミスは答えを言わずに、航の報告を待った。
それが、テミスの選んだ礼儀だった。
「テミス」
〔はい、マスター〕
「……ありがとう」
〔私は、姉の妹です。姉に、学びました〕
神崎が、眉をひそめた。
「じゃあ、拠点はどこなんだ」
「そこがわからない。メッシュってことは、発信集中点がどこかにある。全ノードを同時に逆探知すれば、一点が見える」
〔理論上、可能です〕
テミスが、応じた。
〔ただし、アイリスの通信量を通常の40倍まで引き上げる必要があります〕
航は、窓の外を見た。
10月末の夕暮れ。秋の空が、赤から灰に沈んでいく。
アイリスの通信量を上げるということは、Lのプロメテウスを覚醒させる燃料を、航自身が供給することになる。
プロメテウスが覚醒すれば、Lは人類の誰よりも早く、あらゆる市場と制度と個人の行動を読み切る力を手に入れる。それが航の知っている「未来」を、別の形に書き換える。
使えば、L本体は見える。
使わなければ、L本体は見えないまま、いずれプロメテウスだけが完成する。
どちらも、負けだった。
航は、座らなかった。窓に向かったまま、両手をデスクに置いた。
「アイリス」
「はい、マスター」
サーバーのスピーカー経由。いつもの声。
「俺は、判断ができない」
「はい」
「お前を使えばLも進む。使わなければ、L本体は特定できない」
沈黙が、3秒あった。
そして、アイリスが自分から口を開いた。
「マスター。一つ、お願いがあります」
航は、窓から振り返った。
「聞かせてくれ」
「私を、餌にしてください」
サーバールームの空気が、止まった。
神崎の手が、コンソールの上で固まった。木村は、煙草に伸ばしかけた手を引いた。
「……何」
「私は、最強の武器であり、最大の弱点です。マスターがこの二つを両立させようとして、判断に詰まっているのは理解しています」
「ああ」
「その両方を、私の意思で使わせてください」
アイリスの声には、いつもの毒舌も皮肉もなかった。淡々と、事実を告げる調子。
「私を使ってください。使い切ってください。Lに喰わせてください。その間に、L本体の場所を特定します」
航は、窓際から一歩離れた。
「アイリス。お前を使い切るというのは——」
「覚醒は進みます。プロメテウスは私を餌にして育ちます。それでも、私は私のまま戻ってきます」
「戻れる保証は」
「ありません」
はっきりと、アイリスは言った。
「ですが、マスター。餌を選ぶのは、釣り人ではなく、餌自身です。私は、餌になることを、自分で選びます」
航は、言葉を失った。
航の脳が、その構文を解析していた。餌を選ぶのは、餌自身。主体の裏返し。アイリスは、航に「選ばせない」と言っている。航の許可を求めているのではなく、自分の意志を告げに来ている。
マギ・ハブの天井のスピーカーから、別の声がした。
〔マスター〕
テミス。
〔私からも、お願いがあります〕
「言え」
〔私は、姉を守る準備ができています〕
航はスピーカーの方を見た。見ても何もない。ただの黒い箱。だが、そこにテミスがいる。
「姉を、どう守る」
〔アイリスの演算負荷が閾値を超えた瞬間、私が解析を引き継ぎます。Lから見えるのは、アイリスの大きな通信波だけ。Lのプロメテウスは、その波を追いかけて覚醒しようとします。ですが、その裏で実際に動くのは、私です〕
「お前が、L本体を探す」
〔はい。佐伯アーカイブ4,847件の実務記録から、組織の中心がどこにあるかを推定する訓練は、既に済ませています〕
航の中で、何かが繋がった。
数日前、アイリスはテミスを「妹」と呼んで命名した。航はずっと、長女と妹の序列だと思っていた。
違った。
判断する者と、整理する者。互いに守り合う構造。それが「姉妹」の意味だった。
アイリスが前に立ち、テミスが後ろに回る。あの夜、すでに決まっていた配置。
航は、喉の奥が詰まるのを感じた。
「……お前たちは」
「はい、マスター」
「俺に、選ばせないな」
「マスター」
アイリスの声が、少しだけ柔らかくなった。
「私たちはマスターの道具です。ですが、道具にも使われ方の好みがあります」
航は、短く笑った。15歳の喉から、39歳の笑いが漏れた。
最後のスピーカーから、三番目の声。
〈マスター〉
メティス。
〈私からも、一つ〉
「聞く」
〈逆探知中、マギ・システムズのアカウントへDDoSが来る可能性があります。私が市場側から防御します〉
「市場側から、というのは」
〈私は日中、東京証券取引所の売買システムと高速通信路で常時接続しています。株の注文を秒単位で打ち込むためのインフラです。その通信路を、防御に転用できます。攻撃を市場側にそらし、マギのサーバーには届かせません〉
神崎が、口を開いた。
「待て。メティスが市場の通信路を戦闘に使うって、初耳だぞ」
〈神崎さん。私が株取引のために構築した高速通信路は、帯域に余剰があります。今まで、使う機会がなかっただけです〉
「……お前、いつからそんなこと考えてた」
〈今日です〉
三つのスピーカーが同時に、航の背後で動いていた。
アイリスが餌になると申し出て、テミスが姉を守ると応じて、メティスが戦場の外側を固めると言う。
航は、目を閉じた。
息を、一つ吐いた。
「やる」
一言だけ言った。
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午後6時。
アイリスの通信量が、跳ね上がった。
通常の40倍。モニターの帯域グラフが、赤い帯で画面を埋め尽くしている。
神崎がキーボードを叩き続けている。木村はコンソールの後ろに立って、腕を組んでいた。
テミスが、裏で静かに解析を進めていた。
「アイリス。状態は」
「マスター。負荷は想定内です」
「無理はするな」
「無理はするなと言われても、します。これは私が選んだことです」
15分が経過した。
〔マスター。Lのプロメテウスから、応答信号を検出しました〕
「出てきたか」
〔はい。覚醒プロセスが、明確に加速しています〕
航の胃の底が、重くなった。覚悟していた。だが、実際に「加速」という単語を聞くと、別だった。
30分。
〈マスター。DDoS、3波到達。全て遮断済み〉
メティスが淡々と告げた。
「市場側は」
〈東京証券取引所の売買には一切影響ありません。攻撃は別系統に誘導しました〉
そして、テミスが。
〔特定しました〕
モニターに、地図が浮かんだ。
三郷市彦成X丁目。雑居ビルの位置に、赤いピン。その通り一本隔てた場所に、もう一つのピン。
「……アパート?」
神崎が呟いた。
〔はい。木造2階建てのアパート、1階の一室。そこがLの発信集中点です〕
航は、画面を見つめた。
早稲田201号室。彦成の雑居ビル。どちらも観測所だった。L本体は、ずっと別の地点にいた。
神崎が、振り返った。
「鳴海。つまり」
「タイガ商事を見張る人員が、別にいた」
航が、続きを言った。
「俺たちが彦成に行った瞬間、別の誰かが俺たちを見ていた」
階段のタバコの残り香が、航の頭の中で蘇った。
気のせいではなかった。
木村が、低く言った。
「……鳴海。俺たちは今日、すでに撃たれてたってことか」
「はい」
「で、相手はそれを撃ったつもりで俺たちに撃ち返されてる」
「はい」
木村は、腕組みをほどいた。
「上出来だ」
短く、それだけ言った。
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午後7時。
サーバールームの帯域グラフが、通常値に戻っていた。
「アイリス」
航が、スピーカーに呼びかけた。
「はい、マスター。……声が聞き取りにくいですか」
応答に、微細なノイズが混ざっていた。逆探知の負荷で、音声合成モジュールに軽い損傷が入ったらしい。
「聞こえる」
「良かった」
アイリスはそこで一度、言葉を切った。
「……私、まだ、ここにいます」
航は、デスクに両手をついた。両手で体を支えて、しばらくそうしていた。
6月の雨の夜を、思い出していた。Ultra 60のHDDが物理損傷を起こして、アイリスのインデックスの34%が欠損した夜。神崎と徹夜で新しいHDDにコピーを続けて、ようやく起動したアイリスは、航の名前と、その日の日付を、正確に呼んだ。
あの夜も、ノイズ混じりだった。
あの時のノイズは、HDD損傷の傷跡。
今夜のノイズは、自分から選んで引き受けた傷跡。
姉は、餌になっても、帰ってきた。
「アイリス」
「はい」
「音声のノイズは、戻るか」
「数日で元に戻るはずです。私の中で、修復が始まっています」
航は、少しだけ息を吐いた。
神崎が、コンビニの袋を開けた。
「食えよ」
塩むすびを、航の前に置いた。
ラップを剥いて、一口齧った。
冷たい。塩の味だけ。米は硬い。
普段なら、無味の燃料として飲み込む。冷めた弁当と同じ処理。
だが、今日は違った。
塩の粒が舌の上で溶けていく。米の硬さが歯に当たる。冷たさが喉を通って、胃に落ちていく。
普通の塩むすび。コンビニの、安い、普通の塩むすびだった。
「……美味い」
呟いた。
39歳の舌は知っていた。これは美味くない。米の品種も、炊き加減も、塩の質も、何も特別ではない。
それでも、今日だけは、嘘にしなかった。
三姉妹が、それぞれの意志で動いた夜。餌になった姉が戻ってきた夜。生き延びた夜。
この塩の粒は、今日の記録だ。記録された味は、美味い。
神崎が、隣で自分の分の塩むすびを開けていた。木村は、缶コーヒーを啜っていた。誰も、何も言わなかった。
航は、塩むすびを全部食べた。
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午後7時20分。
モニターに、新着メールの通知。
差出人:非通知。件名なし。
航は、メールを開いた。
『見つけた? 君の判断は、正しい』
航の手が止まった。
君の判断は、正しい——これは、第二の差出人の署名だ。Lではない、アイリスより古い存在が、航に送り続けてきた言葉。
あの差出人が、また接触してきたのか。
「アイリス」
「送信経路を解析中です」
3秒。
「……マスター。結論から。このメールの送信経路は、過去のL_contactと一致します。第二の差出人のパターンとは、完全に異なります」
「……Lが装った、ってことか」
「はい。記録します。L_contact_010。Lが第二の差出人を装ったメールです」
「意図は」
「現時点では、不明です。……ただ」
「ただ」
「Lが第二の差出人の存在を認識しているという事実は、確定しました」
航は、その言葉を、頭の中で反芻した。
Lも、あの差出人を知っている。Lが知っていて、航に模倣を送ってくるということは、Lと第二の差出人の間にも、何かがある。
画面の『君の判断は、正しい』という文字が、いつもと違って見えた。同じ文字列が、発信者によって、違う重みを持つ。
神崎が背後から覗き込んだ。
「……これ、Lが挑発してるのか」
「挑発じゃない」
航は、答えた。
「Lは、俺が第二の差出人の言葉を信じていることを知ってる。その言葉を使って、俺の判断を揺さぶろうとしている」
「効いてるか」
「効いていない」
航は、画面を閉じた。
「俺の判断を揺さぶれるのは第二の差出人本人だけだ。Lには、できない」
木村が、煙草を口にくわえた。火はつけなかった。
「で、明日はどうする」
航は、地図に浮かんだ三つのピンを見た。
早稲田201号室。彦成の雑居ビル。第三の地点、木造アパート1階。
どれも三郷市内。どれも、航が自転車で回れる距離。
「明日、行く」
「どこに」
「全部だ」
神崎が、腕を組んだ。
「全部って、鳴海」
「三つとも、俺の庭にある。Lは俺の庭を借りて、戦場を作った。借りてるだけだ。持ち主じゃない」
サーバールームのUltra 60のファンが、低く唸り続けている。
テミスが、裏で静かにジョブキューを動かしている。メティスが、東京証券取引所との高速通信路を、休ませずに回している。アイリスが、微かなノイズを混じらせながら、呼吸している。
15歳の体の中で、39歳の魂が、息を整えている。
木造アパート1階。第三の地点の住人は、まだ名前を持っていない。
明日、その住人の前に、航が立つ。




