第52話「教室の投資家」
2001年10月30日。火曜日。三郷。自宅。午前7時20分。
航は、味噌汁を啜っていた。
昨夜の残りの味噌汁を、母が温め直したものだった。具は豆腐とわかめ。塩気が少し強い。
食卓の向こうで、母がトーストを焼いていた。オーブントースターのタイマーが、小さく鳴る。
「母さん」
「ん?」
「今日、早退する。12時頃に抜けて、3時の三者面談までには戻る」
母のトーストを取り出す手が、一瞬止まった。
「……また?」
「はい」
「今月、これで何回目?」
「4回目」
母は、トーストを皿に置いた。マーガリンのフタを開ける音。ナイフを動かす音。
「担任の先生に、連絡しておかなきゃいけないよね」
「はい。すみません」
「体調、崩してない?」
「大丈夫」
母は、マーガリンを塗り終わったトーストを、航の前に置いた。
「家の事情で、って言っておくからね」
家の事情。
航は、母の顔を見た。
母は、自分のトーストにマーガリンを塗り始めていた。ナイフを動かす手が、昨日までと同じ動き。今日だけ少しだけ、ゆっくりだった。
「三者面談、3時半からでしょ」
「はい」
「小林先生、何か言うかも」
「はい」
母は、マーガリンのフタを閉じた。
「航」
「はい」
「お母さん、先生に『家の事情です』って言うからね。それでいい?」
航は、味噌汁の椀を両手で持った。
温かい。
「……いいです」
「そう」
母は、自分のトーストを齧った。
台所のラジオが、朝のニュースを流している。ダウの続落。NASDAQの安値更新。日経平均の反発期待。どれも航の頭には入ってこなかった。
母の嘘を、母が用意している。
航は、味噌汁を飲み干した。
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午前8時40分。皐月中学校。
1時間目は数学。2時間目は理科。3時間目は国語。
航は、いつも通り授業を受けていた。いつも通り、適度に間違え、適度に正解した。
4時間目の途中、11時35分。
教室のドアがノックされた。国語教師が顔を上げる。担任の小林が、廊下に立っていた。
「鳴海、ちょっと」
航は席を立った。
廊下に出る。小林は窓際まで歩いた。
「お母さんから電話あった。早退の件と、放課後の三者面談のこと」
「はい」
「鳴海」
「はい」
「今日は出してやる。でもな」
小林は、窓の外の校庭を見た。
「放課後、お母さんと、出席のこと、ちゃんと話すからな」
「……はい」
小林は、もう何も言わなかった。航を教室に戻した。
航は席に着いた。給食はまだ始まっていない。机の中の鞄に、手を伸ばした。
11時45分、航は校門を出た。
南へ、徒歩5分。
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午前11時50分。喜楽。
引き戸を開けると、宮田さんがカウンターの向こうから顔を上げた。
「おう、航くん」
「こんにちは」
「今日は、お客さんと一緒かい」
「はい。あと二人、来ます」
宮田さんは、それ以上聞かなかった。厨房の奥で、鍋の湯を見た。
航はカウンターの一番奥に座った。5分ほどして、引き戸が開いた。
渡辺だった。グレーのスーツ。革のカバン。東京地裁を1日で回った昨日と、同じ服装。
「鳴海くん」
「渡辺先生」
渡辺はカウンターを見渡した。宮田さんと目が合った。宮田さんが小さく頭を下げた。渡辺も、小さく頭を下げた。
その直後、木村が入ってきた。
「おう、揃ったな」
三人がカウンターに並んだ。
「醤油ラーメン、3つ」
航が注文した。
宮田さんが、鍋に麺を入れた。湯気が上がる。スープの匂いが、店の中に広がった。
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宮田さんが、3つの丼をカウンターに並べた。
熱い湯気。厚いチャーシュー。ネギ、メンマ、海苔。500円の醤油ラーメン。
渡辺が、レンゲを取った。スープを一口。
「……うまい」
宮田さんは、何も言わなかった。カウンターを一度拭いて、厨房の奥に戻った。
木村が、麺を啜った。
「鳴海。渡辺先生、タイガの話、聞きたいそうだ」
航は頷いた。渡辺が、カバンから書類を取り出した。A4用紙、3枚。
「昨日、君から聞いた話を元に、テミスが草案を作った。二通目だ」
渡辺は、書類を航とカウンターの間に置いた。
「照会書。法人登記の代表者の実在性について、登記所に照会を出す。『高橋徹』が架空名義である可能性を、正式に問う」
航は、書類を覗き込んだ。
「これは、本訴じゃない」
「ああ。下調べだ。照会の結果、実在しないことが確認されれば、法人登記そのものの効力に疑義が生じる。そこから先は、マギ・システムズの顧問弁護士として、次の段取りを組める」
渡辺は、書類の2枚目を指で叩いた。
「もう一つ、重要な点がある。タイガ商事の設立時の定款認証は、千葉の公証役場で行われている。三郷市内の法人が、わざわざ千葉まで行って定款認証を受ける。これは普通じゃない」
「なぜ千葉なんですか」
「公証役場ごとに、認証の厳格さに差がある。千葉の一部の役場は、2000年頃から、本人確認の甘さが司法書士界隈で噂になっていた。架空名義の法人を作るなら、そこを選ぶ」
木村が、麺を啜りながら言った。
「家賃の振込元、大家から聞いてきた。『有限会社アルゴス商会』。都内の法人だ。住所は千代田区の雑居ビル。調べたら、そこも幽霊会社の匂いがする」
渡辺が、木村を見た。
「幽霊会社が、幽霊会社に金を流している」
「そういうことになる」
「層が深いな」
「はい」
渡辺は、レンゲを置いた。書類を鞄にしまった。
「この照会、明日の午前中に出す。結果は早くて3日。遅くて1週間」
「待ちます」
「それと、君に一つ確認したい」
渡辺が、航を見た。
「マギ・システムズの顧問弁護士として、私は法の範囲でしか動けない。だが、タイガ商事の先には、おそらくLがいる。Lに対して、法の外の手を出す気は、あるか」
航は、レンゲを止めた。
「ありません」
即答した。
「合法で、勝ちたいです」
渡辺は、少し黙った。
「……そうか」
レンゲを取り直した。スープを一口。
「ならば、私は最後まで付き合える」
木村が、呟いた。
「鳴海。お前、覚悟はあるのか」
「あります」
「なら、俺も船を漕ぐぞ」
木村は、チャーシューを齧った。
航は、麺を啜った。
明日、タイガ商事の雑居ビルを、見に行く。
「渡辺先生」
「ん」
「明日、雑居ビルの外観だけ確認します。中には入りません」
「それでいい」
渡辺は、丼を両手で持ち上げて、残ったスープを飲み干した。
以前に渡辺から言われた言葉が、頭の奥で響いた。証拠保全の現場に初めて行った日、渡辺が最初に告げたこと。「現場では一切喋るな」。
航は、その言葉を、今日の現場にも持っていく。
「ごちそうさまでした」
渡辺が丼を置いた。
カウンターの向こうで、宮田さんが小さく頷いた。
航は、麺を啜った。
熱い。醤油の香りが鼻に抜ける。チャーシューの脂が、唇に残る。
昨日のチキンラーメンとは、違う温度だった。
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午後1時10分。マギ・ハブ。
渡辺を初めて、マギ・ハブに通した。
サーバールームの扉を開ける。Ultra 60のファンの音。3台のモニター。ケーブルの束。
渡辺は、部屋の中央で立ち止まった。
「……これが、テミスか」
〔はい、渡辺先生〕
テミスの声が、スピーカーから響いた。
渡辺は、0.5秒だけ目を細めた。
「よろしく」
〔こちらこそ〕
短い挨拶だった。
航が、神崎に書類を渡した。神崎が、渡辺とテミスと一緒に、照会書の最終確認を始めた。
航は、別のモニターの前に座った。メティスのダッシュボード。
〈マスター。来客中、失礼します〉
メティスの声が、スピーカーから響いた。
渡辺が顔を上げた。
〈午後の市場、短期取引の窓が開きます。13:30の寄り直し、あと15分〉
「根拠は」
〈午前のダウ続落を受けた売り圧力が、ここで一旦反発する兆しです。電機株の一部、メモリ関連銘柄で出来高の異常を検知。午後の寄り直しで、一時的な買い戻しが入ります〉
「確度は」
〈過去72時間の市場データとの相関で、87パーセント。1時間半の短期勝負なら、優位性があります〉
「金額は」
〈推奨は、300万円規模の短期ポジション。90分以内の決済を想定〉
「執行準備」
航はマウスを操作した。マギ・システムズ名義の証券口座。発注画面。銘柄コード、株数、指値、全て手が覚えている。
寄り直しの合図を待つ。
サーバールームの空気が、止まった。
渡辺が、航の手元を見ていた。神崎も、照会書から顔を上げていた。
13時30分。
〈マスター。執行タイミング〉
航はクリックした。
注文が、東京証券取引所に向けて飛んだ。
画面の右上、約定通知のランプが一瞬だけ緑に光った。
〈発注、受理。約定待ち〉
航は、マウスから手を離した。
渡辺が、口を開いた。
「……今、いくら動かした」
航は顔を上げた。
「300万円規模の短期ポジションです」
「目標は」
「90分で、1割前後」
渡辺は、0.5秒だけ目を細めた。
「30万、取りに行くのか」
「はい」
「中学生がか」
「中学生が、です」
渡辺は、少し笑った。
「……そうか」
それ以上、追及しなかった。
14時30分、渡辺が席を立った。「明日の雑居ビルの件、帰ったら報告をくれ」。それだけ言って、マギ・ハブを出ていった。
航は、マギ・ハブを出た。再び皐月中学校へ戻る。
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午後3時30分。皐月中学校。進路指導室。
母が先に着いていた。パイプ椅子に座って、小さな鞄を膝に置いていた。航が入ると、母は少しだけ微笑んだ。
小林が入ってきた。机の上に、一枚のプリントを広げた。
出席記録。
「航くん、10月に入ってからの早退・欠席、これで4回目だ」
母が、その紙を見た。
「……4回」
「17日、18日、25日、そして今日。成績は十分だ。定期テストの点数は、学年でも上位にいる。だが、出席日数がこのまま減り続けると、内申点が落ちる」
小林は、母を見た。
「公立高校の受験は、内申点も見られます。ただ、航くんの成績なら、三郷工業技術は安全圏です。内申が多少落ちても、通る学校です」
小林は、プリントに手を置いた。
「私が気になっているのは、別の話です」
母が、顔を上げた。
「この学年で、航くんは上位十人に入っています。本人が本気で対策すれば、県立浦和も大宮も届く。春日部でも構わない。進路を一段上げれば、人生の選択肢が、変わる学校です」
小林は、母を見た。
「それを、本人が下げている。お母さん、家の中で何か、航くんが『上を目指せない』と感じる事情があるのなら、学校として力になれることがあるかもしれません」
母が、プリントから目を離した。
小林を見た。
航は、横目で母を見ていた。
母は、何も言わなかった。
「……先生」
母が、口を開いた。
「ご心配、ありがとうございます」
声が、いつもより低かった。
「家の事情で、子供にも手伝ってもらっていることがあります。ご迷惑をおかけして、すみません」
嘘だった。
母は、航が何をしているか、知らない。知らないまま、嘘をついて息子を庇っている。
「お母さん、手伝いの内容を、伺っても——」
「この子は、三郷工業技術を受けると言っています」
母の声が、小林の問いを静かに切った。
「この子が選んだことなら、それでいいと思っています」
小林が、黙った。
航は、机の木目を見ていた。
古い机だった。無数の傷。名前を彫った跡。鉛筆で書かれた落書き。どれも、航とは関係のない、別の誰かの痕跡。
この人は、何も知らない。
知らないまま、嘘をついて、息子を信じている。
航の喉の奥で、何かが一度だけ動いた。39歳の脳が、それを押し戻した。
「……すみません」
航が言った。小さな声だった。誰に言ったのか、自分でもわからなかった。
小林は、プリントを閉じた。
長い間、何も言わなかった。
それから、志望校の書類を出した。ハンコを押した。
「次から、計画的に休むように」
「はい」
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午後4時20分。皐月中学校 校門。
母と並んで、校門を出た。
10月の終わりの西日が、長い影を落としていた。
「航」
「はい」
「……何か、お母さんに言えないこと、してるの?」
航は、歩みを止めなかった。
「……してる」
母も、歩みを止めなかった。
しばらく、二人とも何も言わなかった。商店街のシャッターの前を通り、八百屋の店先を通り、信号で立ち止まった。
信号が青になった。
「死なない程度にね」
母が言った。
「はい」
一瞬の沈黙。
「夕飯、何食べたい?」
「……カレー」
母が、少しだけ笑った。
「わかった。じゃ、スーパー寄るね」
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午後4時40分。
航は、三郷駅前で母と別れた。母は商店街のスーパーへ、航はマギ・ハブの方向へ。
F503iSを開いた。
メティスの利益確定通知。
〈13:30からの短期取引、14:58に決済完了。確定利益、338万円〉
航は、画面を閉じた。
西日が、三郷の街を染めていた。北には、早稲田団地。その裏の201号室。だが明日向かうのは、そこではない。彦成の雑居ビル。
「アイリス」
『はい、マスター』
「明日の段取り、確認する」
『了解しました。水曜の授業は午後から総合学習と体育の2コマ。早退しても、影響の大きい科目ではありません』
「雑居ビルの住所、もう一度」
『三郷市彦成X丁目14番地。三郷駅南口からバスで10分、下車して徒歩5分。合わせて15分の雑居ビルです』
航は、F503iSを閉じた。カチリ。
歩き始める。
母が作るカレーの匂いが、まだ家の方から届くような気がした。
実際には、届いていない。家までは1キロ以上ある。
だが、航の鼻の奥に、それがあった。
明日は、タイガ商事を見に行く。
航は、マギ・ハブへの道を歩き続けた。




