第51話「凍結の月曜日」
2001年10月28日。日曜日。午後11時40分。
マギ・ハブのサーバールームで、Ultra 60のファンが低く唸っていた。
航はコンソールの前で、最後の確認をしていた。
3200万判決の写し。執行文。霧島怜名義の金融口座リスト。法人登記の追跡結果。全部で187ページ。二日前に渡辺から来たメールの要求を、全部満たしている。
「アイリス。渡辺先生への送付、完了したか」
「はい。21時42分に全データを受信確認済み。渡辺先生から『明朝8時45分、東京地裁民事9部に持参する』との返信が届いています」
「担保金は」
「渡辺先生の事務所口座に、今朝のうちに800万円を振り込み済みです。渡辺先生が『担保供託は自分の足で法務局に行く』と」
航は椅子の背にもたれた。
60代の弁護士が、月曜の朝、紙の束を抱えて東京地裁に持参する。午後には法務局に走って担保金を供託する。2001年の仮差押えは、全部が紙と足で動く。電子申立てなど存在しない。
それでも、渡辺ならやる。
「神崎は」
「仮眠室で睡眠中です。先ほど『朝まで起こすな』と」
航はコンソールを閉じた。48時間で通算6時間の睡眠。目の奥が重い。
「アイリス。俺も寝る。学校に間に合うよう、6時半に起こしてくれ」
「了解しました。なお、6時間睡眠は15歳の成長期における最低基準を下回っています」
「知ってる」
「知っていて、起こせと言うのですね」
「知っていて、起こせと言う」
航はサーバールームの明かりを落とした。
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月曜日。午前8時40分。三郷市立皐月中学校。
航は教室の窓際の席にいた。
1時間目は社会。黒板に「満州事変と国際連盟脱退」と書かれている。航にとっては眠気を誘う話題だった。
だが今日、航は眠くなかった。
東京地裁民事9部。保全部。日本で最も忙しい部署の一つ。渡辺は今、その受付カウンターの前に立っている。申立書の束を提出している。
航はポケットのF503iSに、指先で触れた。
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9時03分。
右ポケットで、F503iSが一度だけ振動した。
事前にアイリスと決めていた。一度の振動は「進捗あり、緊急性低い」の合図。取り出さなくていい。
申立書提出完了。
航は教科書のページをめくった。社会教師が1931年の柳条湖事件について話している。黒板のチョークが乾いた音を立てている。
東京では、渡辺が審尋を待っている。
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10時40分。2時間目終了後の休み時間。
航は廊下の隅に立って、イヤホンを差し込んだ。
「アイリス」
『マスター。審尋が始まりました。担当は民事9部、佐々木裁判官。渡辺先生の提出書類を精査中です』
「渡辺先生との面識は」
『過去の訴訟記録から、佐々木裁判官と渡辺先生は、2000年の破産事件で一度同席しています。面識はあるが、親密ではありません』
「担保金は」
『まだ決定していません。被保全債権額3200万円に対し、慣例的には20から30%。640万から960万の範囲で判断されます』
「渡辺先生は事前に800万用意している」
『はい。範囲内に収まれば、即時供託できます』
航はイヤホンを外した。次のチャイムが鳴っていた。
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12時05分。4時間目。
F503iSが二度、振動した。
二度の振動は「決定的な進捗」。
航は国語教師が板書を続けている間、机の下でF503iSを開いた。
『担保額決定。800万円。渡辺先生は現在、東京法務局に向かっています。供託手続きの後、裁判所に戻って供託書原本を提出予定』
航はF503iSを閉じた。
800万。渡辺の事前準備が、的中した。60代の弁護士が、月曜の午前中に東京地裁と東京法務局を往復している。中3の教室で、航がその動線を追っている。
給食の時間が来た。
佐藤健太が航の机に来た。
「鳴海。今日、揚げパンだぜ」
「ああ」
「お前、またぼーっとしてるな」
「寝不足」
「またかよ」
佐藤は笑って自分の席に戻った。
航は揚げパンを手に取った。脂と砂糖の甘い匂い。空腹が反応する。一口齧った。
甘い。暖かい。学校給食の、変わらない味。
航が揚げパンを噛んでいる間に、渡辺は東京法務局のカウンターで供託金を振り込んでいる。800万円の現金が、裁判所の管理下に入る。
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13時48分。5時間目。英語。
F503iSが、三度、振動した。
三度の振動は「事態が動いた」の合図。
航は英語教師が板書を続けている間、机の下でF503iSを開いた。
『13時40分、仮差押命令発令。東京地方裁判所。佐々木裁判官署名済み』
発令。
申立から4時間半。渡辺の書類の完成度と、執行官経由の手交送達の段取りが、この速度を生んだ。
『続報。渡辺先生が執行官室に直行中。執行官が同行して銀行本店へ手交送達を行う準備をしています』
2001年の民事執行法では、仮差押命令の送達は特別送達が原則。だが、債権者が緊急性を主張し、執行官が同行すれば、当日中の手交送達が可能になる。
渡辺は、そこまで想定して朝の申立てを組んだ。
航はF503iSを閉じた。
英語教師が航の方を見た。
「鳴海、何を読んでるんだ」
「……教科書です」
「嘘をつけ。立て」
航は立ち上がった。
「次のページの問3。訳してみろ」
航は教科書を開いた。Lesson 5。外国人観光客との会話。
「Could you tell me how to get to Asakusa?」
「浅草への行き方を教えてもらえますか」
「……正解だ。座れ」
航は座った。
英語教師は板書に戻った。クラスメイトは何事もなかったように授業を受けている。
東京地裁から執行官と渡辺が出発した瞬間を、この教室で知っている人間は、航一人だった。
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15時25分。放課後。
航は校門を出た。
F503iSを開く。
「アイリス」
『マスター。報告を続けます。14時52分、東京三菱銀行本店、送達完了。銀行側は通常業務の遅れを懸念しながら受領。凍結処理は17時までに完了する見込みです』
「残り2行は」
『15時15分、第一勧業銀行本店に執行官と渡辺先生が到着。送達中。その後、東洋信託銀行本店へ向かいます』
「銀行間の移動時間は」
『丸の内から大手町、二重橋。徒歩圏です。40分以内に3行目到達の見込み』
航は歩き始めた。マギ・ハブまで徒歩25分。
イヤホンの中でアイリスが続けた。
『Lのサーバーから、銀行関連ドメインへの接続試行が14時58分から急増しています。通常の60倍のトラフィック。15時04分には100倍を超えました』
「気づいたな」
『はい。Lは、自分の口座が今、凍結されつつあることを知っています』
航は足を速めた。
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16時10分。マギ・ハブ。
玄関を開けると、神崎と木村が同時に振り向いた。
「やったな、鳴海」
神崎が笑った。目の下に濃い隈がある。
「東京三菱、凍結処理実行。残高1,847万円、差押え完了」
「第一勧銀は」
「15時52分、凍結。1,203万円」
「東洋信託は」
「今、送達中だ。執行官が16時までに本店に到達予定。17時前には完了する」
木村は煙草に手を伸ばして、やめた。
「……効いたな」
「効いている」
航は椅子を引いた。
モニターには、アイリスのダッシュボードに今日の進捗が時系列で整理されていた。9時03分の申立書提出から、16時までの全てのタイムスタンプが並んでいる。
「アイリス。Lの動きは」
「15時10分以降、Lのサーバーからの外部銀行への接続試行が全て失敗。15時30分、サーバーからの発信は完全に停止。以降、沈黙が続いています」
「焦って止まったか」
「焦っています。通常のLは、どれほどの異常事態でも、これほど短時間に通信パターンが崩れることはありません」
「……いつもの冷静なL、じゃねえな」
「はい」
「ってことは、効いてる」
「効いています」
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16時58分。
F503iSが鳴った。渡辺法律事務所。
航は通話ボタンを押した。
「鳴海です」
「渡辺だ。東洋信託銀行本店、凍結処理完了。残高1,150万円、差押え完了」
渡辺の声は、普段と同じ平坦さだった。だが、少しだけ息が上がっていた。
「三行合計、4,200万円。霧島怜名義の国内口座、全て差押えた」
「……ありがとうございます」
「礼を言うのは早い。これからが本番だ」
電話の向こうで、渡辺が息を整える音がした。
「霧島側が異議申立てをしてきた場合、本訴に移行する。それまでに、霧島の現在の所在と、他の隠し口座を洗いたい。テミスに追加のアーカイブ検索を頼めるか」
「はい」
「それと、明日、マギ・ハブに行く。昼飯の後、そのまま。次の手の相談と、霧島側の弁護士が介入してきた場合の対応について話す」
「わかりました」
「一つ、頼みがある」
「はい」
「朝から何も食べていない。今日は、地裁と法務局と銀行3行を走り回った。60の体には堪えた」
「……すみません」
「冗談だ」
渡辺の声が、わずかに緩んだ。
「明日、近所でうまい昼飯が食える店を教えてくれ」
航は、少しだけ笑った。
60代の弁護士が、東京地裁と法務局と銀行3行を1日で回って、三郷に来る用事のついでに昼飯の心配をしている。
「喜楽というラーメン屋があります。校門から南に5分。俺が小学生の頃から通っています」
「醤油ラーメンは」
「500円です。チャーシューが厚いです」
「行こう。明日の12時半に、その店で」
電話が切れた。
航はF503iSを閉じた。カチリ。
明日は早退する。今月、これで4回目だ。「鳴海はたまに休む」で済む回数を、越えつつある。
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17時20分。
神崎がコンソールを操作していた。
「鳴海。テミスが、今朝の解析で一つ見つけた」
「何を」
「霧島の口座から、2001年の5月から10月にかけて、毎月15日、同じ金額が送金されている先がある」
画面に数字が並んだ。
毎月15日。35万円。
送金先:有限会社タイガ商事。所在地、三郷市内。
「有限会社タイガ商事」
「登記簿を引いた。設立は2001年3月。代表者は『高橋徹』。だが、電話帳に『高橋徹』の登録なし。登記上の住所の雑居ビルにも『タイガ商事』の看板はない。木村さんが不動産の伝手で大家に確認した。2階の一室を借りてはいるが、内装工事もしていない。住所だけの幽霊会社だ」
航は画面を見つめた。
ペーパーカンパニー。霧島から毎月35万円を吸い上げていた、三郷市内の幽霊会社。
「ここが、Lの次の拠点か」
「まだ確定じゃない。だが、霧島の金が毎月ここに流れていた事実は動かない。そして、三郷市内だ」
木村が顎を撫でた。
「鳴海。俺たちの庭だ」
航は頷いた。
三郷市。マギ・ハブのある街。航が毎日登下校している街。Lは早稲田201号室にいる。そして、もう一つの拠点が、同じ市内にある可能性が出てきた。
「水曜、雑居ビルを見に行く」
航は椅子から立ち上がった。
「神崎。明日までに、タイガ商事の登記と関連法人を全部洗ってくれ。テミスに食わせろ。木村さんは、大家から家賃の振込元の情報をもらえますか。別会社経由なら、そこから線を辿れる」
「わかった」
「了解だ」
航はコンソールに向き直った。
テミスのジョブキューが、次の段取りを組み始めていた。47通りのうちの二通目。タイガ商事に対する別の法的アプローチ。
一通目が動いた。今夜、二通目が走る。
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18時30分。
マギ・ハブのカウンターに、木村が買ってきたカップ麺が三つ並んでいた。チキンラーメン。木村が自販機から出してきた缶コーヒーが横に置かれている。
「食え。お前、今日、給食以降何も食ってねえだろ」
「はい」
航はカップ麺の蓋を開けた。湯気が立つ。鶏ガラの匂い。
神崎が隣で啜っていた。
「うめえ」
木村が缶コーヒーを開けた。プルタブを引く音。
「鳴海」
「はい」
「4,200万凍結。でかいぞ」
「はい」
「だが、祝いはまだだ。Lが止まっただけで、倒れてない」
「わかっています」
「だから、今夜はこれで十分だ」
木村は缶コーヒーを啜った。
航はカップ麺を口に運んだ。
熱い。塩辛い。麺が柔らかい。不味い。だが、温かい。
サーバールームの隅で、Ultra 60のファンが低く回り続けている。テミスのジョブキューが流れている。二通目の準備が整いつつある。
月曜の夕方。航は学校に行き、渡辺は東京中を走った。60代の弁護士と、15歳の中学生と、24歳の技術者と、50代の元パーツ屋が、霧島怜の口座から4,200万円を合法的に凍結した。
明日、渡辺が喜楽に来る。
水曜、航はタイガ商事の雑居ビルを、自分の足で見に行く。
マギ・ハブの窓に、十月の薄暮が沈みかけていた。
航は、窓の外を見なかった。




