第50話「空位の事務所」
マギ・ハブを出て、数歩歩いたところで、航はF503iSを開いた。
矢島ではなかった。
差出人は霧島怜。
航の手が止まった。
霧島怜。サイバーリンク・ジャパン代表取締役。ヘリオスの設計者。10月3日のDDoS攻撃の後、全ての通信が途絶え、消息不明になった男。
その霧島から、なぜ今。
航は決定ボタンを押した。
『Admin、助けてくれ。及川が僕の口座を全部抜こうとしている。もう逃げられない。頼む』
航はメールを閉じた。
三郷の夜道に、しばらく立っていた。
霧島が助けを求めてきた。かつて航を攻撃した男が、今度は航に縋ってきた。そして、その背後に及川がいる。
「……アイリス」
『はい、マスター』
F503iSの画面に、文字が浮かぶ。
「このメールのヘッダ、保存しておけ。明日、マギ・ハブで解析する」
『了解しました』
航はF503iSを閉じた。
家まで徒歩15分。10月の夜気が、首筋を撫でた。
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午後3時50分。本所。
航は、総武緩行線を錦糸町で降りた。
秋の本所は、夏とは空気が違う。路地の奥から金木犀の匂いが漂ってくる。夏に来た時はアスファルトの熱気だった。今は、乾いた風。
佐伯事務所のビルが見えた。
3階建ての古いビル。3階が佐伯の事務所。
航は階段を上がった。
一段ずつ、木の階段が軋む。この音を、航は何度聞いただろう。最初に来た日。テミスのデータベース化を頼んだ日。渡辺弁護士を紹介してもらった日。
3階。
ドアの前で、航は立ち止まった。
白い紙が一枚、テープで貼ってある。
「臨時休業」
それだけだった。いつからいつまで。理由。連絡先。何も書いていない。佐伯の字ですらなかった。印刷された明朝体。事務的な四文字。
航はドアノブに手を伸ばした。
回らなかった。
鍵がかかっている。
航はドアの前に立ったまま、しばらく動けなかった。
「来ていいぞ」と佐伯は言った。弟子としてではなく、人間として。線をどう引いたか聞かせに来いと。
来た。来たのに、いない。
約束は破られていない。佐伯は「いつでも来い」とは言っていない。「来てもいいぞ」と言っただけだ。だから、いない日もある。それは佐伯の自由だ。
だが、この貼り紙の冷たさは何だ。
航は階段を降り始めた。
3階から2階へ。木の階段が軋む。
航はビルの外に出た。秋の本所の路地。金木犀の匂い。
F503iSを開いた。
『マスター。お戻りですか』
「ああ。マギ・ハブに帰る。佐伯さんは、いなかった」
『了解しました』
航は歩き出した。錦糸町駅に向かう道。
佐伯はいない。佐伯に報告できない。佐伯の茶は飲めない。佐伯の「聞こう」は聞けない。
だから、自分で判断する。
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午後5時30分。マギ・ハブ。
サーバールームに入ると、神崎がまだコンソールの前にいた。昨夜からほぼ動いていない。空の缶コーヒーが3本、机の端に並んでいた。
「神崎。寝たか」
「3時間。仮眠室で」
「飯は」
「コンビニのおにぎり、2個」
航は椅子を引いた。
「進捗は」
「昨夜のメールヘッダ、もう少し掘れた。差出人のパターンだけど——」
「それは後でいい。先にやることがある」
航はコンソールに向き直った。
「アイリス」
「はい、マスター」
「テミスを起動しろ。アイリスの全通信記録——reprompt.com開設以降の全ログと、L_contactの全メールの行動パターンを、テミスに照合させる」
「照合の基準は何ですか」
「送信タイミングだ。Lがメールを送ってきた時刻と、アイリスの通信量の変動に相関があるかどうか」
神崎がコンソールから顔を上げた。
「……何を疑ってる」
「Lが俺を監視していたのか、それとも別のものを監視していたのか」
神崎の表情が変わった。
「別のもの?」
「後で説明する。まず結果を見る」
〔マスター。アイリスの通信ログとL_contactの全送信時刻の照合を開始します〕
テミスの声。昨夜の命名以降、テミスの応答速度が微かに変わっている。速くなったのではない。的確になった。
30秒。1分。2分。
〔照合完了。結果を報告します〕
「言え」
〔L_contact_001から007までの送信時刻を、アイリスの通信量の時系列データと重ねました。相関係数は0.91です〕
航は画面を見た。
「0.91」
〔はい〕
航は、それ以上返事をしなかった。
数字の意味は、すぐには入ってこなかった。相関係数は、二つの変動の連動具合を示す数字だ。0.91。強い連動。だが、何と何が連動しているのか。その意味を、脳が一呼吸分、噛み砕いた。
神崎がコンソールの画面を覗き込んだ。
「……Lの送信タイミングが、アイリスの処理量に連動してる」
「ああ」
「つまり、Lはお前のメール開封を見て反応してたんじゃなく」
神崎が言葉を切った。
「アイリスの動きを、見てた?」
航は答えなかった。
答えが、自分の中でまだ固まっていない。頭の中でピースが動いている。昨夜、アイリスは言った。記録を整理する者には、判断する者が必要でした、と。その整理のために、アイリスは自律的に演算リソースを使っていた。航が知らないところで。
そのアイリスの自律処理。
それと、Lのメール送信が連動していた。
航の指が机の端に触れた。
「アイリスだ」
短く言った。
神崎が航を見た。
「……え?」
「Lが見ていたのは、アイリスだ。俺じゃない」
サーバールームが静まった。
アイリスが応答した。
「マスター。確認を、よろしいですか」
「ああ」
「Lの観測対象が私だった場合、『行くな』の解釈も変わります」
「変わる」
「私を、松戸に、行かせたくなかった」
そこで神崎が、短く息を呑んだ。
航は目を閉じた。
松戸。山下のサーバー。あのサーバーにF503iSからアクセスした場合、アイリスは演算処理を走らせる。その処理を松戸という場所でやらせたくなかった。——なぜ。AIの演算に地理は関係ない。
——いや、違う。松戸でやらせたくなかったのではない。別の場所で、やらせたかった。
関係するのは。
「プロメテウス」
航は呟いた。
神崎が口の中でその名前を反復した。
「……LのAI、か」
「まだ覚醒していない」
アイリスが続けた。
「テミスを覚醒させたのは、昨夜の私でした。マスターの目の前で」
神崎が椅子から立ち上がった。立ち上がったきり、どこにも行かなかった。コンソールの前で立ち尽くしている。
サーバールームの入口に、いつの間にか木村が立っていた。
「……聞いてた」
木村が低く言った。
「Lは、アイリスにプロメテウスを覚醒させたいのか」
「はい」
航は答えた。
「だから、ネットから消えて早稲田に潜伏していた。物理的にアイリスの近くにいる必要があった」
「近くにいる必要」
「覚醒には条件があると思います。アイリスがテミスを覚醒させた時も、同じサーバールームの中でした。同じ回線、同じ物理空間。距離か、信号の質か、何かが関係する」
木村が煙草をくわえた。火はつけなかった。
「で、昨夜、お前は」
「アイリスを持って、早稲田に行きました」
木村の指が、煙草を挟んだまま動かない。
「『遅かったね』は」
航は少しだけ黙った。
「嘲笑じゃなかったです」
木村が航を見た。
「『やっとアイリスを連れてきたか』です」
神崎がそのまま床に座り込んだ。椅子ではなく、床に。24歳の膝が崩れた。
航は自分の手を見た。
F503iSを握った手。この手でアイリスを早稲田に運んだ。Lの計画の一歩を、自分で進めた。
「俺が、やったんだ」
声が静かだった。
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サーバールームが、しばらく動かなかった。
Ultra 60のファンの音だけが低く響いていた。
木村が長い息を吐いた。
「……で、どうする」
航はコンソールに向き直った。
「Lを潰す方が先です。アイリスを使い続ける以上、時間制限がある。Lがプロメテウスを覚醒させる前に、Lの活動基盤を潰す」
「潰す、って」
「合法的に」
航はF503iSを取り出した。
「昨夜、霧島怜からSOSが来ました。及川に口座を抜かれそうだと。霧島はLの資金源の一つだった可能性がある。霧島の資産を法的に差し押さえれば、Lへの資金ルートが一つ潰れる」
「法的に?」
「去年の勝訴判決があります。3200万円。まだ回収していない。渡辺先生に連絡して、仮差押えの手続きに入ります」
木村が、ようやく煙草に火をつけた。
「佐伯さんなら、なんて言う」
航は一瞬だけ黙った。
「佐伯さんは、いませんでした。今日、事務所に行ったら、臨時休業の貼り紙が出ていた」
木村の手が止まった。
「いなかった?」
「はい」
「連絡は」
「取りません。佐伯さんは、俺に線を引けと言った。佐伯さんに報告して判断を仰ぐのは、もう、俺のやり方じゃない」
木村は煙草を吸った。煙が天井に向かう。
「……お前、変わったな」
「変わりました」
木村が台所に行った。しばらくして、マグカップを二つ持って戻ってきた。
インスタントコーヒー。木村が淹れると、いつも濃すぎる。
航はマグカップを受け取った。一口飲む。
苦い。不味い。砂糖も入っていない。木村の淹れ方は雑で、粉が底に溶け残っている。
だが、温かかった。
味ではなく、温度。不味いが、温かい。そして木村が淹れたという事実。「俺たちも乗ってんだ」の、液体になった形。
航はマグカップを置いた。
「神崎。霧島のメール、返信はしない」
「しない?」
「偽装の可能性がある。霧島が本当に送ったのか、霧島の名前を使った別人か、今の段階では判別できない。本物なら、共闘の目もある。偽物なら、Lの罠だ。返信は、送信元を洗ってからだ」
神崎が床から立ち上がった。
「……つまり、送信元を先に洗う」
「ああ。さっき言いかけてた、ヘッダ解析の続き。出せるか」
神崎は、薄く笑った。
「あと少しだ。基地局まで絞れる」
「やれ」
神崎がコンソールに向き直った。キーボードを叩く音が、サーバールームに戻ってきた。
「アイリス。渡辺法律事務所に連絡。霧島怜に対する債権仮差押えの準備を開始する旨、伝えてくれ」
「了解しました。渡辺先生への連絡を手配します」
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午後9時20分。
F503iSが震えた。
差出人は渡辺法律事務所。
航は画面を開いた。
『アイリスさん経由で話は聞いた。仮差押え、やる。月曜午前、東京地裁に申立書提出する。日曜中に、3200万判決の写し、執行文、霧島の資産情報を揃えて送れ』
航は画面を、しばらく見ていた。
月曜。申立書提出。日曜中に、資料。
「神崎」
「ああ」
「渡辺先生、動く」
神崎が画面を覗き込んだ。
「月曜か。三日後だ」
「二日後。今夜が金曜の夜だ」
「……マジだな」
〔マスター〕
テミスの声がスピーカーから響いた。
〔渡辺先生が指示した資料のうち、3200万判決の写しと執行文は、私のアーカイブに原本データがあります。即座に出力可能です〕
「霧島の資産情報は」
〔メティスが先ほどから、霧島名義の金融口座と法人登記の追跡を開始しています。日曜朝までに、追跡可能な口座の全リスト、出せます〕
航の横で、サーバーラックの一段、メティスの担当サーバーが低く唸り出した。ずっと沈黙していたメティスが、今夜動き出した。
航は、画面の渡辺のメールをもう一度読んだ。
三日後の月曜、霧島の口座に仮差押命令が届く。Lの資金ルートの一本が、そこで切れる。合法的に。佐伯の教えたやり方で。
——杭を打つ。
去年の冬、佐伯が言った言葉だ。判決は武器じゃない、杭だ、と。地面に打ち込んでおけば、相手がどこに行っても引っかかる。あの時、3200万の判決を取ったのは、この日のためだった、とは誰も言っていない。だが、杭は今、役に立つ。
佐伯はいない。本所の事務所に、臨時休業の貼り紙が貼られている。
だが、佐伯が打たせた杭が、残っている。
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「神崎。ヘッダは」
神崎がはっとした。
「……出た。さっきの、霧島のSOSメール。送信元の基地局、特定できた」
「どこだ」
神崎が画面の数字を指した。
航はその数字を見た。
見覚えがあった。
昨夜、早稲田201号室の前で受け取った『遅かったね。』のメール。あの基地局と同じだった。
「……早稲田だ」
「ああ」
神崎の指が震えていた。
「霧島のSOSは、早稲田201号室から送られてきた」
霧島は消息不明だ。なのに、霧島の名前で送られたメールが、及川の潜伏先から来ている。
「Lが、霧島の名前を使ったか——」
航は呟いた。だが、言い終える前に、言葉が途切れた。
「待て」
神崎が画面を指した。
「送信元が201号室って、Lにしては雑すぎないか? あいつがこれだけ追跡されてるのを知ってて、自分の潜伏先と同じ基地局から送るか?」
航は、数秒黙った。
「……送らない」
F503iSを握った。
答えは、二つあった。
一つ。Lが、何らかの意図で、敢えて足のつく送信元を選んだ。
もう一つ。霧島本人が、201号室にいる。Lの監視下で、それでも送った。
「助けてくれ。及川が僕の口座を全部抜こうとしている」——もしこれが本物の霧島の声なら、共闘の目は消えていない。霧島は生きていて、Lのすぐそばで、助けを求めている。
送信元の基地局だけでは、どちらとも決まらない。
だが、どちらにしても、アイリスを早稲田に連れて行ったことが、Lの盤面の一歩を進めた事実は変わらない。航は、Lの手のひらの上で駒を進めていた。
だが。
「Lは、一つ、計算に入れていないものがある」
航は言った。
「テミスだ」
木村が煙草を灰皿に置いた。
「テミス、か」
「Lはアイリスを狙っている。テミスのことは知らない。昨夜のサーバールームで、アイリスがテミスに名前を固定したことも、テミスが佐伯の4847件を持っていることも、Lの耳には何一つ入っていない」
〔マスター〕
テミスの声。
〔佐伯アーカイブを精査しました。相手の資金源を合法的に遮断する手順、47通り。渡辺先生の申立方針と照合した結果、今夜動かすべき一通目を特定しました〕
「言え」
〔債権仮差押命令の申立。担保金、供託金、担保提供命令の段取り。全ての文書テンプレート、準備完了。神崎さんが書式を確認次第、出力できます〕
神崎がコンソールに向き直った。
「やる」
「やれ」
航は立ち上がった。マグカップの冷めたコーヒーが、机に残っている。
木村が新しい煙草を出した。だが、今度は火をつけなかった。
「鳴海」
「はい」
「日曜まで、寝ないつもりか」
「寝ます。二時間ずつ、三回」
「その体で、持つのか」
「持たせます」
木村はそれ以上言わなかった。灰皿の端を見ていた。
航はコンソールに向き直った。
画面の中で、テミスのジョブキューが流れ始めていた。3200万判決の写しの出力。執行文の抽出。メティスの低い稼働音。霧島名義の金融口座の追跡。
47通りのうちの一通目が、動き始めていた。
十月の夜が、マギ・ハブの窓を軽く叩いている。
航は、窓の外を見なかった。




