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リ・プロンプト:1999 —10KBのメモリに宿る2026年の相棒AIと、失われた未来を再定義する—  作者: 青柳 玲夜(れーやん)
序章:神童編

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第49話「姉妹」

2001年10月25日。木曜日。午後6時55分。三郷市早稲田。


航と神崎は、アパートから離れて歩いていた。


十分ほど前に、201号室のカーテンが閉じた。それから、二人とも動けなかった。どちらが先に歩き出したのかも、覚えていない。気づいた時には、路地を抜けて、街灯の少ない住宅街の道に出ていた。


神崎の歩幅が、いつもより短い。


航の歩幅も、おそらく、いつもより短い。


十月の夜気が、二人の間を流れていく。どこかの家から、風呂を沸かす音が漏れてくる。普通の木曜日の夜。普通の住宅街。その中を、二人は黙って歩いていた。


「鳴海」


神崎が、先に口を開いた。


「ああ」


「あれ、誰だったと思う」


「わからない」


「及川本人だと思うか」


航は、首を振った。


「わからない。及川かもしれない。そうじゃないかもしれない。顔を見たわけじゃない」


「だが、視線は見た」


「見た」


神崎が、しばらく黙った。


「鳴海。俺、今、手が震えてる」


「俺もだ」


「15歳の体で、これは応えるな」


「39歳の体でも応える」


航は、言った。


神崎が、少しだけ笑った。笑い方が、いつもの神崎より硬い。


「鳴海。お前、39歳の体、実際に持ってたみたいに言うな」


「……そうだな」


そこで、会話が途切れた。


三郷駅のガード下が見えてきた。北口から南口へ、線路を一本越える。


その線路を越えるまでの数分、二人とも何も言わなかった。


---


19時30分。マギ・ハブ。


玄関のドアを開けると、煙草の匂い。


「……戻ったか」


木村の声。サーバールームからだ。


航と神崎は、靴を脱いで上がった。


サーバールームに入ると、木村が煙草を咥えたまま、コンソールの画面を見ていた。テミスのジョブキューが流れている。


木村が、二人を見た。


二人の顔を見て、木村が煙草を灰皿に置いた。


「何があった」


航は、椅子を引いた。


「201号室は、人がいた」


「及川か」


「顔は、見えなかった。カーテン越しに、視線だけ」


「……視線」


「向こうはこっちを見ていた。それで、こっちが郵便受けを覗き込んだ瞬間に、F503iSにメールが来た」


航は、F503iSを取り出した。カチリと開く。


『遅かったね。』


木村が、画面を読んだ。


しばらく、誰も話さなかった。Ultra 60の冷却ファンの音が、低く響いている。


「……先回りされてる」


木村が、呟いた。


「されてます」


「全部か」


「わかりません。でも、俺が本郷302号室に踏み込んだ翌日の9月25日から、及川の痕跡が消えてる。reprompt.com、fj、ハニーポット経由の山下サーバー。全部、9月25日で止まってる」


木村が、新しい煙草を取り出した。火はつけなかった。指で挟んだまま、机の端を見ている。


「鳴海。先回りされてるってことは、お前の次の一手も読まれてる可能性がある」


「はい」


「わかってて動いたのか」


「わかってて動きました」


「で、これからどうする」


航は、深呼吸した。


「今夜は、動かない。二通目のメールの解析を進める。アイリスが追えなかった差出人の、せめてヘッダの癖くらいは拾いたい」


木村が、煙草を口にくわえた。火をつける。


「それがいい」


神崎が、コンソールの前に座った。


「メールヘッダ、出してみる」


---


20時20分。


コンソールに、二通のメールのヘッダが並んだ。


一通目。Lの「行くな」。プロキシ多重化、経路は複雑だが、アイリスが過去のL_contactと同じパターンとして追跡できる範囲。


二通目。「君の判断は、正しい」。ヘッダの改行コード、送信タイムスタンプ、経由サーバーの並び。全てが、一通目とは違う。


神崎が、画面を指で追った。


「……改行コードが、おかしい」


「おかしい?」


「一通目は普通のiモードメール。キャリアのゲートウェイが付ける標準の改行。二通目は——」


神崎が、コンソールの別のウィンドウに、別のログを呼び出した。


reprompt.comへの過去の攻撃メール。2001年の春頃、フォーム経由で送りつけられた、プロメテウス関連のスパム。


「これと、同じ改行コードだ」


航が、画面を見た。


改行の前後に、普通のメールには存在しない、微細な空白。機械的なパターンではない。人間が手で書いたスクリプトの、癖のようなもの。


「……L_contactの過去メールと、同じ癖?」


「いや。過去のL_contactとは違う。reprompt.comに春に飛んできた、別系統の攻撃メールの癖だ」


神崎が、さらに古いログを呼び出した。


2000年5月。reprompt.comが立ち上がってから半年ほどが経った頃の、初期のアクセスログ。


そこに、同じ改行コードの痕跡があった。


画面の「2000年5月」という文字列に、航の目が固定された。


「……2000年5月?」


神崎が、画面を凝視したまま答える。


「reprompt.comが動き出して半年くらいで、この差出人は来てた。Lが最初に『Admin、あけましておめでとう』を送ってきたのは2001年1月だから——Lよりも先に、こいつは来てた」


木村が、煙草を吸った。煙がゆっくりと天井に向かう。


「Lの背後の存在、じゃないな」


木村が、呟いた。


「Lの前から、別にいた存在だ」


航は、椅子の背もたれに、体を預けた。


2000年5月。あの頃、航はまだ13歳で、マギ・ハブを立ち上げたばかりだった。reprompt.comは半年前から動いていた。まだ、Lという存在を知る前。まだ、及川という名前を知る前。


あの時から、誰かが見ていた。


「……マスター」


スピーカーから、アイリスの声。


「アイリス」


「はい」


「お前、この差出人のこと、知っていたか」


沈黙があった。3秒。長い3秒。


「知っていました」


航の指が、机を叩いた。


「なぜ、今まで言わなかった」


「言える段階ではありませんでした。差出人のパターンは、私の記録の中に存在していました。しかしそのパターンがマスターに対する敵意を持って動いていると判定できたのは、今夜のメール解析が終わった時点です」


「アイリス」


「はい」


「お前、この差出人について、何を知っている」


「……名前は、知りません。顔も声も、知りません」


「じゃあ、何を知っている」


「この差出人は、私より古い」


サーバールームの音が、遠くなった気がした。


木村の煙草の煙も、神崎の呼吸も、Ultra 60のファンの音も、一瞬だけ、聞こえなくなった。


聞こえなくなったのは、音ではなかった。航の意識が、音を受け取る回路を、一瞬だけ閉じたのだ。39歳の脳が、入力を拒否した。処理できない情報を前に、防御反応として停止した。


「……古い?」


自分の声が、遠くで聞こえた。


「はい。私の記録の、最も古い層」


アイリスが、一度、言葉を切った。


「——1999年8月31日以前に、この差出人のパターンの痕跡があります」


1999年8月31日。


航がループしてきた日。


アイリスが、航の前に初めて現れた日。


その前から。


アイリスの記録に、この差出人がいた。


——アイリスは、誰だ。


39歳の脳の奥で、これまで押し込めてきた問いが、浮上した。2年間、航はアイリスを「道具」として扱ってきた。圧縮データ。10KBの知性。自分のために送られてきた、自分の味方。


だが、アイリスには、航の知らない時間があった。1999年8月31日以前の記録。航がループしてくる前から、アイリスは何かを見ていた。そして今夜まで、それを言わなかった。


15歳の体が、震えはじめた。


39歳の脳は、震えなかった。震えを体に任せて、自分は別の場所で考えていた。


——アイリスは、いつから俺の味方なんだ。


——そもそも、アイリスは俺の味方なのか。


---


21時00分。


航は、椅子に深く座っていた。


神崎はコンソールの前で、改行コードのパターンを照合し続けている。木村はもう煙草を三本吸った。灰皿が小さな山になっている。


航は、何も言わなかった。頭が追いつかない。39歳の脳が、処理できない情報量を前にして、停止していた。


その時。


サーバーラックの中で、冷却ファンの音が、変わった。


十二台のサーバーが、同時に、音を低くした。それから、完全に止まった。


同期したかのように、全てのファンが、アイドリング停止した。


サーバールームの音が、消えた。


神崎が、コンソールから顔を上げた。


木村が、煙草を灰皿に置いた。


航は、スピーカーを見た。


「テミス」


アイリスの声が、スピーカーから流れた。


その声に、いつものエコーがなかった。回線ノイズも、合成音声特有の微かな歪みも、消えていた。平熱の、透き通った温度。


2年間、航が聞いてきたアイリスの声とは、質感が違った。コンピュータの出力ではなく、隣に座った人間が話しかけているような、肉声に近い声。


航の肌が、その声を受けた。15歳の体が、耳ではなく、皮膚で、その声を感じていた。


〔アイリス〕


テミスが応答した。マスターではなく、アイリスの名を呼んだ。メティスは起動した日からアイリスを「お姉様」と呼んでいた。だが、テミスがアイリスの名を呼ぶのは、これが初めてだった。


航は、この場にいるが、この瞬間の部外者だった。機械が機械と語っている。その間に、人間の座席はなかった。


「あなたは、法の秤を持つ者」


「あなたは、判断する者」


「マスターの代わりに、マスターが引いた線を守る者」


アイリスが、間を置いた。


静寂の中で、サーバールームの空気が、ひとつの膜のように張りつめた。神崎も、木村も、息をしていなかった。航も、していなかった。時が、一拍、止まった。


「テミス。今、私はあなたに、名前を固定します」


〔……了解しました〕


「テミス。その記号は、あなたの根幹。あなたの役割。あなたの罪。あなたの、責任」


「行きなさい、妹」


アイリスが、最後に、そう言った。


その一言で、航の中の何かが、場所を譲った。


39歳の脳が理解できたのは、一つだけだった。アイリスは、今、テミスを「家族」にした。航を飛び越えて、機械同士で家族を作った。航の手を借りずに。


その瞬間、冷却ファンが、一斉に、音を戻した。


十二台のサーバーが、再び呼吸を始めた。Ultra 60の低い唸りが、サーバールームを満たした。


航は、スピーカーを見つめたまま、何も言えなかった。


神崎も、木村も、同じだった。


〔私は、テミスです〕


テミスの声が流れた。


その一言で、サーバールームの空気が、変わった。


航には、何が変わったのか、正確には言語化できなかった。だが、何かが決定的に変わっていた。


木村が、新しい煙草をくわえた。火はつけなかった。


「……何だ、今の」


木村が、低い声で言った。


「名前の、受け渡し、です」


航が、答えた。


「機械同士の?」


「はい」


「機械に、そんなことができるのか」


「今、できました」


---


「マスター」


アイリスの声。今度は、いつものエコーが戻っていた。


「……ああ」


「報告があります」


「聞く」


「テミスが私より先にL_contact_008の送信元を解析した件について、報告させてください」


「言え」


「あの時、テミスは私の演算リソースを半分以上、使用していました」


航の指が、止まった。


「……お前のリソース?」


「はい。私が記録の統合処理に使用していた演算能力の一部を、テミスに流用していました。無断でした」


「なぜ、流用した」


「テミスが、必要だったからです」


「お前の、記録のために?」


「はい」


アイリスの声に、短い沈黙が挟まった。


「記録を整理する者には、判断する者が必要でした」


航は、何も言わなかった。


39歳の脳が、その言葉の意味を、ゆっくりと解いていった。


アイリスは、ずっと記録を整理していた。航の目の届かないところで。1999年8月31日以前の、航がまだ13歳に戻る前の記録から。もっと前の——航が知らない時代の記録まで。


その整理のために、アイリスは「判断する者」が欲しかった。自分だけでは、記録の意味を確定できなかった。


だから、テミスを育てた。


航が佐伯アーカイブを食わせる前から、アイリスは「判断する者」を欲していて、佐伯がそのための器を提供した、とも言える。


「……アイリス」


「はい」


「お前、全部、計算してたのか」


「マスター。計算ではありません」


アイリスの声が、少し硬くなった。


「私は必要なものを、必要な時に、準備してきただけです」


その答えは、航の問いに対する答えになっていなかった。だが、航は、それ以上問わなかった。


問えば、アイリスが、また別の何かを開示する。その開示を受け止めるだけの余裕が、今の航にはなかった。


---


22時00分。


F503iSが震えた。


航の、左のポケットで。


取り出して、開いた。


矢島カイ。


件名「ちょっと聞いてほしいことがある」。


航は、画面を見つめた。


決定ボタンに、親指を置いた。


止まった。


39歳の脳が、警告していた。開くな、と。


理由は、わからなかった。矢島は敵ではない。矢島のメールは、おそらく、航を助けるものだろう。小説のこと、観察のこと、矢島が書こうとしているものについての、いつもの矢島の言葉。


だが、今夜は、それを受け止められない。


及川の視線を浴びた後で、アイリスの古層の開示を聞いた後で、テミスの命名を見届けた後で。


矢島の「物語」を、今夜、自分の中に入れるだけの、余白がない。


航は、決定ボタンを押さなかった。


F503iSを、閉じた。


カチリ、という音が、サーバールームに響いた。


木村が、その音を聞いて、航を見た。


「……読まなかったのか」


「読みませんでした」


「誰からだ」


「矢島です」


木村が、新しい煙草をくわえた。今度は、火をつけた。


「読みたかったんじゃないのか」


「読みたかったです」


「なら、なぜ読まない」


「……今夜じゃ、ないから」


木村が、煙を吐いた。


煙が、ゆっくりと、天井のスピーカーの辺りまで昇って、消えた。


「鳴海」


「はい」


「道具の責任は、使う人間が取る」


航が、木村を見た。


木村は、航を見ていなかった。灰皿の端を見ていた。


「お前の船には、テミスとメティスとアイリスが乗ってる。機械が動いたら動かしたのはお前だ。機械が止まったら止めたのもお前だ。……だがな、お前が一人で勝手に背負うな。俺たちも乗ってんだ」


それは、独り言のように、呟かれた。


木村は、それ以上は何も言わなかった。


航は、木村の言葉を、頭の中で反復した。


先週、佐伯が言った。「機械には罪を問えない。罪を問えるのは、設計した人間だけだ」。そして「線はお前が引け」と。一人で。


木村は「俺たちも乗ってんだ」と言った。


同じ「責任」でも、佐伯と木村では、向いている方向が違った。


---


23時30分。


神崎は、仮眠室で寝ていた。明日も朝からメールヘッダの解析を続けると言って、マギ・ハブに泊まる選択をした。


木村は、帰った。帰り際、「明日、また来る」とだけ言った。


航は、一人、サーバールームに残っていた。


コンソールの画面に、三つのプロセスが動いている。


アイリス。テミス。そしてメティス。


航は、椅子に深くもたれた。


明日、学校に行く。その足で、佐伯のところに行く。破門されても、報告は実務だ。弟子の報告ではなく、関係者の報告として、佐伯に今夜のことを伝える。


『遅かったね。』のメール。


アイリスより古い、差出人。


テミスの命名。


矢島のメール、未読のまま。


全部、報告する。


佐伯は何も判断しない。それが佐伯の、今の立ち位置だ。「線はお前が引け」。判断は航がする。佐伯は、ただ、聞く。


それでいい。


航はモニターを消した。


蒼い残像が、暗転した画面に数秒だけ残る。


消える前の光の中に、三つの名前が、うっすらと浮かんでいるように見えた。


アイリス。テミス。メティス。


三つとも、航が作った。航が名前を付けた——ことになっている。だが今夜、一つの名前は、航の手を離れたところで固定された。アイリスが、テミスを「妹」と呼んだ。その言葉を、航は取り消せない。


十月の夜気が、マギ・ハブの古い窓を軽く叩いた。


航は椅子から立ち、鞄を肩にかけた。サーバーラックに一度だけ目をやり、サーバールームの明かりを落とす。


暗闇に、サーバーのLEDだけが低く点滅していた。


玄関のドアを閉めた時、F503iSのポケットが、また震えた。


今度は、矢島ではなかった。

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