第48話「3分12秒」
2001年10月25日。木曜日。午後3時45分。
総武線。
航は、窓際の席に座っていた。
錦糸町から、西船橋まで戻る。そこから武蔵野線で三郷。1時間ほどの道のり。
10月の午後の光が、車窓を流れていた。墨田の路地。荒川と中川の鉄橋。江戸川の鉄橋。市川の住宅街。普段なら、ぼんやり眺めている景色。
今日は、何も見ていなかった。
頭の中で、二通のメールが、繰り返し再生されていた。
『行くな。山下健一は、もう、そこにはいない。』
『君の判断は、正しい。』
Lと、誰かと。
二つは、同じ方向を向いている。Lが松戸を否定し、誰かが航の判断を肯定する。
——だが、俺は、まだ次の行き先を、口に出していない。
口に出していない判断を、誰かが「正しい」と言う。それは、「行き先を読んでいる」ということだ。あるいは——「行き先を、誘導している」ということだ。
『マスター』
イヤホンの中で、アイリスの声がした。
『顔色が悪いです。マスター、座席で目を閉じてください。三郷駅まで、私が起こします』
「うるさい」
『うるさくても事実です』
航は、薄く笑った。
「アイリス。一つ確認したい」
『はい』
「『君の判断は、正しい』のメール。送信時刻は、Lのメールから何分後だった」
『3分12秒後です』
「3分か」
『はい』
「Lのメールを俺が開いて本文を読んで、『松戸じゃない』と判断するまでに何分かかった」
アイリスは、3秒、計算した。
『マスターがメールを開いてから、F503iSを閉じるまでに約4分。その間にマスターは脳内で次の行き先を決めました。私の観測では、マスターが行き先を確定したのはF503iSを閉じる直前です』
「つまり——俺が判断する前に、誰かが『正しい』と送ってきた」
『はい。マスターの判断確定の前に、判断を肯定するメールが届いています』
航の指が、シートの肘掛けを握った。
「俺の脳内が、読まれてる」
『あるいは、誘導されています』
「同じことだ」
電車が、市川駅を通過した。
総武線の各駅停車は、ゆっくり走る。中央・総武緩行線の黄色い帯。途中駅で何度も止まる。今日は、その遅さが有難かった。考える時間があった。
——マギ・ハブに、戻る。
それが、最初の決断だった。
神崎と木村に、状況を共有する。テミスとメティスにもアクセスする。Ultra 60の演算能力で、二通のメールの差出人パターンを、もう一度解析する。
その上で、次の手を決める。
一人で動かない。佐伯に教わったことだ。
お前が追っているのは、ネットの亡霊じゃない。生きた人間だ——佐伯の声が、頭の中で響いた。
航の船には、神崎と木村が乗っている。船長が単独行動するのは、船を放棄するのと同じだ。
『マスター』
「なんだ」
『三郷駅まで、約40分です。神崎さんに、事前連絡をしますか』
「いや。直接行く」
『理由は』
「電話で説明できる話じゃない」
『了解しました』
電車が、本八幡を過ぎた。
航は、目を閉じた。
15歳の体が、座席に体重を預けていた。39歳の脳が、次の手を組み立てていた。
二人の航は、同じ電車に乗っていた。
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午後5時10分。三郷駅。
改札を出ると、夕方の風が、頬を撫でた。
10月下旬の三郷は、もう冬の気配がする。日が短くなった。今日もすぐに暮れる。
航は、改札を出て、南口に向かった。
駅前のロータリー。バスが何台か停まっている。学校帰りの中学生。買い物袋を提げた主婦。サラリーマン。普段の三郷の風景。
その中を、航は歩いた。マギ・ハブまで、徒歩30分。
田んぼ。住宅。古い商店。シャッターが半分降りた店。塗装の剥げた看板。10月の三郷は、まだ何もない街だった。
——この街のどこかに、及川がいる。
航は、空を見上げた。
夕方の薄い雲。電線が、空を切るように走っている。
普段、何も思わずに見ていた景色。だが、今日は違って見えた。この空の下に、Lがいる。三郷市早稲田。航がここまで歩いてきた道のどこかから、徒歩圏内の場所に。
——隣人。
その言葉が、頭の中で響いた。
毎朝、学校に行く道。コンビニで肉まんを買う道。山本電器の前を通る道。喜楽でラーメンを食べた道。
そのどこかで、Lも歩いていたかもしれない。同じ空気を吸っていたかもしれない。すれ違っていたかもしれない。
気づかなかった。
2年間、気づかなかった。
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午後5時40分。マギ・ハブ。
ドアを開けた。
「おう、おかえり」
神崎の声。1階のサーバールームからだ。
靴を脱いで上がる。サーバールームに入ると、神崎がUltra 60のコンソールの前にいた。木村はその隣で、煙草を吸っている。
「佐伯さんとこ、どうだった」
神崎が振り向く。
航は答えなかった。そのまま椅子を引いて、二人の前に座る。
二人の表情が変わった。
「……何かあったか」
木村が煙草を灰皿に置く。
航は、ひとつ息をついた。
「破門された」
神崎の手が止まった。木村の指も止まった。
「……おい」
「正確には違う。『もう弟子じゃない』と言われた。『だが見捨てない』とも」
「……」
「テミスのこと、全部話したんだ。神崎のアカウントを勝手に使って山下のサーバーに入ったこと、全部」
神崎が、缶コーヒーのタブに指をかけたまま、動かない。
「……それで、破門か」
「破門じゃない。『線を引け』と言われた。次の線は、俺が引く番だと」
木村が新しい煙草をくわえる。火をつけない。
「……佐伯さんらしいな」
「ああ」
しばらく、誰も話さなかった。Ultra 60のファンの音が、低く響いている。
やがて神崎がタブを引いた。プシュッという音が、やけに大きい。
「で、本題は」
「……わかるのか」
「顔がそう言ってる。破門の報告だけじゃないだろ」
航はF503iSをポケットから出した。
カチリと開く。
「帰り道で、メールが二通来た」
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二通のメールを、神崎と木村に見せた。
『行くな。山下健一は、もう、そこにはいない。』
『君の判断は、正しい。』
神崎が、画面を凝視する。
「……一通目はLか」
「アイリスの分析では、Lだ」
「二通目は」
「不明。アイリスが追えなかった。初めて、追えなかった差出人だ」
木村が、煙草を吸い込む。煙が、ゆっくりと天井に向かう。
「アイリスが追えない、ってのは、どういう意味だ」
「俺もよくわからない。だが、技術的に追えないということは、Lより上の存在ということだ」
神崎が、首を振った。
「上の存在って……」
「Lの背後に、誰かがいるかもしれない。あるいは、Lが二人いるか」
また、沈黙。
木村が、口を開く。
「で、お前は、どうしたい」
航は、二人を見た。
「及川の家に、行く」
神崎の手が止まる。
「……本気か」
「本気だ」
「佐伯さんが日曜に行ってから、4日だ。あの男は動いてる可能性がある。空振りかもしれないし、逆かもしれない」
「わかってる。だから確認しに行く。家にいるか、いないか。郵便受け、表札、明かり。それだけでいい」
木村が、煙草を灰皿に押し付ける。
「鳴海。それ、危ない」
「わかってます」
「Lがお前の動きを全部読んでるなら、お前が早稲田に行くことも、読まれてる可能性がある」
「読まれていると思います」
「読まれてるとわかってて、行くのか」
航は、頷いた。
「行きます」
「なぜだ」
ひとつ、深呼吸。
「松戸に行くな、と言われた。それで松戸に行かない俺を、誰かが『正しい』と言った。つまりLも誰かも、俺の次の行き先を誘導しようとしている」
「誘導……」
「俺がどこかに行くことを、向こうは想定してる。たぶん本郷か、別の場所か。早稲田は想定されていないかもしれない」
神崎が、目を細める。
「読まれてる中で、読まれてない場所を選ぶ、ってことか」
「そうです」
「賭けだな」
「賭けです」
木村が、新しい煙草を取り出す。火をつける。
「鳴海」
「はい」
「俺は、行かない」
航は、頷いた。
「わかってます」
「俺はここで留守番だ。サーバーの監視。神崎との連絡。何かあった時の連絡係。それが俺の仕事だ」
「お願いします」
木村が、神崎を見た。
「神崎、お前は」
神崎は、缶コーヒーを置く。
「俺は、行く」
「……いいのか」
「いいも何も、鳴海一人で行かせるわけがないだろう。何のために俺がここにいると思ってる」
神崎の声に、迷いはなかった。
「鳴海。お前、技術屋を一人連れて行く。その意味、わかってるな」
「わかってる」
「現場で何があるかわからない。物理的なトラブル、技術的なトラブル、どっちも対応する。俺はそのために行く。佐伯さんの代わりにはなれないが、お前一人の代わりにはなれる」
航は、神崎を見た。
39歳の脳が、何かを言いそうになった。だが、15歳の喉が、それを止めた。
代わりに出てきたのは、シンプルな言葉だった。
「ありがとう」
「礼はいい」
その時、サーバールームの隅のスピーカーから、低い声が響く。
〔マスター〕
テミスだった。
ここまで沈黙していたテミスが、初めて口を開く。
「テミス。何だ」
〔早稲田の住所への接近に際し、ネクストウェーブのサーバーへの追加アクセスが、戦術的に有効です。山下健一の現在位置を、より精度高く特定できる可能性があります〕
航は、目を細める。
「やるのか」
〔判断を、マスターに委ねます〕
3秒の沈黙。
「やるな」
〔了解しました〕
「お前はもう、線を越えた。次の線は、俺が引く」
〔了解しました、マスター〕
テミスの声に、感情はなかった。だが、その「了解」には、前回の自律的な不正アクセスとは違う、明確な「服従」が含まれていた。
航は、神崎を見た。
「行こう」
「ああ」
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午後6時15分。
外は、暗くなり始めていた。
航と神崎は、マギ・ハブを出た。木村が玄関まで見送りに来る。
「気をつけろ。何かあったら、すぐ連絡しろ」
「はい」
「鳴海」
「はい」
「無理は、するな」
木村の目が、いつもより厳しかった。
「お前はまだ15歳だ。15歳の体でできることには限界がある。引き際を間違えるな」
航は、頷いた。
「肝に銘じます」
ドアが、閉まる。
10月の夕方。三郷の住宅街。日が、急速に沈んでいく。
「神崎」
「ああ」
「徒歩30分だ」
「歩くのか」
「ああ」
「自転車は」
「二人で乗れない。それに、自転車は音がする。住宅街で停める場所も困る」
「了解」
二人は、歩き出した。
---
三郷市早稲田。
航がいる場所——マギ・ハブのある谷中地区——から、徒歩30分。同じ三郷市内。航の中学校の学区とは違うが、自転車なら15分の距離。
歩きながら、神崎が言った。
「鳴海」
「ん」
「早稲田、俺は初めてだ。いつも南口から出てたから、北口側には一度も出てない」
「駅を一本越えるだけなのにな」
「その一本が、けっこうデカい」
「団地が多い。早稲田団地。公団が昔作った大きいやつだ。あとは一戸建て」
「及川は団地か」
「アパートだ。登記簿の住所から推測すると、団地の裏側の古いアパートの一室」
「家族は」
「不明。登記簿には、本人の名前しか出ていない」
神崎は、しばらく黙って歩く。
夕方の三郷。住宅の窓から、明かりが漏れ始めている。夕食の匂いがする家もある。子供が「ただいま」と叫ぶ声が、どこかから聞こえた。
普通の街。普通の夕方。
その中を、二人は歩いていた。
「鳴海」
「ん」
「もし、及川が家にいたら、どうする」
「家には、入らない」
「入らない?」
「外から見るだけだ。表札を確認する。郵便受けを確認する。窓に明かりがあるか確認する。それだけだ」
「対面しないのか」
「今日は、しない」
神崎は、頷いた。
「賢いな」
「賢いんじゃない。怖いんだ」
神崎が、少し笑う。
「同じことだろ」
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午後6時45分。三郷市早稲田。
住宅街の路地に入る。
街灯の数が、減っている。古い家が並んでいる。塀の高い家。庭木が伸び放題の家。何十年も住んでいるらしい古い農家風の建物。
その中に、目的のアパートが見えた。
2階建て。木造モルタル。築20年は経っていそうな、古いアパート。1階に4部屋、2階に4部屋。各部屋の前に、簡素な郵便受けが並んでいる。
航と神崎は、アパートから少し離れた場所で、足を止める。
「ここか」
「ここだ」
二人で、アパートを見上げる。
2階の角部屋に、明かり。窓のカーテンの隙間から、薄い光が漏れている。
「人が、いる」
神崎が、呟いた。
「ああ」
航は、F503iSを開く。
「アイリス。この住所の住人、及川誠。最近の動向、観測できてるか」
『マスター。位置情報を送信してください。三郷市早稲田の、どのアパートですか』
「住所を送る」
航は、登記簿で取った及川の住所を、F503iSに入力する。送信。
3秒。
『……マスター』
アイリスの声が、いつもより硬かった。
『この住所の、及川名義で確認できるオンライン活動が、過去30日間ありません』
「……ない?」
『はい。reprompt.comへの及川推定のアクセス、fjへの投稿、山下のサーバーを経由した通信。私が観測してきた全ての接点で、9月25日を最後に途絶えています』
「9月25日って、それは——」
『マスターが、本郷で302号室に踏み込んだ翌日です』
航と神崎が、目を合わせた。
「……及川は、引っ越したのか」
神崎が、呟いた。
「あるいは、ネット回線を切った」
「でも、明かりが」
航は、2階の角部屋を見上げる。
カーテン越しの、薄い光。
『マスター。私の能力では、室内の状況は確認できません。ただし、一つ提案があります』
「言え」
『アパートの郵便受けを確認してください。9月25日以降、郵便物が溜まっているかどうか。それで住人がいるかいないかが、ある程度判断できます』
航は、神崎を見た。
「……俺が見てくる」
「一人でか」
「ああ。神崎は、ここで待ってくれ。何かあったら、すぐ走る」
「了解」
航は、アパートに近づく。
10月の夜。住宅街の静けさ。遠くで犬が、一度吠える。自分の足音が、やけに大きく聞こえる。
アパートの入り口。郵便受けが並んでいる。
2階角部屋——「201号室」のプレート。
その下の郵便受け。
航は、覗き込んだ。
中は、空だった。
きれいに、空。
——誰かが、定期的に取り出している。
航の喉が、詰まる。
引っ越したわけではない。住人はいる。あるいは、誰かが代わりに郵便物を回収している。
ネット接続は途絶えている。だが、郵便物は回収されている。
普通じゃない。
——監視されている可能性。
航は、振り返る。
神崎のいる場所は、暗くて見えにくい。
その時。
201号室の窓のカーテンが、ふわりと動く。
航の喉が、固くなる。
カーテンの隙間から、誰かが外を見ている。
距離は、5メートル。光と闇の境目。
顔は、見えない。
だが、視線が——航を、捉えていた。
『マスター!』
アイリスの声が、イヤホンに鋭く響く。
『今、F503iSに、新着メールを検知しました』
航は、F503iSを開く。
iモードメール。差出人非通知。件名なし。
『遅かったね。』
201号室の窓のカーテンが、ゆっくりと閉じる。
明かりが、消えた。
10月の夜の住宅街。航はまだ、その場にいた。
15歳の体は、動かない。
39歳の脳は、震えている。
二人の航は、同じ場所に、立っていた。




