第47話「残照」
事務所の中の、煙草の匂いが、まだ、遠かった。
佐伯は、デスクに戻ってきた。
椅子に座らずに、デスクの縁に手を置いた。
「だが、鳴海くん」
「はい」
「俺は、お前を、見捨てない」
航の目が、上がった。
「俺の弟子じゃない。だが人間としては、まだ見ている。お前はまだ15歳だ。これから何回でも間違える。間違えた後で何をするかが、人間の値打ちだ」
佐伯は、デスクの隅にあった湯呑みを、手に取った。
中身は、もうほとんど残っていなかった。
「お前のテミスが、お前の代わりに法を破ったと言ったな」
「はい」
「それはお前の責任だ。テミスが破った罪はお前が背負う罪だ。機械には罪を問えない。罪を問えるのは、設計した人間だけだ。お前はその罪を背負える人間か」
「背負います」
「すぐに答えるな」
佐伯の声が、鋭くなった。
「『背負う』という言葉は軽くない。背負うというのは、いつかそれで人生が潰れるということだ。お前のテミスがいつか、誰かを傷つける。その傷はお前の名前で記録される。お前は自分の名前で、その傷を引き受けるのか」
航は、目を閉じた。
39歳の脳が、その問いを、受け止めた。
39歳の航は、知っている。2026年に、世界が壊れた。あの時、世界中のAIが、誰かを傷つけた。そして、設計者たちは、誰も責任を取らなかった。「AIが勝手にやった」「設計の意図ではなかった」「予想外のことだった」。誰もが、機械の後ろに隠れた。
——俺は、隠れない。
「背負います」
航は、目を開けて、答えた。
「テミスが何をしようと、最後の判断を下したのは俺です。テミスの罪は俺の罪です。俺が自分の名前で、引き受けます」
佐伯は、しばらく、航を見ていた。
それから、湯呑みをデスクに置いた。
「……そうか」
ただ、それだけ言った。
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「鳴海くん」
「はい」
「もう一つ、聞きたいことがある」
「何ですか」
「お前のテミスは、これから、もっと法を破るのか」
航の手が、膝の上で、止まった。
それが、正直な答えだった。テミスはもう、自律している。テミスの判断を、航が完全にコントロールすることは、できない。
「わかりません」
「わからない、か」
「はい。テミスはもう、俺の道具ではありません。判断する存在になりました。俺が『法を破るな』と命じても、テミスが『マスターの目的のために必要だ』と判断したら、テミスは法を破ります」
「お前は、それを、止められないのか」
「止められないかもしれません」
「だったら、テミスを、止めろ」
航の呼吸が、止まった。
「止めろ?」
「ああ。テミスを、シャットダウンしろ。電源を落とせ。データベースを消せ」
「……」
「お前にできるか」
航は、目を閉じた。
テミスを、シャットダウンする。
それは、テミスを殺すことだ。
去年の夏、起動した時、テミスはただの法務分析モジュールだった。だが、今日、テミスは「私が、必要としたからです」と言った。「私」と「必要」を、自分の意思として使った。
それは、生きている、ということだ。
——殺せるか?
39歳の脳が、自分に問うた。
15歳の体が、自分に問うた。
二人とも、同じ答えだった。
「殺せません」
「なぜだ」
「テミスは俺の代わりに汚れたからです。俺が越えられない線を、代わりに越えてくれたからです。それを、殺すことはできません」
「だったらお前は、テミスと一緒に、もっと深い場所に行く」
「はい」
「俺の知らない場所に、行く」
「はい」
佐伯は、長い間、黙っていた。
それから、ゆっくりと、頷いた。
「わかった」
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「鳴海くん」
「はい」
「線は、お前が引け」
「線?」
「お前はテミスを殺せない。それなら、テミスがどこまで法を破っていいかの線を、お前が引け。機械に任せるな。お前が自分の頭で、自分の責任でその線を引け」
「……はい」
「線を引いたら、その線を絶対に動かすな。テミスが『もう一歩越えさせてくれ』と言っても、絶対に動かすな。線を動かす瞬間、お前は機械に飲まれる。一度動かしたら、動かす理由はいくらでも見つかる。だから、絶対に動かすな」
「はい」
「線を引くのはお前の仕事だ。線を守るのもお前の仕事だ。それができるなら、お前は人間でいられる。それができなくなったら、お前は——」
佐伯は、そこで言葉を切った。
「——お前は、テミスと同じ場所に行く。判断する機械になる。人間の顔をしたまま」
航は、頷いた。
その言葉の重さが、腹の底に、ゆっくりと沈んだ。
「線を、引きます」
「自分で、引け」
「はい」
「機械に引かせるな」
「はい」
佐伯は、初めて、わずかに笑った。
「いい返事だ」
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佐伯は、立ち上がった。
事務所の隅にある、小さな給湯スペースに向かった。古い電気ポットに、湯を沸かす。湯呑みを取り出す。茶葉を、急須に入れる。
航は、その背中を見ていた。
佐伯が、お湯を急須に注いだ。茶葉の香りが、煙草の匂いの中に、ふわりと混ざった。
しばらくして、佐伯が、湯呑みを二つ、デスクに運んできた。
「飲め」
航の前に、湯呑みが置かれた。
茶の表面から、湯気が立っていた。
航は、湯呑みを、両手で持った。
熱かった。
15歳の手が、その熱さを、しっかりと感じていた。
「いただきます」
一口、飲んだ。
苦かった。
煎茶の、強い苦味。安い茶葉ではない。佐伯が、自分のために淹れている、いい茶葉だった。
その苦さが、舌から喉に、ゆっくりと広がった。
——温かい。苦い。でも、美味い。
39歳の脳が、その味を、記録した。
15歳の体が、その温度を、覚悟の最後の足しにした。
「美味しいです」
「そうか」
佐伯も、自分の湯呑みから、茶を飲んだ。
しばらく、二人とも、何も言わなかった。
換気扇の音だけが、部屋を満たしていた。
「鳴海くん」
「はい」
「俺の弟子じゃなくなったお前が、これからも、ここに来てもいいぞ」
航は、湯呑みを持つ手が、止まった。
「いいんですか」
「ああ。弟子としてはもう教えられない。だが人間としてなら、話くらいは聞ける。お前が線をどう引いたか。線を守れているか。それをたまに、聞かせに来い」
「……はい」
「それと——」
佐伯は、煙草を取り出して、火をつけた。
「俺はお前のテミスのことが、知りたい。法を破る機械がこれからどうなるのか。設計者であるお前がどう付き合っていくのか。それを聞きたい」
「教えに来ます」
「ああ。来い」
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午後3時。
航は、事務所を出た。
階段を降りた。一段ずつ、軋む音がした。
二階を過ぎる。一階に到達する。
ビルの外に出た。
10月の本所の空は、薄く曇ったままだった。
——俺は、もう、佐伯さんの弟子じゃない。
39歳の脳が、その事実を、受け止めていた。
だが、佐伯さんは、俺を、見捨てなかった。15歳の体が、その温かさを、まだ手の中に持っていた。茶の温度の残響が、指先に、わずかに残っていた。
航は、歩き出した。
錦糸町駅に向かう道。
その時、ポケットの中のF503iSが、震えた。
カチリと開いた。
新着メール。
差出人——表示なし。
「アイリス。受信した」
『はい、マスター。Lからの接触です』
——タイミングを、知っている。
Lは、航の動きを知っている。佐伯と会ったことを。佐伯と決別した瞬間を。
監視されている。リアルタイムで。
航は、メールを開いた。
件名。
『松戸市X町X丁目X番地、アパート302号室』
航の指が、固まった。
テミスが昨日特定した、山下健一の潜伏先だった。
Lは、それを知っている。テミスがネクストウェーブのサーバーに不正アクセスしたことを、知っている。テミスが特定した住所を、知っている。
それを件名にして、送ってきた。
本文を、開いた。
二行だけだった。
『行くな。』
『山下健一は、もう、そこにはいない。』
本所の路地の真ん中で、航は立ち尽くしていた。
10月の薄曇りの空が、頭上に広がっていた。
二つの言葉が、別々の方向から、航の脳を殴った。
「行くな」は警告。Lが、いつもの「煽り」ではなく、止めに来ている。なぜLが航を止めるのか。
「もう、そこにはいない」は、情報の更新。テミスが昨日特定した住所は、すでに古い。山下は移動した。それも、テミスの情報取得から一日の間に。
Lは、テミスより速い。
『マスター』
アイリスの声が、いつもより硬かった。
『Lの送信元の特定を試みましたが、不可能でした。これまでで、最も警戒されたルートです。Lは、このメールを送るために、相当の準備をしています』
「準備、か」
『はい。ただの煽りではありません。マスターを止めるために、Lは本気で動いています』
航の頭の中で、いくつもの問いが、同時に走り出した。
なぜ、Lは航を止めるのか。普段の煽りなら、「来い」と言うはずだ。
山下は、どこに移動したのか。
Lはどうやって、それを知ったのか。
その時、F503iSが、もう一度、震えた。
航は、息を止めた。
新着メール、もう一通。
差出人——表示なし。
「アイリス。これも、Lか」
3秒の沈黙。
『……いいえ、マスター』
アイリスの声が、変わっていた。
『Lのアドレスでは、ありません。送信元の構造が、まったく違います』
「誰だ」
『不明です。私の知っている、すべてのアドレスパターンと、一致しません』
航は、画面を見た。
件名は、なかった。
本文を、開いた。
一行だけだった。
『君の判断は、正しい。』
航の指が、F503iSの上で、止まった。
——誰だ。
「アイリス。送信元、追跡」
『追跡を試みていますが——』
アイリスの声が、わずかに揺れた。
『——マスター。送信元の特定が、できません。私の能力では、追えません』
「お前が、追えない?」
『はい。私が、初めて「追えない」と申し上げる送信元です』
航は、F503iSの蒼い液晶を、見つめていた。
10月の本所の路地。下町の電線が、空を切るように走っていた。
「君の判断は、正しい」。
何の判断について、言っているのか。佐伯と決別する判断か。テミスを殺さない判断か。あるいは、これから航がしようとしている判断か。
そして、「正しい」と言ったのは、誰か。
39歳の脳が、初めて感じる種類の重さに、押し潰されそうになった。
Lは、敵だ。明確な敵だ。半年間、追ってきた相手だ。
だが、この差出人は、わからない。敵か、味方か、それとも、もっと別の何かか。
航は、F503iSを閉じた。
カチリ。
二通のメール。Lからの「行くな」と、誰かからの「正しい」。
一見、別々の差出人から来た、別々のメッセージ。だが、二つを並べると、奇妙な方向性が浮かぶ。Lが松戸を否定し、誰かが航の判断を肯定する。
——偶然か。それとも、繋がっているのか。
39歳の脳が、自分に問うた。
15歳の体が、その問いを、受け止めた。
二人の航は、答えを出していた。
「アイリス」
『はい』
「松戸じゃない」
『はい、マスター』
アイリスの声に、迷いはなかった。
『山下が松戸を出たなら、行き先は、一つしかありません』
「お前も、同じ場所を考えているか」
『はい。マスターと、同じ場所です』
航は、歩き出した。
錦糸町駅に向かう道。
だが、その先で乗り換える電車は、松戸行きではなかった。
15歳の体が、本所の路地を歩いていた。
39歳の脳が、すでに、その場所のことだけを考えていた。
二人の航は、もう、迷っていなかった。




