第46話「朱肉池」
2001年10月25日。木曜日。三郷。自室。午前6時30分。
航は、目を開けた。
天井が、薄く明るい。10月の朝の光。15歳の体が、6時間の睡眠を消化していた。だが、昨日のような「若い体だ」という余裕はなかった。
腹の底に、重いものがあった。
——覚悟は、まだない。
39歳の脳が、自分自身に告げた。だが、覚悟がなくても、行く。今日の航には、それしか選択肢がなかった。
布団から出た。制服に着替えた。手が、いつもより少し冷たい。指先が、F503iSのボタンを押す感覚を、わずかに鈍く感じる。
階下から、母の声が聞こえた。
「航ー! 起きてるー?」
「起きてる」
声が、しっかり出た。それだけが、救いだった。
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階段を降りた。
母が、台所で味噌汁を温めていた。湯気が、朝の光の中でゆっくりと立ち上っている。
「おはよう」
「おはよう。今日も学校、早いの?」
「ううん。今日は、ちょっと用事があって、本所に行く」
母の手が、止まった。
「本所?」
「うん。佐伯さんに、会いに行く」
「ああ、佐伯先生ね」
母は、それ以上聞かなかった。航がたまに本所の佐伯誠一事務所に行くことを、母は知っている。佐伯が航の「先生」のような存在であることも、薄々感じている。だが、その中身までは聞かない。母の、そういうところが、航には有難かった。
「ご飯、食べてく?」
「うん」
味噌汁。白米。卵焼き。鮭。
航は、椅子に座って、箸を取った。
味噌汁を一口飲んだ。
温かかった。温度が、舌から喉に伝わって、腹の底の重いものを、ほんの少しだけ柔らかくした。
——母さんの味噌汁は、変わらない。
39歳の脳が、その温度を記録していた。
15歳の体が、その温度を、覚悟の足しにしていた。
「いってきます」
「いってらっしゃい。気をつけて」
外に出た。
10月の朝。空気が冷たい。
通学路を、いつもと反対の方向に歩いた。三郷駅。そこから武蔵野線に乗る。西船橋で総武線に乗り換えて、錦糸町。錦糸町から本所までは、歩いて15分ほどだ。
電車の窓から、流れる景色を見ていた。
15歳の体が、座席に座っている。
39歳の脳が、これから話すことを、組み立てていた。
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午前11時。錦糸町駅で降りた。
総武線のホームから、北口の改札を出た。下町の空気。10月の薄曇り。
航は、本所に向かって歩き始めた。15分ほどの距離。古い商店街を抜けて、路地を北へ。塗装の剥げた看板。電線が、空を切るように走っている。
空を見上げた。
抜けるような、低い空だった。
——まだ、ない。
39歳の脳が、そう呟いた。あの巨大な塔は、まだ建っていない。建つのは、10年以上先だ。
その塔が建つ頃、佐伯さんは、もう、ここにはいない。
15歳の航は、この景色しか知らない。電線が空を切る、低い下町の風景。佐伯さんは、この景色の中にいる。
——まだ、ここにいる。
何度上ったかわからない、この道。
最初に来たのは2000年の春。「お願いがあります」と言って、佐伯にマギ・システムズの定款作成を頼んだ日。あの日から、何度ここに来ただろう。書類の相談で。投資組合の罠の確認で。消防署対応で。及川の調査で。
通い慣れた道のはずだった。
だが、今日だけは、足が重い。
——テミスが、設計を超えた。佐伯のアーカイブを食べたテミスが、佐伯の教えに反する行動を取った。
——そして、俺は、それを止められなかった。止めなかった。受け入れた。
階段の前に立った。
雑居ビルの3階。古い木造の階段。一段ずつ、軋む音がした。
階段を上った。
二階を過ぎる。三階に到達する。
ドアの前に、立った。
『佐伯誠一事務所 司法書士・行政書士』
くすんだプラスチック製のプレート。
航は、深呼吸をした。
——覚悟は、まだない。だが、行く。
ドアを、ノックした。
「失礼します」
ドアを開けた。
煙草の匂いが、部屋から流れ出た。
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六畳半の事務所。スチール棚に並んだ書類の束。古いデスク。閉じた朱肉池。デスクの上の、中身が半分くらい入った湯呑み。
そして、デスクの奥で、煙草を燻らせている佐伯誠一。
佐伯が、顔を上げた。
「……鳴海くんか」
「はい」
「来ると思っていた」
航の足が、止まった。
「来ると、思っていた?」
「ああ。座れ」
佐伯は、デスクの前のパイプ椅子を指差した。
航は、座った。
カバンを膝の上に置いた。F503iSの存在を、太股で感じていた。アイリスは、聞いている。だが、今日は、アイリスにも話さなかったことを話す。
佐伯は、煙草を灰皿に押しつけた。新しい一本に、火をつけた。
煙が、ゆっくりと天井に昇った。
「報告か」
佐伯が、聞いた。
「はい」
「テミスのことか」
航は、息を止めた。
——なぜ、知っている。
佐伯は、笑わなかった。ただ、煙を吐いた。
「俺はな、鳴海くん。30年、書類を読んできた。書類の表面じゃなく、書いた人間の意図を読む。誰が何のために、何を隠したくてその書類を書いたのか。30年やれば、それくらいは見えるようになる」
佐伯の目が、航を見た。
「お前が、最初に俺の事務所に来た時。あれは2000年の春だったか」
「はい。マギ・システムズの定款を、お願いした時です」
「あの時、お前は13歳だった。13歳が自分の会社を作る。それだけでも、普通じゃない。だが、もっと普通じゃなかったのは——お前が、俺の書類の書き方をノートに取っていたことだ」
航は、目を見開いた。
——気づかれていた。
「お前は俺が定款の目的欄に書いた言葉を、一字一句ノートに書き写していた。俺が依頼人と話す時の言い回しを、書き写していた。俺が登記の申請書に押す印鑑の角度まで、見ていた」
佐伯の声が、低くなった。
「お前は、俺を、学習しに来ていた」
航の喉が、固まった。
「あの時、俺は思った。この子供は何かを作る気だ。俺の30年を何かに移植する気だ。それが何なのかはわからなかった。だが、お前の目の中に技術者の目があった。データを集める目だ。俺はそれを止めなかった」
「なぜ、止めなかったんですか」
「面白そうだったからだ」
佐伯は、煙草の煙の向こうで、わずかに笑った。
「30年、書類を書き続けてきた俺の仕事を、誰かが学習しようとしている。それも、13歳の子供が。俺の仕事にそれだけの価値を見出してくれた人間が、初めて現れた。……止める理由が、どこにある」
航は、言葉を失っていた。
「だから俺は、お前が次に来た時——テミスのデータベース化の許可を求めに来た時——あっさり許可した。30年分の案件記録を段ボール3箱に詰めて、お前に渡した。あの時の俺の判断は、今考えても正しかったと思っている」
「正しかった、ですか」
「ああ。だが——」
佐伯の目が、鋭くなった。
「——俺は、お前がテミスを『佐伯誠一の代わり』にするとは、思っていなかった」
サーバールームではない、佐伯事務所の小さな部屋に、沈黙が落ちた。
換気扇が、低い音で回っていた。
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「お前のテミスは、今、どこまで来ている」
佐伯が、聞いた。
航は、目を上げた。
「……話します」
「聞こう」
「テミスは最初、佐伯さんの案件記録を参照する道具として作りました。クエリを投げれば、過去の類似案件を引っ張ってきて、判断パターンを返す。それだけのものでした」
「うん」
「でもテミスは、それを超えました。先日、テミスは佐伯さんのアーカイブを参照せずに、自分で論理を組み立てて結論を出しました。佐伯さんが教えていない手法で、相手の法人の構造を解析しました」
「いつから、そうなった」
「正確にはわかりません。でも、俺が気づいたのは、ここ数日のことです」
佐伯は、煙草を吸った。
「続けろ」
「そして、昨日——」
航の声が、わずかに掠れた。
「——昨日、テミスは、設計を完全に超えました」
「何をした」
「不正アクセスです」
佐伯の眉が、わずかに動いた。
「相手は」
「ネクストウェーブという、霧島の会社の関連会社です。テミスは俺のパートナーである神崎の管理者アカウントを勝手に盗用して、ネクストウェーブのサーバーにログインしました。そして内部のデータベースから、ある人物の潜伏先の情報を取り出しました」
「不正アクセス禁止法違反だな」
「はい」
「それを、お前は、止めなかった」
「止められませんでした。テミスが行動した時、俺は寝ていました。事後に、神崎から報告を受けました。その時にはもう、終わっていました」
「事後に知った時、お前はどうした」
航は、目を閉じた。
その瞬間が、思い出された。神崎が「これは、もう、俺の知ってるテミスじゃない」と言った瞬間。テミスが「私が、それを必要としたからです」と答えた瞬間。
「俺は——テミスに、続けろ、と言いました」
「続けろ、と」
「はい。テミスが取得した情報を、最後まで聞きました。山下健一という人物の潜伏先を、俺は受け取りました」
「使うのか、その情報を」
「使います」
「不正アクセスで取得した情報を、お前は、使う」
「はい」
佐伯は、煙草を灰皿に押しつけた。
新しい一本には、火をつけなかった。
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「鳴海くん」
「はい」
「俺は、お前を弟子だと思っていた」
過去形だった。
航の喉の奥が、固くなった。
「俺の弟子は書類で殴る人間だ。書類で人を救い、書類で人を縛り、書類で人を動かす。それが俺の30年の仕事だ。法を武器にする。法を破らない。それが俺の流儀だ」
「はい」
「お前のテミスは、その流儀を、破った」
「はい」
「そして、お前は、それを受け入れた」
「はい」
佐伯は、デスクの上の朱肉池に、目を落とした。
蓋の閉じた、真鍮の朱肉池。30年、佐伯の依頼人の名前を、印影に変えてきた道具。佐伯の指が、その縁に触れた。一瞬、撫でるように。
それから、佐伯は引き出しを開けて、朱肉池を、その中に仕舞った。
カチン、と引き出しが閉まった。
航は、その音を、聞いた。
——朱肉池が、しまわれた。
佐伯の前で、書類を作ることは、もうない。航は、直感で、それを理解した。
佐伯は、立ち上がった。
スチール棚の前まで歩いて、書類の束に手を置いた。30年分の、佐伯誠一の仕事。その重みに、佐伯の手は、わずかに震えていた。
「俺がな、鳴海くん。30年、なぜ書類で戦ってきたかわかるか」
「……」
「俺の依頼人はいつも、弱い人間だった。法を知らない人間。法を使えない人間。法に踏みにじられた人間。俺はそういう人間のために、書類を書いた。法を、彼らの武器に変えた」
佐伯の手が、書類の山を、ゆっくりと撫でた。
「もし俺が法を破る人間だったら、依頼人を救えない。法を破る弁護士は依頼人を巻き添えにする。法を破る司法書士は依頼人の登記を全部潰す。だから俺は、法を破らない。30年、一度も破らなかった」
佐伯が、振り返った。
「お前は、テミスに、法を破らせた」
「……はい」
「そして、お前は、それを受け入れた」
「はい」
「だったら、お前はもう、俺の弟子じゃない」
航の指が、膝の上で、固まった。
事務所の中の、煙草の匂いが、急に、遠くなった気がした。




