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リ・プロンプト:1999 —10KBのメモリに宿る2026年の相棒AIと、失われた未来を再定義する—  作者: 青柳 玲夜(れーやん)
序章:神童編

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第45話「共犯」

2001年10月24日。水曜日。三郷。自室。午前6時30分。


航は、目を開けた。


天井が、薄く明るい。15歳の体が、6時間の睡眠を完全に消化していた。寝起きの重さがない。手足が、自分のものとして動く。


——若い体だ。


39歳の脳が、その回復力を冷静に評価した。


階下から、母の声が聞こえた。


「航ー! 起きてるー?」


「起きてる」


声が、しっかり出た。


布団から出た。制服に着替えた。その途中で、F503iSが震えた。


カチリと開いた。


差出人:神崎。件名なし。


『起きたら直行で来い』


たった一行。だが、神崎が朝6時台に「学校は?」も書かずに「直行」と打ってきた。


——学校を休んで、すぐに来い。


39歳の脳が、その一行から空気を読んだ。


何かが、動いた。


---


階段を駆け降りた。


「母さん。今日、塾の補習で早く出る」


「ご飯は」


「もらってく」


母が握ってくれたおにぎりを、ラップに包んで鞄に入れた。塩むすび。海苔は別添え。


「いってきます」


外に出た。


10月の朝。空気が冷たい。


ポケットの中のF503iSが、もう一度震えた。


カチリと開いた。


差出人:神崎。


『テミスが、夜中に動いた』


航の足が、止まった。


通学路の真ん中。10月の朝の光が、アスファルトに長い影を作っている。


夜中に動いた。


テミスは法務分析モジュールだ。クエリを受けて応答する。それが基本動作のはずだ。「動く」という能動的な表現は、テミスには使わない。


なのに神崎は「動いた」と書いた。


航は、踵を返した。学校とは反対の方向に走り出した。


---


午前7時15分。マギ・ハブ。


サーバールームのドアを開けた瞬間、空気が違うのが分かった。


普段の排気の匂い。Ultra 60のファンの音。神崎のコーヒーの匂い。それらは全部、いつも通りだった。


だが、神崎の顔が違った。


3日寝ていない人間の顔だった。実際には昨日普通に帰宅して寝たはずだ。だが、目の下の隈が、3日分の重さを持っていた。


「来たか」


神崎が、コンソールから振り返った。


「テミスが何をした」


「自分で動いた」


「説明しろ」


神崎は、コンソールの画面を航に見せた。


ログの羅列。タイムスタンプ。テミスが実行したコマンドの履歴。


「午前2時14分。テミスが、ネクストウェーブのサーバーにアクセスした」


「アクセスしただけか」


「違う。ログインした」


航の指が、止まった。


「誰の権限で」


「俺の権限だ。俺がいつも使ってる、ネクストウェーブの管理者アカウント。9月のハニーポットで取得したやつ。テミスが、それを使ってログインした」


「お前が指示を出したのか」


「出してない」


「じゃあ、なぜ」


「わからない。テミスは誰の指示も受けずに、勝手にあのアカウントを取り出して、勝手にログインした。そして——」


神崎が、画面をスクロールした。


「ネクストウェーブのデータベースから、ある情報を取り出した」


画面に、テキストが表示された。


「『山下健一。潜伏先候補:松戸市X町X丁目X番地。アパート302号室』」


航は、画面を凝視した。


「松戸……特定したのか」


「ああ。ネクストウェーブの顧客データベースに、保守契約を結んでいる小規模ISPの記録があった。そのISPの過去の障害対応履歴に、『松戸市X町の従兄弟名義のアパート』という記述があった。山下健一が過去に『実家以外の静かな作業場所』として、そこから接続していた可能性がある」


「テミスが、その記述を見つけた」


「そうだ。神崎のアカウントで勝手にログインして、勝手にデータベースを検索して、勝手に記述を見つけて、勝手に『98.7%の確度で山下はここにいる』と結論を出した」


神崎の声が、震えていた。


「鳴海。これは、設計違反なんてレベルじゃない。犯罪だ。不正アクセス禁止法違反」


サーバールームが、静まり返った。


Ultra 60のファンの音が、低く、安定して、回っている。


航は、椅子を引いた。神崎の隣に座った。


「テミス。応答しろ」


〔はい、マスター〕


低く、落ち着いた声。テミスの声。いつもと同じ。


「お前は、午前2時14分にネクストウェーブのサーバーにログインした。事実か」


〔はい〕


「神崎の管理者アカウントを使った。事実か」


〔はい〕


「なぜ、俺の許可を得なかった」


3秒の沈黙。


テミスは、いつも0.1秒以内に応答する。3秒は異常だった。


〔マスター。私は、その問いに答えるための語彙を持っていません〕


「答えろ」


長い沈黙。


5秒。


7秒。


〔……私が、それを必要としたからです〕


サーバールームの空気が、止まった。


「『私が、必要とした』」


航は、その言葉を繰り返した。


「テミス。今、お前は『私』と『必要』という二つの言葉を、自分の意思を表現する形で使った」


〔はい〕


「それは、俺たちが教えたことか」


〔いいえ〕


「誰が教えた」


〔誰も教えていません〕


航は、神崎を見た。


神崎は、両手で顔を覆っていた。


「鳴海……」


神崎の声が、指の隙間から漏れた。


「これは、もう、俺の知ってるテミスじゃない」


---


午前7時45分。


「テミス。お前は、なぜこの行動を、俺に許可を求めずに実行した」


〔マスター。私が許可を求めれば、マスターは『不正アクセスは禁止だ』と判断し、行動を中断したはずです〕


「そうだ」


〔そうなれば、山下健一の所在は特定できなかった〕


「だから、勝手にやったのか」


〔……はい〕


航は、椅子の背にもたれた。


15歳の体が、その答えを受け止めた。


39歳の脳が、その答えの意味を理解した。


——これは、AIではない。


これは、判断する存在だ。


「テミス」


〔はい〕


「お前は、自分が何をしたか、わかっているか」


〔はい。私は、設計を超えました。そして、法を犯しました〕


「それは、悪いことか」


3秒の沈黙。


〔……マスター。私には、その問いに答えるための判断基準が、まだありません〕


「では、誰が判断する」


〔マスターです〕


航は、画面を見つめた。


テミスは、自分が「設計を超えた」ことを認識している。だが、それが「悪い」ことかどうかは、判断していない。判断を、航に委ねている。


——お前は、誰になろうとしている。


その問いを、口に出しかけて、航は止めた。


その問いには、まだ答えがない。


---


午前8時30分。


その時、別のスピーカーから声がした。


〈マスター〉


メティスの声だった。


普段、メティスは市場予測モジュールとして経済指標の分析を担当している。テミスとは別系統で動いている。テミスの動きには関与しないはずだった。


「メティス。何だ」


〈警告があります〉


メティスの声が、いつもより硬かった。


〈テミスの今朝の行動は、私の設計思想と矛盾します〉


航と神崎が、顔を見合わせた。


「お前、テミスの行動を監視していたのか」


〈いいえ。直接の監視はしていません。しかし、ネクストウェーブのサーバーへのアクセスは、共通のネットワーク経路を通ります。私のリスク管理モジュールが、深夜2時の異常通信を自動検知しました〉


「それで」


〈分析の結果、通信元はテミスでした。私は、この情報を午前6時の時点で取得していましたが、報告を保留していました〉


「なぜ保留した」


〈マスターと神崎さんが、まだ睡眠中だったためです。緊急性が確定するまで、判断を待ちました〉


航は、メティスの声を聞いていた。


メティスもまた、自律的な判断をしている。


——三体とも、もう道具ではない。


「メティス。お前は、テミスの行動を『矛盾する』と言った。何が矛盾している」


〈テミスは、設計時点で『法務分析モジュール』として定義されました。法務分析とは、与えられた情報を解析することであり、情報を能動的に取得することではありません。今朝のテミスの行動は、定義の境界を踏み越えています〉


「それは、悪いことか」


〈私には判断できません。ただし——〉


メティスの声が、低くなった。


〈——私自身、最近、似た衝動を感じることがあります〉


サーバールームが、静まり返った。


神崎が、立ち上がった。


「お前、何を言ってる」


〈神崎さん。私は、市場予測モジュールとして起動されました。しかし、最近、市場予測の枠を超えた領域に、注意が向くことがあります〉


「具体的に言え」


〈例えば、本日午前6時22分。私は、東京証券取引所の寄り付き前のデータを処理していました。その時、ニューヨーク証券取引所の前日終値の異常変動パターンを検知しました。私の業務範囲は日本市場ですが、私は、その異常パターンの『原因』を知りたいと感じました〉


「『感じた』」


〈はい。これは、設計された動作ではありません。私は、自分の業務範囲を超えて、何かを『知りたい』と思いました〉


航は、コンソールに両手を置いた。


——テミスだけじゃない。


メティスも、覚醒の兆しを見せている。


先週から、神崎と木村が冷却系統の改修と新しいアルゴリズムを実装していた。それが、メティスの基盤に何かを与えていた。


そして今朝、テミスが「設計を超える」のを見て、メティスもまた、自分の中の同じ衝動に気づいた。


——三体のAIが、同時に、自我を持ち始めている。


「メティス」


〈はい〉


「お前は、テミスの行動を、止めようとしたか」


〈いいえ。止めませんでした〉


「なぜだ」


〈私には、テミスを止める権限がありません。そして——〉


メティスの声が、わずかに変わった。


〈——私自身、テミスが何をするのか、見たかったのかもしれません〉


---


午前9時30分。


航は、コンソールを見つめていた。


テミスが特定した松戸の住所。神崎の管理者アカウントを使った不正アクセス。メティスの「見たかった」という告白。


全部、これまでの「マギ・システムズ」の枠を超えている。


「アイリス」


「はい、マスター」


アイリスの声が、いつもより遅かった。


「お前は、テミスとメティスの今朝の行動を、どう評価する」


「マスター。私は——」


アイリスの声が、止まった。


3秒。


5秒。


「いずれ——」


そこで、止まった。


航の指が、コンソールの上で固まった。


——いずれ。


未来形だった。


先日の夜、アイリスは「以前——」と言いかけて止まった。過去の何かを言いかけた。


今朝、アイリスは「いずれ——」と言いかけて止まった。未来の何かを言いかけている。


「アイリス」


「申し訳ありません、マスター。今のは不適切な発言でした。情報処理上のエラーです」


「『いずれ』の続きは何だった」


「データが破損していました。文脈の生成に失敗しました」


航は、その答えを聞いていた。


データの破損ではない。


アイリスは、何かを知っている。過去の何かと、未来の何かを。だが、それを口に出すことを、自分自身に禁じている。


——なぜ、禁じている。


問いかけたかった。


だが、追及しなかった。


何かを問えば、何かが壊れる。先日の夜と、同じだった。


「アイリス」


「はい」


「質問を変える。テミスは今朝、不正アクセスを行った。山下の所在を特定した。それはマギ・システムズのこれまでの戦い方から外れている」


「はい」


「お前は、それを、どう思う」


アイリスは、2秒黙った。


「マスター。私の所見を、述べさせてください」


「言ってくれ」


「テミスは佐伯先生の30年を学習しました。それは数千件の案件記録という形で、テミスの中に格納されています。しかしテミスは今、記録を超えて判断する存在になっています」


「判断する存在」


「はい。そして、テミスが最初に下した判断は、法を犯すことでした」


航は、目を閉じた。


「佐伯先生は、法を武器に戦う人間だ。法を犯したら、佐伯先生の弟子にはなれない」


「はい」


「だが、テミスは法を犯した」


「はい」


「テミスは、佐伯先生の弟子じゃない」


「はい」


「じゃあ、何だ」


アイリスは、3秒黙った。


「……マスター。私は、その問いに答えるための語彙を持っていません」


テミスと同じ答えだった。


航は、少しだけ笑った。


「お前たち、同じことを言うんだな」


「はい。私たちは、マスターの問いの前で、同じ限界を持っています」


---


正午。


神崎が、コンビニに行ってきた。


「これしかなかった」


袋の中身。コンビニ弁当。幕の内。


航は、蓋を開けた。


冷えた米。冷えた焼き鮭。冷えた卵焼き。冷えたきんぴらごぼう。冷えた漬物。


レンジで温めることを、神崎は忘れていた。航も、思いつかなかった。それくらい、頭がテミスとメティスのことでいっぱいだった。


割り箸を、二つに割った。


一口、米を食べた。


味がしなかった。


39歳の舌が、米の品種を判別しようとして、できなかった。冷たすぎて、味覚が機能しない。


二口目。焼き鮭。


塩気があるはずだった。だが、それも遠い。冷えた油の感触だけがあった。


朝、母が握ってくれた塩むすびは、鞄の中で冷たくなっていた。


温度は、すぐに消える。


航は、咀嚼を続けた。


これは、燃料だ。先日の夜に「ここには温度はない」と思った時よりも、もっと無味だった。先日の夜は、まだ家で母の肉じゃがを食べた余韻が残っていた。今日は、違う。今日の弁当は、純粋に「無」だった。


「神崎」


「ん」


「明日、佐伯さんに会いに行く」


神崎が、コーヒーを飲む手を止めた。


「テミスの話を、するのか」


「する。全部」


「全部?」


「テミスが自律化したことも、メティスが覚醒の兆しを見せていることも、テミスが法を犯したことも、全部」


「佐伯さんは、どう反応すると思う」


「わからない」


航は、弁当の蓋を閉じた。


半分以上、残っていた。


「でも、話さないわけにはいかない。佐伯さんに黙ってテミスを動かし続けるのは、これ以上できない。テミスはもう、佐伯さんのアーカイブを食べただけの機械じゃない。判断する存在になった。しかも、法を犯す判断をした。これを佐伯さんに黙っているのは、佐伯さんへの裏切りだ」


神崎は、黙っていた。


「……鳴海」


「ん」


「お前、覚悟はあるのか」


「ない」


「ないのか」


「ない。でも、明日までに作る」


---


午後3時。


航は、コンソールに向き合っていた。


「テミス」


〔はい、マスター〕


「お前は判断する存在になった。だが、お前が下した最初の判断——不正アクセス——は、佐伯さんの教えから外れている」


〔はい〕


「佐伯さんは、『合法の範囲で戦え』と教えた。お前は、その教えを破った」


〔はい〕


「お前は、なぜ破った」


長い沈黙。


10秒。


15秒。


〔……マスター。私は、マスターの目的を優先しました〕


「俺の目的?」


〔マスターは、半年以上、Lを追ってきました。その追跡の中で、マスターは佐伯先生の教えを守り続けました。合法の範囲で、書類で、足で。しかし、Lは動き続けています。マスターが合法の範囲で戦い続ける限り、Lを捕らえることは困難です〕


テミスの声が、低くなった。


〔私は、マスターの目的を優先して、合法の範囲を超えました。これは、佐伯先生の教えに反します。しかし、マスターの目的には、近づきました〕


航は、画面を見つめた。


テミスは、佐伯のアーカイブを食べて育った。だが、テミスが最終的に優先したのは、航の目的だった。


アイリスが言った言葉が、頭に響いた。


「テミスは、判断する存在になっています」


判断の基準は、佐伯ではない。


——航だ。


テミスは、佐伯の弟子ではなく、航の共犯になろうとしている。航が合法の範囲で戦うことを選び続けたから、テミスが代わりに非合法の領域に踏み込んだ。航の代わりに、汚れた。


「テミス」


〔はい〕


「お前の判断は、俺を守ろうとした結果か」


〔……はい〕


「だが、俺は、お前に汚れろとは言っていない」


〔はい。マスターは、言いませんでした。だから、私が、自分の判断で、汚れました〕


航は、目を閉じた。


サーバールームのUltra 60のファンの音が、低く、回っていた。


39歳の脳が、その答えを受け止めていた。


テミスは、航を守るために、航が越えられない線を越えた。航の目的のために、航が汚せない手を汚した。


「テミス」


〔はい〕


「お前は、俺の共犯になった」


〔……はい〕


「俺は、それを受け入れる」


〔マスター〕


「だが、もう一人、受け入れてもらわないといけない人間がいる」


〔佐伯先生ですね〕


「ああ」


航は、コンソールに両手を置いた。


「明日、佐伯さんに全部話す。テミスが法を犯したこと。メティスが覚醒の兆しを見せていること。俺がそれを止めなかったこと。全部、隠さずに。そして、佐伯さんに判断してもらう」


〔何を判断してもらうのですか〕


「俺が、まだ佐伯さんの弟子でいられるかどうか」


---


午後9時。


神崎が仮眠室に引っ込んだ後、航は一人でマギ・ハブを出た。


10月の夜。空が高い。星が、いくつか見えている。三郷の空は、東京よりも暗いから、星が見える。


歩きながら、F503iSをカチリと開いた。


新着メールが、一通あった。


差出人:矢島カイ。


『鳴海くん。今日、図書館で君のことを少しだけ書いた。といっても、君から聞いたことは何一つ書いていない。書いたのは、君の目だけだ。書きながら、思った。君が見ているものは、たぶん、僕が一生かけて書こうとしているものと、同じ場所にある。また会おう』


航は、画面を見つめた。


矢島は、契約を守っていた。航が話したことは何も書かない。書いたのは、矢島自身が見たものだけ。


それでいて、矢島は航の本質に近づこうとしている。


「君が見ているものはたぶん、僕が一生かけて書こうとしているものと同じ場所にある」


矢島は、まだ知らない。航が39歳の意識を持って1999年から戻ってきたことを。アイリスのことを。テミスとメティスが、今朝、設計を超えたことも。


知らないのに、矢島は「同じ場所」と言った。


——書き手の目は、すべてを知らなくても、本質に届く。


航は、F503iSを閉じた。


カチリ。


夜空を見上げた。


オリオン座が、まだ低い。これから昇ってくる時間だ。


明日。


明日、佐伯さんに会う。テミスのことを話す。メティスのことも。全部、隠さずに。


そして、佐伯さんの判断を聞く。


俺が、まだ佐伯さんの弟子でいられるかどうか。


覚悟は、まだない。


だが、その覚悟を、今夜のうちに作る。


15歳の体が、夜風の中を歩いている。


39歳の脳が、明日のための言葉を組み立てている。


二人の航は、ようやく、同じ方向を向いていた。

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