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リ・プロンプト:1999 —10KBのメモリに宿る2026年の相棒AIと、失われた未来を再定義する—  作者: 青柳 玲夜(れーやん)
序章:神童編

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第44話「記録者の余白」

2001年10月23日。火曜日。三郷。自室。午前6時45分。


航は、目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。


天井が、薄く明るい。10月の朝の光。だが、昨日の朝とは違う質感だった。


昨日の朝は、布団の重さに耐えながら、F503iSの『L_contact_008』の通知を見ないことを選んだ。今日の朝は、何も選ぶ必要がなかった。テミスが既に動いている。山下健一の現在地を、機械が追っている。航がやるべきことは、ほとんどない。


——擬態を続けろ。


佐伯の言葉が、まだ頭の中に残っていた。


航は、布団から出た。


階下から、母の声が聞こえてきた。


「航ー! 起きてるー?」


「起きてるー」


声が、自分でも少し疲れているのが分かった。3時間しか寝ていない。マギ・ハブを出たのは午前2時過ぎだった。テミスを稼働させたまま、家に帰ってきて、シャワーも浴びずに布団に潜り込んだ。


15歳の体には、寝起きの重さがあった。だが、起き上がれないほどではなかった。3時間睡眠の翌朝でも、若い肉体は何とか動く。39歳の脳が、その余力を冷静に計算していた。


階段を降りた。


母が、味噌汁を温め直していた。


「あら、今日も早いのね。最近、調子いいの?」


「うん、まあ」


航は、食卓に座った。母の味噌汁。豆腐とわかめ。昨日と同じ。


一口飲んだ。


熱かった。


胃の底に、熱が落ちていく。


——温度がある。


昨日の夜、マギ・ハブで「ここには温度はない」と思った。今、その対比が体に染みた。家の中には温度がある。母の味噌汁には温度がある。階上の自分の布団にも、まだ自分の体温が残っているはずだった。


15歳の航は、その温度の中にいた。


39歳の航は、その温度の外にいた機械のことを、考え続けていた。


「学校、行ってきます」


「気をつけてね」


航は、玄関を出た。


10月の朝の空気が、頬に当たった。


---


通学路。


三郷の住宅街。いつもの道。電柱。自販機。誰かの家の犬。


航は、ポケットの中のF503iSを意識していた。


テミスから、まだ報告は来ていない。山下追跡の途中経過は、夜通しコンソール上で動き続けていた。航が家を出る直前まで、テミスは何かを処理し続けていた。


——まだ、追っている。


それだけは確かだった。


TXの工事フェンスが見えた。三郷中央駅の予定地。


昨日と同じ景色。だが、今日は少しだけ違って見えた。重機が動いていた。作業員が数人、フェンスの内側で何かを話している。月曜日は誰もいなかった現場が、火曜日の朝には動き始めている。


世界は、動いている。


航は、フェンスの向こうを見ながら、しばらく立ち止まった。


——俺も、動かなきゃいけない。


それは、昨日までの「動くと壊れる」という躊躇とは、少し違う種類の感覚だった。


歩き出した。


---


三郷市立皐月中学校。


校門で、佐藤健太が立っていた。


「お、鳴海」


佐藤が手を振った。


「おはよ」


「お前、今日は普通の時間だな」


「ああ」


「昨日は早かったから、心配したんだぜ」


「悪い」


二人で、校舎に向かって歩いた。


「鳴海。お前、寝てない?」


佐藤が、横から航の顔を覗き込んだ。


「目の下、隈になってる」


「3時間しか寝てない」


「マジか。何やってたんだよ」


「塾」


「お前、塾通いすぎだろ」


佐藤は、笑った。日焼けの落ちた顔。野球部を引退して2ヶ月。いつもの佐藤。


航も、少しだけ笑った。


3時間睡眠の体に、佐藤の声が遠かった。だが、その遠さが心地よかった。


——擬態を続けろ。


佐伯の言葉が、また頭の中で響いた。


---


午前中の授業。


数学。英語。国語。理科。


航は、ノートに数式を書きながら、頭の中ではテミスの追跡経路を組み立てていた。


山下健一は、市川市から江戸川区にかけての半径3キロメートルにいる。そのエリアの中に、山下の知人や親族がいるか。山下の登記情報、過去の住所、勤務先の関連情報。テミスがそれらを照合して、潜伏先を絞り込んでいるはずだった。


——今夜には、結果が出る。


15歳の手が、二次方程式を解いていた。39歳の脳が、別のことを考えていた。


その分裂は、もう航にとって珍しいことではなかった。


---


放課後、午後4時。


航はマギ・ハブに向かった。


サーバールームのドアを開けた。


——誰かが、いる。


それが、航の最初の感想だった。


椅子の背中が見えた。神崎だった。コンソールの前に座って、テミスの稼働ログを見ている。


「神崎」


航は声をかけた。


神崎が、ゆっくり振り返った。


「鳴海」


その目が、いつもと違った。睡眠不足ではない。何かを長い時間考えてきた目だった。


「千葉、行ってきたんじゃなかったのか」


「行ってきた。母ちゃんの通院、付き添ってきた。終わってから近くの喫茶店で、ダイヤルアップでマギ・ハブのログに繋いだ。テミスが一晩中、設計を越えて動いてた。気になって、すぐ戻ってきた」


「早いな」


神崎は、コンソールに視線を戻した。


「鳴海。お前、昨日の夜、テミスに山下の追跡を命じたのか」


「ああ」


「佐伯さんに相談せずにか」


「ああ」


神崎は、しばらく無言だった。コンソールの画面には、テミスが一晩中処理してきたログが流れていた。膨大な情報の照合。山下の登記、過去の書き込み、ティー・エス・プランニングの関連企業の動向。


「鳴海。これ、全部テミスが自分で組み立てた処理手順だ。俺たちが教えたことは、ほとんど含まれていない」


「分かってる」


「お前、いつから——」


そこで、神崎は言葉を切った。


「いつから、テミスをここまで動かすつもりだったんだ」


航は、椅子を引いて、神崎の隣に座った。


「マギ・ハブを建てた時から」


神崎は、画面を見たまま、何も言わなかった。


「神崎。お前は気づいていたか。俺がテミスにやらせようとしていたことに」


「気づいていた」


神崎の答えは、早かった。考える間もなく出てきた答えだった。


「いつから?」


「テミスを起動した日から。お前が佐伯さんに『あなたの30年をデータベースにしたい』と頼んだ日。あの時、お前の目は、データベースを欲しがる目じゃなかった」


「どんな目だった」


「弟子になりたがる目でも、知識を欲しがる目でもなかった。佐伯さんを、別のものに変換しようとする目だった」


航は、神崎の横顔を見た。


神崎は、画面から目を離さなかった。


「俺はそれを止めなかった。止める理由がなかった。お前のやり方は技術的には正しい。佐伯さんのアーカイブを機械で再現する。それは可能だ。実際、テミスはそこまで来た」


神崎は、一度言葉を切った。


「だが、鳴海。お前のやってることは、佐伯さんへの裏切りだぞ」


神崎は、ゆっくりとした声で言った。


航は、答えなかった。


39歳の脳が「裏切りだ」と言っていた。15歳の体が、その言葉を受け止めて、頷いた。


「分かってる」


それだけ答えた。


神崎は、それ以上何も言わなかった。


しばらくの間、二人とも、コンソールの画面を見ていた。テミスのログが、静かに更新され続けていた。


「鳴海」


「ん」


「俺はお前を止めない。だが、一つだけ言わせてくれ」


「言ってくれ」


「いつかお前が佐伯さん本人と向き合う日が来る。その時、お前はテミスのことを佐伯さんに話さなきゃいけない。話す覚悟が今のお前にあるか」


航は、目を閉じた。


——その日は、近い気がする。


なぜそう感じたのか、航には分からなかった。だが、近い。佐伯と直接向き合う日が、すぐそこまで来ている。テミスがここまで動いた以上、佐伯がそれに気づかないはずがない。佐伯は、机の上の小さな違和感も見逃さない男だった。


「覚悟は、まだない」


航は、正直に答えた。


「だが、その日までに、作る」


神崎は、頷いた。


「それでいい」


---


午後5時20分。


航はマギ・ハブを出た。


神崎は、まだコンソールの前にいた。テミスの追跡ログを、二人で交代しながら監視する体制になっていた。神崎は今夜、家に帰らずにマギ・ハブで仮眠を取ると言った。


航は、商店街に向かって歩いた。


10月の夕暮れ。日が短くなってきている。早稲田通り商店街。月曜日と同じ景色。だが、今日は山本電器の前を通り過ぎる予定だった。山本さんとの話は、昨日済ませた。今日は、別の人間に会いに行くつもりだった。


——会いに行く?


航は、自分の足取りに気づいて、立ち止まった。


会いに行く相手など、いないはずだった。今日の予定はマギ・ハブから真っ直ぐ家に帰るだけだ。15歳の体は疲れている。3時間睡眠の後の一日。早く寝るべきだった。


なのに、足が商店街の奥に向かっていた。


——図書館。


航は、その地名を頭の中で確認した。三郷市立図書館。昨日も寄った場所。矢島カイがいた場所。


今日も、矢島がいる気がした。


根拠はなかった。だが、確信に近い感覚があった。


航は、図書館に向かって歩き出した。


---


午後5時45分。


三郷市立図書館。


航は、2階の閲覧室に入った。


窓際の席に、矢島カイがいた。


昨日と同じ場所。同じ姿勢。原稿用紙とシャープペンシル。


矢島は、航が入ってきたのに気づいて、顔を上げた。


「鳴海くん」


矢島が、ペンを置いた。


「来ると思ってた」


航は、矢島の3つ離れた席ではなく、矢島の正面の席に座った。昨日とは違う距離。


「なんで来ると思った」


「分からない。でも、来ると思った」


矢島は、リュックサックから何かを取り出した。缶ココア。二本。


「飲む?」


矢島は、一本を航に差し出した。


「お前、二本買ってたのか」


「うん」


「俺が来ること、本当に予想してたんだな」


「予想じゃない。準備しただけ」


航は、缶ココアを受け取った。指先に、温かさが伝わってきた。自販機で買って、まだ間もない温度。


二人は、図書館を出て、近くの公園のベンチに移動した。10月の夕暮れだった。


ベンチに座って、缶ココアのプルタブを開けた。


一口飲んだ。


甘かった。温かかった。砂糖と乳脂肪と、少しのカカオ。


朝の母の味噌汁とは違う温度。だが、温度はあった。


矢島も、缶ココアを飲んでいた。


しばらく、二人とも何も言わなかった。


夕暮れの公園。子供が一人、ブランコを漕いでいた。母親が少し離れた場所で見守っていた。サラリーマンが一人、ベンチでタバコを吸っていた。


普通の三郷の夕方だった。


「鳴海くん」


矢島が、ぽつりと言った。


「ん」


「君は、まだ起こっていないことを見ている。そんな気がするよ」


航は、缶ココアを口に運ぶ手を止めた。


矢島の横顔を見た。


矢島は、航を見ていなかった。子供のブランコを見ていた。


「どういう意味だ」


航は、聞いた。


「分からない。でも君を見ているとそう感じる。君の目は、目の前の何かを見ているのに、同時にもっと先の何かを見ている。今ここにないものを、見ようとしている」


「気のせいだろ」


「そうかもしれない。でも、僕は気のせいで物を書かない」


矢島は、そこで初めて航を見た。


「鳴海くん。君のことを、書いてもいいかな」


航は、その問いを受け止めた。


15歳の航は、何を答えていいか分からなかった。


39歳の航は、その問いの重みを知っていた。


矢島は、観察者だった。観察したものを、文字にする人間だった。航のことを書く——それは、航を物語の中に入れることだった。


——書かれたいか?


航は、自分に問うた。


なぜか、答えはすぐに出た。


「いいよ」


航は、答えた。


「ただし、一つ条件がある」


「何?」


「俺について書いていいのは、君が見たことだけだ。俺の口から出た言葉は、書かないでくれ」


矢島は、しばらく考えて、頷いた。


「了解した」


それから、矢島は缶ココアを一口飲んだ。


「鳴海くん」


「ん」


「君は、何を見ているの?」


航は、答えなかった。


夕暮れの公園で、子供のブランコがゆっくりと止まった。母親が子供を呼んだ。子供が走っていった。サラリーマンが立ち上がって、駅の方向に歩いていった。


公園には、二人だけが残った。


「答えなくていい」


矢島が、言った。


「言葉にならないものを無理に言わせるのは、書き手の仕事じゃない。書き手の仕事は、言葉にならないものがその人の中にあることを、見届けることだ」


航は、矢島の言葉を聞いていた。


39歳の脳が、何かを理解した。


——この男は、観察者だ。


それは前から分かっていた。だが、今、その意味が少し変わった。矢島は、ただ観察するだけの人間ではなかった。観察したものを、書かないという選択もできる人間だった。


書くべきことと、書くべきではないことを、見分ける目を持っていた。


——書き手の余白。


航は、その言葉を頭の中で組み立てた。物語に書かれない部分。書き手があえて残す空白。その空白の中に、本当のものが宿る——という感覚。


なぜそんな言葉が頭に浮かんだのか、航には分からなかった。


だが、浮かんだ言葉は、消えなかった。


「矢島」


「ん」


「ありがとう」


「何が」


「ココアと、その質問」


矢島は、笑った。


「礼を言われることじゃない」


二人は、缶ココアを飲み終えた。


立ち上がって、公園を出た。商店街の角で、別れた。


---


午後6時30分。


航は、商店街を一人で歩いていた。


矢島と別れた後、何かが変わっていた。


何が変わったのか、航には説明できなかった。だが、確かに変わっていた。


足取りが、軽い。


朝の躊躇が、薄くなっている。


——なぜだ。


航は、自分に問うた。


答えはなかった。だが、感覚としては明確だった。矢島と話す前の航と、話した後の航は、同じではなかった。


矢島の一言——「君は、まだ起こっていないことを見ている」——が、航の中の何かを動かしていた。


それが何なのか、航は言語化できなかった。


歩きながら、ポケットのF503iSが震えた。


差出人:神崎亮。


『鳴海。テミスが新しい情報出した。山下健一の潜伏先候補、3つに絞れた。市川市内、江戸川区内、松戸市内。今夜、もう一段絞り込む』


航は、画面を見つめた。


——明日には、結論が出る。


そう思った。なぜか、根拠もなく、確信があった。


15歳の体が、その確信を受け止める。39歳の脳は、確信の出所を探そうとして、見つけられない。


航は、F503iSを閉じた。


商店街の角を曲がる。家に向かう道。


10月の夜空。少し曇っている。朝の冷たい空気は、夜の少し湿った空気に変わっていた。


航は、その空気の変化を、肌で感じる。


15歳の体は、まだ温度を持っていた。

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