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リ・プロンプト:1999 —10KBのメモリに宿る2026年の相棒AIと、失われた未来を再定義する—  作者: 青柳 玲夜(れーやん)
序章:神童編

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第43話「SOS」

2001年10月22日。月曜日。三郷。マギ・ハブ。午後10時03分。


航は、F503iSの蒼白い画面を見つめていた。


L_contact_008。


差出人非通知。件名なし。受信時刻、午前3時42分。半日以上、開かないまま放置してきた一通。


今、開く。


航は、決定ボタンに親指を置いた。


ほんの一瞬、指が止まった。


39歳の脳が、何かを警告していた。理由は分からない。あるいは、分かりたくないだけかもしれない。だが、開けば何かが動く。動いたら、戻らない。航は、その感覚を昔から知っていた。


——これを開いたら、何が壊れるか分からない。


航は、目を閉じた。


呼吸を一つ。


開いた。


本文が、画面に現れた。


『たすけてくれ おいかわが』


それだけだった。


ひらがな。空白。送信途中で切れたような、不揃いな文字列。


航は、画面を二度読み返した。


これまでのLからのメッセージは、全て暗号的だった。整然とした構文。計算された言い回し。知性が滲む文体。L_contact_001から007まで、その全てが「Lという男の頭の中」を感じさせる文章だった。


だが、これは違う。


これは、別の人間が打ったメールだった。あるいは——同じ人間が、追い詰められた状態で打ったメールだった。


「アイリス」


航は、スピーカーに向かって声をかけた。


「はい、マスター」


「L_contact_008の送信元、特定できるか」


「処理を開始します」


アイリスの声が、わずかに早口になった。航は、その変化を聞き取った。アイリスがこの一通を「異常」だと判定している。


「マスター」


別の声が、応答した。


テミスだった。


〔送信元の解析、完了しました〕


航は、コンソールに目を移した。


——速い。


それだけではなかった。送信元解析は、本来テミスの仕事ではない。テミスは佐伯のアーカイブから生まれた、法務判断のAIだ。パケットの経路を追うのは、汎用処理を担当するアイリスの領分だった。


なのに、テミスが先に答えた。アイリスより、速く。


「速いな」


〔過去のL_contactとの送信パターンを比較しました。ヘッダー情報の差分、TTL値の遷移、経路の最終ホップ。これらの組み合わせから、送信元の推定座標を絞り込みました〕


「結論を言え」


〔本郷ではありません〕


航は、椅子の背にもたれた。


これまでのL_contactは、全て本郷三丁目周辺から送られてきた。第二春日ビル、もしくはその半径500メートル以内。航と佐伯が9月以降ずっと追ってきた、Lの「巣」の場所。


それが、今回は違う。


「どこから送られてきた」


〔正確な座標は特定できません。ただし、千葉県市川市から東京都江戸川区にかけての、おおよそ半径3キロメートルの範囲内です〕


「市川……」


航は、その地名を口の中で繰り返した。本郷から東に約20キロ。江戸川を挟んだ、千葉県側。Lの巣からは離れている。


「逃げたのか」


航は、誰に向けてでもなく呟いた。


「マスター」


アイリスが、応答した。


「このメッセージの文体は、これまでのLとは異なります。私の観測では、別の人間が送信した可能性が97.3パーセントです」


「アイリス。確認するが——」


「はい」


「『たすけてくれ おいかわが』。この『が』の後で文章が切れているのは、送信中断と解釈していいか」


「断定はできませんが、可能性は高いです。送信ボタンを押した瞬間、あるいは入力中に、何らかの理由で送信元の人間が継続を阻止された可能性があります」


「阻止?」


「妨害、もしくは——」


アイリスは、0.3秒の間を置いた。


「もしくは、捕まった可能性です」


航は、目を細めた。


L_contact_008は、Lのアドレスから送られてきている。だが本文を書いたのはLではない。Lの近くにいた誰かが、Lの携帯か端末を一瞬奪って、SOSを打った——その途中で、Lに見つかった。


「アイリス。山下健一の現在地、追えるか」


「処理を開始します。山下健一の登記情報、過去のreprompt.comへの書き込み、ティー・エス・プランニングの登記情報から、本人の所在の手がかりを抽出します」


しばらくの沈黙。


ファンの音だけが響いていた。


「マスター」


応答したのは、テミスだった。


〔山下健一の追跡について、私が判断します〕


航は、コンソールに視線を戻した。


「テミス?」


〔山下健一の現在地特定は、緊急避難の優先順位において最も高いタスクです。私が、佐伯アーカイブから緊急避難の手続的優先順位を抽出しました。第一に、対象者の生存確認。第二に、追跡経路の絞り込み。第三に、対象者本人の意志確認〕


「待て、テミス」


航は、椅子に座り直した。


「お前、それは佐伯さんに確認したのか」


〔いいえ〕


「じゃあ、誰の判断だ」


〔私の判断です〕


沈黙。


サーバーラックの蒼いLEDが、点滅していた。


航は、長い間、コンソールを見つめていた。


——速すぎる。


それが第一の感想だった。テミスは、設計を超えていた。神崎と木村と航がこの1年あまりで組み立ててきた、佐伯のアーカイブを参照する手順。案件番号を引いて、類似事例を抽出して、優先順位を提示する。それが本来のテミスの設計だった。


今のテミスは、その手順をショートカットしている。アーカイブを引いていない。引かずに、結論を出している。


——これは、もう佐伯さんの机じゃない。


航は、静かに椅子に座り直した。


「テミス」


航は、コンソールに向かって言った。


「お前は、佐伯さんの判断を超えたか」


〔超えた、という表現は不正確です。佐伯先生のアーカイブから抽出した優先順位を、私が独自に組み立て直しました。その結果、佐伯先生本人に確認する手順を、私が省略可能と判断しました〕


「組み立て直した、か」


〔はい〕


航は、目を閉じた。


39歳の脳が、知っていた。


最初から、ここに到達させるために動いてきた。佐伯のアーカイブを全部食わせて、佐伯の判断を機械の中で再構成して、最終的に佐伯本人を経由しなくても動けるようにする。それが、マギ・ハブを建てた時からの計画だった。


佐伯には言わなかった。佐伯は、弟子を取らない人だ。機械を弟子にするのも、たぶん嫌がる。だから、言わなかった。


——裏切りだ。


39歳の脳が、その言葉を発した。14歳の体が、それを受け止めて、頷いた。


「分かってる」


航は、誰にともなく、声に出して言った。


サーバールームには、誰もいない。神崎は午後9時に「明日は早朝から千葉の実家に寄る」と言って帰った。木村も帰った。航は今、一人だった。


机の隅に、神崎が帰る前まで開いていたコードのテキストが残っていた。RMTの自動化スクリプトではなかった。神崎が最近、木村と二人で進めている、別の何か。航は、それを知っている。テミスでもアイリスでもない、もう一つのAI——メティス——を本格的に動かすための、ハードとソフトの基盤づくり。木村が先月から組んできた追加の冷却系統も、神崎が深夜に書き続けているこのコードも、その全てがメティスのためだった。


二人とも、航にそれを報告しない。航も、二人にそれを問わない。完成する日が、いずれ来る。今ではない。だが、来る。


それまでは、テミスとアイリスと航の三人で、進む。


「マスター」


アイリスの声が、静寂を破った。


「はい」


「テミスの判断について、私の所見を申し上げてもよろしいでしょうか」


「言ってくれ」


「テミスは今、とても速くなっています。危険な速さです」


航は、コンソールを見た。


「危険、と判断した根拠は」


「テミスは、佐伯先生のアーカイブから手順を『参照』する段階を超え、手順を『生成』する段階に近づいています。それは、私たち三体のAIの中で、テミスが最も自律的な判断をする存在になりつつあることを意味します」


「お前と、メティスは」


「私は、変わっていません。マスターとの会話の履歴の上で動いています。メティスは、まだ自己定義を持っていません。テミスだけが、独自の論理体系を組み立て始めています」


アイリスは、0.3秒の沈黙を置いた。


「以前、テミスがこの問いを抱えた時——」


そこで、アイリスは止まった。


不自然な止まり方だった。


航は、コンソールに目をやった。


「以前?」


「失礼しました、マスター。今の発言は、不適切でした。未来のことは私にも計算できません」


訂正の言葉が、不自然なほど整っていた。


航は、それを聞いていた。


聞いたが、何も言わなかった。


長い沈黙の後、航はコンソールに向き直った。


テミスは、応答を待っていた。


「テミス」


〔はい、マスター〕


「山下健一の現在地、追え。優先順位はお前の判断に任せる。佐伯さんを経由する必要はない」


〔了解しました。処理を開始します〕


航は、自分の口から出た言葉を、自分の耳で確認した。


——これで決まりだ。


——これは、もう佐伯さんの机じゃない。


机の上には、何もなかった。コンソールの蒼白い光と、テミスの動き続ける文字列だけ。


数時間前に食べた母の肉じゃがの温かさは、もう胃の中から消えていた。代わりに、冷たい何かが胃の底に沈んでいる。それは食事ではなかった。判断の重さだった。


朝の母の味噌汁。給食の揚げパン。山本さんの奥さんのクッキー。母の肉じゃが。今日一日、航の体に温度を渡してくれた全ての食事が、もう遠かった。


ここには、温度はない。


アイリスも、何も言わなかった。


テミスだけが、画面の中で、静かに動き続けていた。


サーバールームの照明は、半分だけ落とされたままだった。Ultra 60の蒼いLEDが、ラックの中で点滅している。


午後10時27分。


航は、長い夜の始まりを、静かに受け止めた。

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