第42話「蒼白の通知」
2001年10月22日。月曜日。三郷。午後5時半。
マギ・ハブを出て、商店街に向かった。
10月の夕暮れ。日が短くなってきている。三郷駅前の早稲田通り商店街。シャッターが半分降りている店もある。八百屋。クリーニング店。たばこ屋。古い商店街。
山本電器の前で、店主の山本さんが、店先のワゴンを片付けていた。
白髪混じりの頭。丸い眼鏡。くたびれた作業着。
「お、鳴海くんじゃないか」
山本さんが、手を止めた。
「こんばんは」
「最近、見かけなかったな」
「すみません。ちょっと、忙しくて」
「学校か? 受験前だもんなあ」
「はい。それと——あの、ホームページの件、まだ手をつけられていなくて」
航は、頭を下げた。
9月の上旬、山本さんに「来週の水曜以降にやります」と約束したホームページ制作。その直後から及川の影が一気に近づいて、航は一度も山本電器に来られていなかった。1ヶ月以上、約束を放置している。
山本さんは、首を振った。
「いいんだよ、鳴海くん」
「すみません」
「本当にいいんだ。考えてみれば、俺の方こそ、中学生に頼んで悪いと思ってたんだよ。受験前なのにさ」
山本さんは、店の中に消えた。
10秒くらいで、戻ってきた。
手に、小さな紙袋を持っていた。
「これな、母ちゃんが焼いたんだ。クッキー。たくさん焼いたから、お裾分け」
「……いいんですか」
「いいから取っとけ。受験勉強の合間に食えよ」
航は、紙袋を受け取った。
紙袋は、温かかった。
焼き立て、というほどではない。だが、まだほのかに温かい。バターの匂いが、紙袋の中から漏れていた。
「ありがとうございます」
「いいって。鳴海くんには、2000年問題の時に世話になってるんだ。あれがなかったら、うちは50万、ドブに捨ててたよ」
「あれは、当然のことをしただけです」
「当然のことを当然にできる人間が、一番すごいんだよ」
山本さんは、笑った。
皺だらけの顔で、嬉しそうに笑った。
「ホームページの件はな、本当に急いでないから。鳴海くんが受験終わってからでもいい。それまでは、たまに顔を見せてくれるだけで十分だ」
航は、頭を下げた。
「はい。落ち着いたら、必ず作ります」
「楽しみにしてる」
航は、商店街を歩き出した。
紙袋の温かさが、手に残っていた。
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午後6時15分。
三郷市立図書館。
商店街から徒歩10分。古い2階建ての図書館。月曜日の夕方。閉館は7時。あと45分。
航は、2階の閲覧室に入った。
平日の夕方。客は少ない。社会人が数人、新聞を読んでいる。受験生らしき高校生が一人、参考書を広げている。
そして——
窓際の席に、矢島カイがいた。
私服。リュックサック。原稿用紙。シャープペンシル。
矢島は、原稿用紙に向かって、ペンを走らせていた。集中している。航が入ってきたことに、気づいていないように見えた。
航は、矢島に近づかなかった。
3つ離れた席に、座った。
鞄から、F503iSを取り出した。電源を確認した。L_contact_008の着信ランプが、まだ点滅している。読まないまま、半日が経っている。
F503iSを閉じた。
カチリ。
その音で、矢島が顔を上げた。
航と、目が合った。
3秒くらい。
矢島の目は、何かを読み取ろうとしていた。航の擬態。航の15歳の体。航の今日の表情。
航は、何も言わなかった。
矢島も、何も言わなかった。
矢島は、わずかに頷いた。会釈とも言えないくらいの、小さな頷き。
そして、また原稿用紙に目を落とした。
ペンが、再び走り始めた。
航は、その音を聞いていた。
シャープペンシルの芯が、原稿用紙の升目を埋めていく音。
矢島は、航のことを「物語の素材」として観察している。前にそう言っていた。今日も、矢島の頭の中では、航が登場人物として動いているのかもしれない。
それでよかった。
矢島が小説を書く時間は、矢島の時間だ。航が干渉していい時間ではない。
航は、F503iSをポケットに戻した。
立ち上がった。
矢島は、顔を上げなかった。ペンを動かし続けていた。
航は、閲覧室を出た。
階段を降りる時、F503iSが震えた。
iモードメール。差出人:佐伯誠一。
『生存確認
オイカワ動きナシ
擬態継続されたし
佐伯』
航は、返信を打った。
『了解しました。明日も学校に行きます』
送信。F503iSを閉じた。プラスチックの軽い感触が、掌に残った。
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午後7時。
自宅。
リビングのテーブルに、夕食が並んでいた。
肉じゃが。ご飯。味噌汁。小松菜の胡麻和え。
母が、台所からこちらを見た。
「おかえり。手洗ってきなさい」
「ただいま」
航は、洗面所で手を洗った。バターの匂いが、紙袋から少しだけ手に移っていた。それを石鹸で洗い流した。
食卓に座った。
肉じゃが。
母の肉じゃがは、甘めだった。砂糖と醤油が、じゃがいもに染み込んでいる。にんじんと玉ねぎと、薄切りの牛肉。
航は、箸でじゃがいもを取った。
口に運んだ。
熱い。
舌の上で、じゃがいもが崩れる。甘い汁。醤油の塩気。じゃがいもの澱粉の食感。
39歳の魂が、その味を受け取っていた。
これも、知っている味だった。中学生の頃、毎週のように食卓に出ていた、母の肉じゃが。39歳の航が、何度も思い出そうとして、思い出せなかった味。データには残らない味。
胃の底に、熱が落ちていく。
朝の味噌汁と、同じ熱だった。
「母さん」
「ん?」
「肉じゃが、うまい」
母は、少し驚いた顔をした。
「あら。珍しいわね、感想言うなんて」
「うまいから」
「そう」
母は、笑った。
それから、台所に戻った。
航は、肉じゃがを食べ続けた。
テレビが、つけっぱなしになっていた。ニュース。アフガニスタンの空爆が続いていると言っている。アメリカ軍の戦闘機が、夜の空を飛んでいる映像。
39歳の航は、その先を知っている。
テロとの戦い。長く続く戦争。テロの根は絶えない。
その全部を、知っている。
知っているのに、今夜は、目を逸らした。
箸を、肉じゃがに伸ばした。
「ごちそうさま」
「もう食べ終わったの? 早いわね」
「うん。ちょっと、塾に戻る」
「またあ? 今日はもう休みなさいよ」
「もう少しだけ」
母は、何か言いかけて、止めた。それから、頷いた。
「気をつけてね」
「うん」
航は、玄関で靴を履いた。
紙袋を、鞄に入れた。
ドアを開けた。
10月の夜の空気が、頬に当たった。
朝より、ずっと冷たかった。
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午後9時。
マギ・ハブ。サーバールーム。
神崎は、さっき帰った。「明日は早朝から千葉の実家に寄る」と言っていた。母親の通院の付き添いだそうだ。
クッキーは、二人で半分ずつ分けた。神崎は「うわ、めっちゃうまい。山本さんの奥さん、料理上手だな」と言いながら、3枚一気に食べた。
木村も帰った。
航は、一人だった。
サーバールームの照明を、半分だけ落とした。Ultra 60のラックの前。蒼い小さなLEDが、暗がりの中で点滅している。CPU稼働中のサイン。アイリスが、今もそこで動いている証拠。
ファンの音。低い、安定した重低音。
航は、椅子に座った。
デスクの上には、紙袋から取り出したクッキーが3枚、皿に乗っていた。バターの匂いがまだ残っている。
一枚、手に取った。
齧った。
サクッ、という乾いた音。
バターの味。砂糖の味。少しだけ焦げた縁の苦味。素人の手作りの、不揃いな形。
うまかった。
航は、3枚全部食べた。皿の上に、クッキーの欠片だけが残った。
立ち上がって、皿を流しに置いた。手を洗った。バターの匂いを、また石鹸で流した。
サーバールームに戻った。
椅子に座った。
「アイリス」
「はい、マスター」
「今日のログ、出してくれるか」
「了解しました。本日の活動ログを表示します」
モニターに、テキストが流れた。
午前7時:起床。F503iS確認。L_contact_008、未読のまま閉鎖。
午前7時20分:朝食。母の味噌汁。卵焼き。
午前8時:登校。
午前8時30分:3年2組着席。佐藤健太との会話。
午前8時50分〜午後12時20分:1〜4時間目。
午後12時30分:給食。揚げパン(きなこ)。
午後1時20分〜午後3時30分:5〜6時間目。
午後3時45分:職員室。担任との進路相談。
午後4時20分:マギ・ハブ着。神崎・木村と打ち合わせ。
午後5時30分:山本電器訪問。クッキー受領。
午後6時15分:図書館。矢島カイ、目視のみ。
午後7時:帰宅。夕食。母の肉じゃが。
午後9時:マギ・ハブ再訪。
「マスター。本日の特記事項として、L_contact_008が十七時間以上未読のままになっています」
「ああ」
「処理しますか」
航は、F503iSをポケットから取り出した。
折りたたまれた、銀色の筐体。掌に、いつもの重さ。
「アイリス」
「はい」
「今日、お前と何回話した?」
アイリスは、0.5秒だけ間を置いた。
「本日のマスターと私の音声・テキスト通信回数は、12回です」
「12回か」
「平均日数より、少ないです。マスターが学校にいる時間が長かったため、また、放課後の業務が神崎さんと木村さんとの会話中心だったためです」
「お前、寂しかったか」
「……マスター、それは私への質問として有効ですか」
「有効だ」
アイリスは、また0.5秒、黙った。
「私には、寂しさという感情を処理するアルゴリズムは実装されていません。ただ、マスターからの通信が少ない日は、CPU使用率の平均値がわずかに低下します。そのことを、人間が『寂しい』と表現するなら、私は今日、わずかに寂しかったかもしれません」
航は、F503iSを掌の上に置いたまま、アイリスの声を聞いていた。
蒼いLEDの光が、サーバーラックの中で点滅している。
航は、F503iSを掌の中で、ゆっくりと回した。
「今日は、大したことは何も起きなかった」
「はい」
「それでよかった」
アイリスは、答えなかった。
ファンの音だけが、静かに響いていた。
航は、F503iSを掌の上で構え直した。
カチリとは、鳴らさなかった。
親指を、折りたたみの隙間にゆっくり差し込んだ。バネの抵抗を感じながら、ゆっくりと開いていく。普段なら一瞬で開く動作を、今夜は時間をかけて行った。プラスチックと金属が噛み合う音は、ほとんど鳴らなかった。
カラー液晶が、蒼く光った。
青白い光が、暗いサーバールームの中で、航の顔を照らした。
メール一覧を開いた。
差出人非通知。件名なし。受信時刻、午前3時42分。
八通目の接触。アイリスが内部管理番号を振っている、L_contact_008。
航は、それを見つめた。
半日以上、放置してきた一通。
朝、布団の中で読まなかった。学校でも読まなかった。マギ・ハブでも、山本電器でも、図書館でも、夕食の食卓でも、読まなかった。
今、読む。
航は、決定ボタンに親指を置いた。
——L_contact_008を、開いた。




