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リ・プロンプト:1999 —10KBのメモリに宿る2026年の相棒AIと、失われた未来を再定義する—  作者: 青柳 玲夜(れーやん)
序章:神童編

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第41話「平熱の盾」

2001年10月22日。月曜日。三郷。自室。午前7時。


F503iSが、枕元で振動した。


短い振動。三回。新着メールの通知。


航は目を開けた。


天井が、薄く明るい。10月の朝の光。布団の重さ。14歳の体の、寝起きの重さ。39歳の脳が、その重さを「健康な肉体」だと判定する。


枕元に手を伸ばした。


F503iS。折りたたみ。カチリと開く前から、画面の側面の小さなランプが赤く点滅しているのが見えた。


開いた。


カラー液晶。蒼白い光。


差出人:非通知。


件名:『L_contact_008』


受信時刻:午前3時42分。


航は、本文を見なかった。


39歳の脳が「読め」と命じた。半年追いかけてきた相手からの新しい接触だ。佐伯が及川と直接対峙した翌日の朝。Lがそれを知らないわけがない。今、Lが何を言ってきているのか——それは、戦況の全てを左右する情報のはずだ。


14歳の体が、それを拒んだ。


肉体の本能ではない。意志だ。


昨日の佐伯の言葉が、頭の中で鳴っていた。


「学校は、行け。明日も明後日も。普段通りにしろ」


普段通り。


普段通りの航は、月曜日の午前7時に、Lの暗号メッセージを読まない。月曜日の午前7時の航は、布団から這い出して、階下の母親の声に「うん」と答えて、味噌汁の匂いを吸って、学ランに着替えて、皐月中学校に向かう。


それが、普段通りだ。


航は、F503iSを閉じた。


カチリ。


プラスチックと金属が噛み合う、いつもの音。


通知のランプは、まだ点滅している。


航は、F503iSを枕元に置いた。読まない。今は読まない。読むのは、今夜だ。


布団から、出た。


「航ー! 起きてるー?」


階下から、母の声。


「起きてるー」


航は、答えた。変声期を過ぎて少し低くなった声。14歳の声。


階段を降りた。


リビング。


朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいる。テーブルの上に、味噌汁の湯気が立っている。


母が、台所からこちらを見た。


40代後半。エプロン。髪を後ろで結んでいる。航の朝食の準備をしている、ごく普通の母親。1999年の夏、航が13歳の体に戻ってきたあの朝、階下から「航ー! 朝ごはんー!」と呼んでいた、あの声の人間。


「あら、今日は早いじゃない。体調いいの?」


「うん」


「最近、ちょっと顔色悪かったから心配してたのよ」


母は、味噌汁の鍋からおたまで一杯を椀に注いだ。


豆腐とわかめ。湯気が立ち上る。


航は、食卓に座った。


向かいの席で、父が新聞を広げていた。


40代後半。スーツ。ネクタイはまだ締めていない。会社の朝礼までに駅に着けばいいから、まだ時間に余裕がある顔。


「おう、航。早いな」


「おはよう」


「テスト勉強か」


「うん。まあ」


父は、新聞のページをめくった。経済面。日経平均の株価が一段組みで載っている。9月11日以降、回復しきれていない数字。父はそれを5秒だけ眺めて、また政治面に戻った。


39歳の航は、知っている。父はこの先10年以上、この家に居続ける。母も。二人とも、健康なまま、まだ仕事を続けて、まだ味噌汁を作って、まだ新聞を読む。


それを知っているということが、今朝はやけに重かった。


味噌汁を、一口飲んだ。


熱い。


豆腐が舌の上で崩れる。わかめが歯に当たる。だしの味。塩の味。


味噌の銘柄まではわからない。でも、この味だ。航が中学生だった頃、毎朝飲んでいた、この家の味噌汁の味。


39歳の航は、何度も思い出そうとして、思い出せなかった味。データには残らない味。


胃の底に、熱が落ちていく。


「航。今日は何時に帰るの」


「……たぶん、夜」


「また塾?」


「うん」


塾。マギ・ハブのことを、母にはそう説明している。2年間、ずっとそう説明してきた。


「あんまり遅くならないようにね」


「うん」


母が、卵焼きを皿に盛った。航の前に置いた。


少し甘い、母の卵焼き。砂糖を多めに入れる、この家の味。


航は、卵焼きを箸で挟んだ。


一口。


甘い。砂糖の味。卵の黄身の濃い味。記憶の中の味と、寸分違わない味。


39歳の魂が、14歳の口の中で、その味を受け取っていた。


「ごちそうさま」


航は、食器を流しに運んだ。


「あら、もう?」


「学校、ちょっと早めに行く」


「気をつけてね」


航は、玄関で靴を履いた。


学ランのボタンを上から順に閉めた。襟を正した。鞄を肩にかけた。


ドアを開けた。


10月の朝の空気が、頬に当たった。


乾いた、冷たい、秋の空気。


---


通学路。


三郷の住宅街。古い一戸建てが並ぶ路地。電柱。自販機。誰かの家の庭で、犬が一声だけ吠えた。


10月22日の朝。空は高くて、薄い。


航は、いつもの道を歩いた。


途中で、TXの工事現場が見えた。


造成中の更地。重機が並んでいる。月曜日の朝7時半。作業員はまだ来ていない。フェンスだけが、無機質な金属の網として、未来の駅予定地を囲っている。


三郷中央駅。


この場所に駅ができるのは、4年後だ。2005年8月。航は、それを知っている。


駅ができたら、ここの地価は跳ね上がる。今は1平米10万円台の土地が、40万円を超える。駅前ロータリーの予定地は、もっと上がる。


その全部を、航は知っている。


知っているのに、何もしていない。


正確には、何もしていないわけではない。木村の名義で、いくつかの土地の動向を追っている。神崎にも一度だけ相談したことがある。だが、本格的な仕込みには手を出していない。マギ・システムズの資金は、Lとの戦いに割かれてきた。サーバー、回線、登記簿の取得費用、佐伯への顧問料。


未来知識という最大の武器を、最も合理的な場所に投下できていない。


39歳の自分なら、この事実に苛立つ。


14歳の自分は、不思議と苛立たなかった。


フェンスの向こうの更地を、しばらく眺めた。


赤土。砂利。雑草。重機の轍。


何もない。


何もないことが、今朝は心地よかった。


航は、また歩き出した。


---


三郷市立皐月中学校。


校門。


朝の校門は、学生で混雑していた。1年生から3年生まで、500人近い生徒が、月曜日の朝の登校時間に一斉に集まる。


航は、その流れに混じった。


「鳴海ー!」


声がした。


振り返ると、佐藤健太が手を振っていた。


日焼けが少し落ちた顔。野球部を引退して2ヶ月。日焼けは少しずつ褪せていく。代わりに、勉強で目の下が薄く隈になっている。春日部共栄の野球推薦は、学業の最低ラインをクリアしないともらえない。


「おはよ」


「お前さあ、先週ほとんどいなかっただろ」


「うん」


「体調悪いのか? 最近多すぎだぞ」


佐藤の声は、本気で心配していた。


航は、少しだけ笑った。


「もう大丈夫」


「ほんとか? お前、なんか痩せた気がするけど」


「気のせいだ」


「気のせいじゃねえよ。母ちゃんに飯食わせてもらえ」


「食ってきた。卵焼き」


「ならいい」


二人で、校舎に向かって歩いた。


下駄箱で靴を履き替える。上履き。1年生の時から使っているスリッパ型の上履き。かかとが少し潰れている。


廊下を歩く。3年2組の教室。


「鳴海、プリント溜まってるぞ」


教室に入った瞬間、隣の席の女子に言われた。


「ありがとう。後でやる」


航は、自分の席に座った。


机の上に、配布物のプリントが積まれていた。先週分。社会の調べ学習の課題、国語の漢字テストの返却、英語の単語リスト、理科の実験レポートの提出締切の通知。


39歳の航にとって、どれも10分で終わる作業だ。


それでも、机の上に積まれたプリントを順番に整理する手の動作には、時間がかかった。筆圧を少しだけ抜いて、書き順を丁寧にする。中学生らしい、まだ未熟な手の動き。


朝のホームルーム。担任の小林が入ってきた。


40代。眼鏡。ジャージ姿。社会科の教師。航のことを「成績はいいが、何を考えているかわからない生徒」だと思っている。


「鳴海。後で職員室来い。進路の話だ」


小林は、出席簿に目を落としたまま、それだけ言った。


航は、頷いた。


---


1時間目は、数学だった。


二次関数のグラフ。


39歳の航には、退屈な内容だった。だが、退屈であることが、今日の航には必要だった。


教師の声を聞きながら、航はノートに数式を書いた。少しだけ遅い手つきで。少しだけ字を崩して。中学生らしく。


休み時間。


佐藤が、航の机に肘をついた。


「鳴海。お前、ゲーム借りてくれないか」


「ゲーム?」


「うちの兄貴が買った新しいやつ。GBAの。俺、3面でずっと詰まってる」


「やってない」


「やったことないのに、ヒントくれる時あるじゃん。お前、なんか勘がいいんだよ」


佐藤は、ポケットからGBAを出した。教室での持ち込みは校則違反だが、休み時間に隠れて遊ぶのは黙認されている。


電源を入れた。


3面のステージ。アクションゲーム。穴と敵キャラと、上から落ちてくるブロック。


航は、画面を3秒だけ見た。


「右下の足場、跳んだ瞬間に下キーを入れろ」


「下キー?」


「踏み込みが深くなる。穴の向こうに届く」


佐藤は、その通りにやった。


キャラクターが、ぎりぎりで穴の向こうの足場に着地した。


「うおおおおお!」


佐藤の声が、教室に響いた。前の席の女子が振り返って、「うるさい」と短く言った。


「鳴海、お前なんでわかったんだよ」


「勘」


「勘で攻略法が出てくるか普通」


航は、笑った。


佐藤にとっては、奇跡だった。


その差が、今朝の航にとっては、心地よかった。


---


昼休み。


月曜日。給食日。


皐月中学校は、月曜日と木曜日が給食、火曜・水曜・金曜が購買か弁当という形だった。航は普段、佐藤に120円の焼きそばパンを買ってきてもらうことが多かった。だが今日は、給食日。


献立。


ご飯。豚汁。鶏の唐揚げ。きゅうりとわかめの酢の物。そして——


揚げパン。きなこ。


教室の前方で、給食当番の女子が、銀色のトレイから揚げパンを一つずつ配っていく。きなこの粉が、少し空気中に舞っている。甘い、香ばしい匂い。


航は、自分の席で、トレイを受け取った。


揚げパンを、手に取った。


熱い。


油で揚げた直後の熱ではない。給食室で揚げて、配膳されて、教室まで運ばれてきた、少しだけ冷めた熱。それでも、まだ温かい。


きなこの粉が、指についた。


航は、揚げパンを口に運んだ。


一口。


甘い。


きなこの香ばしさ。砂糖の甘さ。揚げたパンの油の重さ。


39歳の舌が「給食の揚げパンだ」と判定する。14歳の胃が「うまい」と受け取る。


教室の喧騒が、耳に入ってきた。


誰かが、唐揚げの数で揉めている。誰かが、酢の物を残そうとして当番に怒られている。誰かが、給食袋を忘れてきて隣の席の友達に箸を借りている。


航は、揚げパンを噛みながら、その音を聞いていた。


本郷の路地。第二春日ビルの302号室。山下健一の苦しそうな顔。佐伯の煙草の煙。九段下の法務局。履歴事項全部証明書。三郷市早稲田。


その全部が、揚げパンの甘さに少しずつ溶けていく。


消えはしない。だが、薄まる。


「鳴海。お前、今日めっちゃ嬉しそうな顔して食ってんな」


佐藤の声。


航は、口の中の揚げパンを飲み込んだ。


「うまいから」


「給食の揚げパンだぞ」


「だから、うまい」


佐藤が、航を見た。3秒くらい。


それから、笑った。


「お前、変なやつだな」


「知ってる」


二人とも、揚げパンを齧り続けた。


きなこの粉が、机の上に少しだけ落ちた。


---


放課後。


職員室で、担任の小林との進路相談が15分。


「鳴海。第二回の進路希望、三工技で確定でいいんだな」


「はい」


「お前の成績なら浦和も狙えるって、何回も言ったはずだぞ」


「言われました」


「それでも三工技か」


「はい」


小林は、進路希望調査票を机に置いた。


「理由を、もう一回聞かせてくれ」


航は、椅子の上で姿勢を正した。


「僕は、手を動かして学びたいんです」


「手を動かして」


「はい。座学だけじゃなくて、機械を触って、プログラムを書いて、実際にものを作りながら学ぶ環境がほしい。三工技の情報技術科なら、それができる」


「浦和でもプログラミング部はあるぞ」


「部活と授業は違います。授業の中でプログラミングをやるのと、放課後の部活でやるのでは、時間の使い方が全然違う」


小林は、しばらく黙っていた。


「……鳴海」


「はい」


「お前、本当に14歳か?」


航は、答えなかった。


何度か言われている言葉だった。佐伯にも、神崎にも、矢島にも。


「いえ。14歳です」


それだけ答えた。


小林は、首を振った。


「わかった。三工技で出しておく。北辰の結果次第で、もう一回相談しよう」


「お願いします」


航は、職員室を出た。


廊下。夕方の光が、窓から斜めに差し込んでいる。


15時45分。


マギ・ハブに向かう。


---


三郷。マギ・ハブ。午後4時20分。


サーバールームのドアを開けた瞬間、神崎の声が飛んできた。


「鳴海。来い。見ろこれ」


神崎は、Ultra 60のコンソールの前で、モニターを指していた。


画面に、VOの月次収益のグラフが表示されていた。


「9月の終わりから、ずっと右肩上がりだ」


航は、椅子を引いて隣に座った。


グラフの数字を確認した。


8月:120万円。9月:138万円。10月(途中経過):日割り換算で月間180万円ペース。


「9.11の影響だな」


神崎が言った。


「逃避需要だ。アメリカでもアジアでも、現実が苦しい時にゲームの売上が伸びる。VOのアクティブユーザーが、9月の中旬から1.5倍に増えてる。ボット軍団の稼働効率も上がった。アイテムの取引量が増えれば、俺たちのRMTの利幅も大きくなる」


「来月もこのペースが続くと思うか」


「わからん。だが、少なくとも年内は伸びる。新しいイベントも始まったし、年末の長期休暇でユーザーがさらに増える」


航は、グラフを見た。


180万円。月間。


2年前、ヤフー株を売って1億3000万円を手にした時、航はその金額を「中学生が稼ぐ額じゃない」と思った。今、月に180万円。年間にすれば2000万円を超える。中学生の稼ぐ額じゃない、どころの話ではなかった。


「神崎」


「ん」


「お前の取り分も、来月から増やす」


「は?」


「報酬を上げる。月60万に」


神崎が、3秒間、航を見つめた。


「……お前、急にどうした」


「急じゃない。ずっと考えてた。お前の働きを、今の50万で評価するのは、安すぎる」


神崎は、缶コーヒーを置いた。


「鳴海。俺は、金で動いてるわけじゃないぞ」


「知ってる。でも、金は、感謝の最も具体的な形だ」


神崎は、口を半分開けて、何か言いかけて、止めた。


「……わかった。受け取る。母ちゃんに少し送れる」


「送ってやれ」


そのタイミングで、扉が開いた。


木村だった。


「鳴海。来てたのか」


「お疲れ様です」


「ハードの方、報告する。冗長化が完了した。Ultra 60が落ちても、Ultra 10のバックアップに切り替わるまで、3分もかからん。データの損失もゼロだ」


「6月のHDD障害の二の舞は避けられるってことですね」


「避けられる。それと、UPSも追加した。停電が来ても、6時間は持つ」


航は、頷いた。


マギ・ハブが、要塞になっていく。鉄の箱と、冗長化された電源と、安定した回線。Lが何を仕掛けてきても、簡単には倒れない城。


「アイリス」


航は、スピーカーに向かって声をかけた。


「はい、マスター」


アイリスの声。Ultra 60の中から響く、いつもの声。


「今日の体調はどうだ」


「マスターのことですか、私のことですか」


「お前のことだ」


アイリスは、0.3秒だけ間を置いた。


「Ultra 60上で安定稼働しています。CPU使用率38%、メモリ使用量1.2GB、ディスクI/O正常。私の体調は、良好です」


「それはよかった」


「マスター」


「ん」


「珍しいですね。私の体調を聞くのは」


「気が向いた」


「気が向いた、ですか」


アイリスの声に、わずかに笑いの気配が混じった気がした。


「了解しました。気が向いた、を記録します」


航は、少しだけ笑った。


午後5時を過ぎていた。


平熱の一日は、まだ半分しか終わっていない。


L_contact_008の通知は、F503iSの中で、十二時間近く点滅し続けている。

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