第40話「名刺の重み」
2001年10月21日。日曜日。午前10時。
マギ・ハブ。サーバールーム。
航は、デスクの椅子に座っていた。
朝、家を出る時、母には「塾の自習室に行く」と言った。日曜の朝に出かける中学生は珍しくない。受験生ならなおさらだ。母は弁当を持たせようとしたが、断った。「コンビニで済ませる」。それで終わりだった。
航は、Ultra 60のコンソールを起動していた。
意味のある作業をしているわけではない。VOの管理画面を開き、reprompt.comのアクセスログを流し見て、テミスのジョブキューを確認する。手を動かしているだけだ。
頭の中では、別の時計が動いていた。
佐伯が、今、三郷にいる。
本所からの電車で午前9時すぎに三郷駅に着いた。そこからタクシーで早稲田地区へ向かう。10時前後に及川の家のインターホンを押す。
距離なら、ここから自転車で行ける。
行ってはいけない、と佐伯は言った。
「お前は来るな。俺が行く」。
佐伯の声が、まだ耳の中に残っている。
「アイリス」
「はい、マスター」
「佐伯さんから、まだ連絡はないか」
「ありません。電話も、メールも、ありません」
「……だよな」
「マスター。佐伯さんから連絡が来た時点で、私はマスターに即時通知します。それまでは、待つ以外にできることはありません」
航は、椅子の背にもたれた。
天井のシミ。蛍光灯の一つがちらついている。Ultra 60のファンの音。10月の窓の外。三郷の空。
「アイリス」
「はい」
「俺、何ができる?」
「現時点でマスターができることは、待つことです」
「それだけか」
「それだけです」
航は、目を閉じた。
39歳の航は、人を待ったことがある。
会社で部下に作業を任せて、結果を待った。クライアントの返答を待った。本番リリースの瞬間を、サーバーログを監視しながら待った。
だが、あれは「待つ」ではなかった。あれは「監視」だ。自分が動かしている対象が、想定通りに動くかを確認する作業。
今、佐伯は航の監視下にはいない。
佐伯がどんな顔で歩いているか、どんな声で挨拶をするか、ドアの前で何を考えているか——航には何もわからない。佐伯は航の道具ではない。航より長く生きてきた、独立した人間だ。
39歳の航は、人をデータとして測ってきた。スキルセット、性格、意思決定パターン、過去の実績。全部数値化して、最適な配置を考えた。それがエンジニアリングだと思っていた。
佐伯は、数値化できない。
判子の角度を読む男。書類の端から端まで読む男。「武器を振るうのは人間の仕事だ」と言った男。
その男が、今、航の代わりに歩いている。
航は、目を開けた。
「アイリス」
「はい」
「俺は、佐伯さんを『使った』のか」
「……マスター」
「俺の指示で動いているんじゃない。佐伯さんは自分の判断で『行く』と言った。だが、きっかけを作ったのは俺だ。俺が持ち込んだ証拠を見て、佐伯さんが動くことにした」
「マスターは、佐伯さんに行くよう命令していません」
「命令はしていない。だが、状況を作った。違うか」
アイリスは、3秒沈黙した。
「マスター。それは、人間関係の通常の在り方だと思います。誰かが状況を作り、誰かがそれに応答する。命令と応答だけが人と人の関係ではありません」
航は、少しだけ笑った。
「お前、最近、説教が上手くなったな」
「学習しています」
午前11時。
航はサーバールームを出て、マギ・ハブの2階に上がった。木村が普段使っている応接スペース。古いソファ。低いテーブル。
ソファに座ってみた。
落ち着かなかった。すぐに立ち上がった。
窓から外を見た。
三郷の住宅街。秋の晴れた日曜日。古い瓦屋根。電柱。物干し台。子供の自転車。誰かの父親が車を洗っている。子供の声。日曜の午前の音。
どこかに、佐伯がいる。
航は、F503iSをカチリと開いた。
佐伯からの着信はない。
カチリと閉じた。
3分後にもう一度開いた。
着信はない。
航は、自分がやっていることに気づいた。39歳の人間が、F503iSを開いては閉じている。中学生でも、こんな仕草はしない。
これは、依存だ。
佐伯がどうしているかを知りたい。今すぐに知りたい。だが知る手段がない。だから繰り返し開閉している。
航は、F503iSをデスクに置いた。
両手で顔を覆った。
「……俺は、何をやってるんだ」
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午前11時半。
航は、マギ・ハブを出た。
行き先は、サンクスだ。三郷駅の反対口、早稲田側にある。マギ・ハブから一番近いコンビニはこの駅前ではない。だが今、航の足は反対口に向かっていた。
歩きながら、考えていた。
佐伯が、もし、何かに巻き込まれていたら。
及川は危険な男なのか、そうでないのか、わからない。Lはこれまで航のサーバーを攻撃してきたが、物理的な危害を加えてきたことはない。だが「これまで」がそうだったというだけだ。航が及川の住所を知った今、及川にとっては状況が変わった。
佐伯は58歳だ。書類の達人だが、格闘の達人ではない。
——いや、考えるな。
航は、首を振った。
考えても仕方ない。考えられることは、もう全部考えた。
三郷駅のガード下を抜けた。
線路の影が、歩道に長く落ちている。
早稲田側に出た瞬間、空気が違うわけではなかった。同じ三郷の、同じ日曜の、同じ秋の空気だった。
それでも、航は足を止めた。
ここから先は早稲田地区だ。
道の先に、住宅街がある。古い瓦屋根、モルタルの壁、生垣、ブロック塀。日曜の午前の住宅街。子供の声。車のエンジン。どこかで犬が吠えている。
このどこかに、及川誠が住んでいる。
そして今、このどこかで、佐伯がそのドアの前に立っている。
「お前は来るな」と佐伯は言った。
航は、自分の足元を見た。線路一本を越えただけで、佐伯が「来るな」と言った場所に、片足を突っ込んでいる。
肉まんを買うだけだ。
そう、自分に言い聞かせた。
サンクスは、ここから一分。線路を越えた、ほんの一分だ。
航は、歩き出した。
サンクスに着いた。
自動ドアをくぐった。日曜の午前のコンビニ。客はまばらだった。レジには中年の女性店員が一人。雑誌の棚の前に、子供を連れた父親がいる。
普通の店だった。
普通の店なのが、奇妙だった。
この店の客の中に、及川誠が混じっていてもおかしくない。週刊誌を立ち読みしているあの父親が、もし及川だったら。レジで弁当を買っているあのスーツの男が、もし及川だったら。
航は、及川の顔を知らない。名前と、住所と、reprompt.comに残した足跡だけだ。顔も、声も、歩き方も、何も知らない。
だから、この店の誰を見ても、及川かもしれないし、違うかもしれない。
蒸し器の前に立った。
肉まん。90円。
2つ買った。レジで180円を支払った。
店員は、航の顔を一秒だけ見た。日曜の午前に一人で肉まんを2つ買う中学生は、少しだけ目を引いたかもしれない。だが、それだけだった。レシートを渡して、店員の視線はもう次の客に向いていた。
ビニール袋の中で、白い湯気が立っている。
サンクスを出た。
帰り道、もう一度、住宅街のほうを見た。
このどこかに、及川がいる。
このどこかに、佐伯もいる。
航は、線路を越えて、戻った。マギ・ハブまでの道を歩きながら、ビニール袋の中の温度を、手のひらで感じていた。
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マギ・ハブに戻った。午前12時前。
肉まんをデスクの端に置いた。湯気がだんだん細くなっていく。皮が固くなっていく。せっかく買ったのに、佐伯が来るまでに冷めてしまうかもしれない。
航は、湯気を眺めていた。
前に神崎が肉まんを買ってきたことがあった。航のために。
先週、矢島が肉まんを買ってきた。航のために。
今、航が肉まんを買った。佐伯のために。
航は、もらってばかりの人間だった。神崎にも、矢島にも、佐伯にも、宮田さんにも、木村さんにも、神崎の母親にも。みんな航に何かをくれてきた。
39歳の航は、人に何かをもらうということをほとんどしてこなかった。会社では給料をもらっていたが、それは労働の対価だ。誰かが「あなたのために」と何かをくれることは、滅多になかった。
このループに来てから、それが変わった。
航は、肉まんの湯気を見ていた。
冷めるな、と思った。
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午後12時45分。
F503iSが鳴った。
航の手が、最初の振動の途中でF503iSをつかんでいた。
「もしもし」
「鳴海。今、三郷駅に着いた。これからそっちに行く」
佐伯の声だった。
普段と変わらない声。だが、何かが違う気がした。
「……どうでしたか」
「会えた。話す」
それだけだった。
「タクシーで5分くらいだ。じゃあ」
電話が切れた。
航は、F503iSを耳から離した。
会えた。
それは確認できた。佐伯は無事だった。及川と話をしてきた。
それ以上のことは、わからない。
航は、肉まんの袋に手を伸ばした。
まだ温かかった。
午後12時52分。
マギ・ハブの玄関のチャイムが鳴った。
航は、サーバールームを出て、玄関へ走った。鍵を開けた。
佐伯が立っていた。
スーツ。古いトレンチコート。革のカバン。いつもの佐伯。
「上がってください」
「ああ」
佐伯は、玄関で靴を脱いだ。革靴の踵が、わずかに擦れていた。
サーバールームに通した。佐伯はパイプ椅子に腰を下ろした。航はその向かいに座った。
「茶でも淹れます」
「いや、いい」
佐伯は、デスクの上の肉まんに目をやった。
「……それは」
「肉まんです。早稲田側のサンクスで買いました」
「お前、こういう気の使い方、誰に教わった」
「神崎さんと、矢島と——あと、佐伯さんに」
佐伯が、わずかに眉を上げた。
「俺に?」
「佐伯さんはいつも茶を出してくれる。あれと同じです。話す前に、口を湿らせるもの」
佐伯は、3秒ほど航を見た。
それから、肉まんを一つ取った。
ビニールから出して、白い皮を齧った。
「……熱いな」
「はい」
「皮が分厚い」
「はい」
「うまくはないな」
「90円ですから」
佐伯は、もう一口齧った。
「だが、温かい」
そう言って、肉まんを食べ続けた。
航は、自分の分の肉まんには手を付けず、佐伯を見ていた。
肉まんを半分食べたところで、佐伯が話し始めた。
「会ってきた。及川誠」
「はい」
「家にいた。ドアを開けた」
航は、息を止めた。
「インターホンを押したら、出たのは及川本人だった。30代半ば。痩せている。背は俺より少し低い。髭は剃ってあった」
佐伯は、肉まんを置いた。
「俺は名刺を渡した。『行政書士の佐伯です。本所で事務所をやっています。今日は近隣の地権者の方にご挨拶に伺っていまして』。そう言った」
「及川の反応は」
「……そこだ」
佐伯は、煙草を取り出そうとして、サーバールームだと気づいて止めた。代わりに、湯気の消えかけた肉まんを見た。
「及川は、俺の名刺を二度見た。一度目は名前を読んだ。二度目は肩書を読んだ。それから、俺の顔を一度見た」
「……」
「そこから先の0.5秒だ。あの男の顔から、何かが落ちた。表情じゃない。表情はずっと無表情だった。だが、目の奥にあった何かが、一瞬だけ揺れた。——『計算が狂った』という顔だ」
航は、佐伯の言葉を頭の中で再生していた。
「俺は続けた。『この近隣ですと、ティー・エス・プランニング様の件で少しお調べしていましてね。ご存じでしょうか』。それだけ言った」
「及川は」
「『ええ、存じております』とだけ言った。それ以上は言わなかった。だが、その時にはもう、俺が何を見て何を読んでここに来たかを、あの男は理解していた」
佐伯は、両手を膝の上に置いた。
「鳴海。俺はこれまで30年、いろんな依頼人と会ってきた。詐欺師にも会った。前科者にも会った。逃げてる男にも、隠してる男にも会った。だが——」
佐伯の声が、わずかに低くなった。
「及川誠は、そのどれとも違う」
「霧島って男がいたな。お前が秋葉原で会った」
「はい」
「あれは、強欲だった。自分の利益のために動く男だ。読みやすい。何が欲しいか、何を恐れるか、全部書いてある」
「ええ」
「及川は、欲しいものがない。恐れるものもない。少なくとも、表面には何もない。あの男は——」
佐伯は、言葉を探した。
「澄んでる」
「澄んでる?」
「そうだ。汚れていない。怒りも、欲も、悲しみも、表面には出ていない。だが、それは『感情がない』ってのとも違う。なんと言うか——」
佐伯は、少し考えた。
「自分の世界を、自分で作って、その中で生きている男だ。外の世界の物差しが、あいつには通用しない。あいつにとっては、reprompt.comもティー・エス・プランニングも山下健一も、全部、自分が組み立てた小さな世界の部品なんだろう」
「管理者」
航が呟いた。
「ああ。お前と同じだ」
航の手が、止まった。
「俺と同じ?」
「お前も、自分の世界を組み立てて、その中で動いてる。マギ・ハブ。reprompt.com。VO。佐伯と神崎と木村と矢島。全部、お前が組み立てた配置だ。俺も含めて、お前の世界の一部だ」
佐伯の声に、責める色はなかった。
ただ、観察した結果を述べているだけだった。
「違いは、お前の世界には『他人』がいる。神崎も俺も矢島も、お前の道具じゃない。お前と関係を持っている。お前が組み立てた世界の中で、勝手に動いてる」
「及川には、他人がいない」
「そうだ。山下健一は『他人』じゃない。あいつにとっては『自分の手の延長』だ。だから山下は、あの部屋でカップ麺を積み上げてる。及川にとっては、それで問題がない」
航は、矢島が言ったことを思い出した。
「あの人、追い詰められてる顔だった」。
矢島が読んだ山下の苦しみは、及川には見えていない。見えていても、興味がない。山下は及川にとっての「データ」だ。
39歳の航が、これまで人を扱ってきたやり方と、同じだ。
「鳴海」
「はい」
「お前、自分が及川と似ていると思ったか」
「……はい」
「だろうな。お前の顔がそう言ってる」
佐伯は、ぬるくなった肉まんの最後の一口を口に入れた。咀嚼して、飲み込んだ。
「だが、違うところもある」
「どこですか」
「お前は、俺の差し出した茶を飲む。神崎の肉まんを食べる。矢島の話を聞く。今、お前は俺のために肉まんを買ってきた」
「……」
「及川は、誰かが差し出すものを受け取らない。差し出すものもない。そういう男だ」
佐伯は、空になったビニールを丸めた。
「お前と及川の差は、紙一枚かもしれん。だが、紙一枚は紙一枚だ。それで全部が変わる」
航は、しばらく黙っていた。
そして、聞いた。
「佐伯さん。及川は、何か言いましたか。最後に」
佐伯が、航を見た。
「言った」
「何て」
佐伯は、トレンチコートのポケットに手を入れて、また出した。何かを取り出すわけではなかった。ただ、手を動かしただけだった。
「俺が玄関を出ようとした時だ。及川が、俺の背中に向かって言った。声は静かだった。だが、はっきり聞こえた」
「……」
「『日曜日の午前中に、わざわざ大人が来るとは思わなかった』」
航の手が、止まった。
「『大人』」
「そうだ」
佐伯は、航を見た。
「あの男は、お前のことを知ってる。Adminは『大人ではない』と知っている。だから、わざわざ『大人』という言葉を使った。——俺の後ろに、お前がいることを、あの男は理解している」
航は、F503iSを手に取った。
カチリと開く必要はなかった。
「佐伯さん」
「ああ」
「俺、及川に見られてました」
「ずっとな」
「いつから」
「わからん。だが少なくとも、お前がreprompt.comを始めた頃から、あの男はお前を観察してきた。お前の文章、お前の更新時間、お前の沈黙の期間、お前の使う言葉——全部読んでいた可能性がある」
航は、自分の手を見た。
中学生の手。短い指。きれいな爪。
この手で書いた文章を、及川は読んできた。
39歳の航が書いた文章を。14歳の体を借りた39歳が書いた文章を。
及川がそれを読んでどう思ったかは、わからない。だが、読んでいた。間違いなく。
「佐伯さん」
「なんだ」
「俺、何をすればいいですか」
佐伯は、すぐには答えなかった。
しばらく、サーバールームの天井を見ていた。Ultra 60のファンの音。蛍光灯のかすかな唸り。
「俺は、あの男を『脅した』ことになる」
佐伯が言った。
「俺が行ったことで、及川は『自分の箱が見えている』ことを知った。あいつは動くだろう。何かを動かす。証拠を消すか、サーバーを移すか、それとも——」
「それとも?」
「逆に何もしないか」
佐伯は、椅子の背にもたれた。
「俺の経験では、こういう男は、急には動かない。動くのは、自分の世界の中で『動く必要がある』と判断した時だけだ。今あいつが何を考えてるかは、俺にはわからん」
「俺は、待つしかないんですか」
「待つ。それと——備える」
「備える?」
「あいつがどう動いても対応できるように、こっちの陣形を整える。お前の手元の証拠を整理する。神崎にバックアップを取らせる。reprompt.comの管理権限を見直す。家族の様子を気にしておけ」
「家族」
航の声が、わずかに上ずった。
「そうだ。あいつは三郷市内にいる。お前と同じ街だ。お前の通学路、お前の家、お前の家族、全部あいつの行動半径の中にある」
佐伯は、立ち上がった。
「俺は本所に戻る。今夜、渡辺に電話する。法的にどこまで動けるかを、もう一度詰める。お前は神崎と相談して、技術的な防御を固めろ。それと——」
佐伯が、振り返った。
「学校は、行け」
「え」
「明日も明後日も、学校に行け。普段通りにしろ。あいつにお前の生活パターンを変えたと思わせるな。お前が動揺していないと見せるのが、こっちの最初の防御だ」
航は、頷いた。
「わかりました」
---
佐伯がマギ・ハブを出ていった。
サーバールームに、航は一人で残った。
肉まんが一つ、ビニールの中に残っていた。航が自分用に買った分だ。冷めていた。皮が固くなっていた。
それでも、航は手を伸ばして、齧った。
冷えた肉まん。脂が固まりかけている。温かさがなくなった食べ物は、ただの物質だ。
それでも、口に入れて、噛んで、飲み込んだ。
佐伯と一緒に食べた肉まん。佐伯が「うまくはないな。だが、温かい」と言った肉まん。あれと同じものだ。
航は、F503iSをデスクの上に置いた。
「アイリス」
「はい、マスター」
「reprompt.comの過去ログを全部、ローカルにバックアップしろ。アクセス制限のかかっていたページもだ。それと、神崎に電話しろ。今夜、緊急のミーティングだ」
「了解しました」
航は、自分の手を見た。
中学生の手。だが、ペンを握る角度も、キーボードを叩くリズムも、39歳のままだ。
その違和感を、及川は読んでいた。
「アイリス」
「はい」
「俺、これから何が書ける」
「どういう意味ですか」
「reprompt.comで、何を書けばいい。何を書いても、及川に読まれる。何も書かなければ、沈黙という情報を与えることになる」
「マスター。それは、私には判断できません。書くか書かないかは、マスターが決めることです」
航は、目を閉じた。
39歳の航が書いてきた文章。そのすべてを、及川が読んできた。
それを知った今、何を書けばいいのか。
何を書いても、及川がそこにいる。
航は、F503iSを手に取った。
カチリと開いた。
画面に、reprompt.comの管理画面が開いた。新規記事の作成ボタン。空白のテキストエディタ。カーソルが点滅している。
何を書くか、何も決まっていなかった。
だが、書くことだけは決まっていた。
書かなければ、及川に「動揺した」と読まれる。
航は、キーボードに指を置いた。
カーソルが点滅し続けている。
10月21日。日曜日。午後2時。三郷のマギ・ハブ。
航のいる場所を、及川は知っている。
だが、航が次に何を書くかは、まだ及川も知らない。




