第38話「残響」
2001年10月17日。水曜日。本郷三丁目駅。午後3時。
丸ノ内線のホームで、航と矢島は並んで立っていた。
「約束通り、聞かせてよ」
矢島が言った。
航は、話した。
全部は話せない。Lの正体候補も、テクノウェーブの特許も、ティー・エス・プランニングの名前も出せない。
だから、こう話した。
「俺がWebサイトを運営している。アクセスが増えてきた頃から、匿名で嫌がらせをしてくる奴が現れた。サーバーに負荷をかけて落とそうとしたり、行政機関に嘘の通報をしたり。俺はそいつの正体を追っている。さっきのビルは、その手がかりだ」
矢島は、黙って聞いていた。
「山下さんは、そいつの部下みたいなものだ。直接の犯人じゃない。でも、裏にいる人間に繋がっている」
「裏にいる人間って」
「名前はわかってる。でも、顔を見たことがない」
矢島は、しばらく黙っていた。
電車が来た。乗り込んだ。座席に並んで座った。水曜日の午後3時。車内は空いていた。
「鳴海くん」
「ん」
「さっきの部屋で、山下さんのデスクに名刺があったよね。白い名刺」
航は、矢島を見た。
「見えたのか」
「見えた。鳴海くんが名刺を見た瞬間、目の動きが変わったから。それで僕も見た」
航の目の動きを読んでいた。作家の目。
「あの名刺、角が折れてた」
「……角?」
「名刺入れの中に、他の名刺と一緒に入ってた。でも、あの白い名刺だけ、角が丸くなってた。何度も触ってる。ポケットに入れたり出したりしてる。もらったばかりの名刺じゃない」
航は、窓の外を見た。
「お守りみたいに持ってるんだと思う。山下さんにとって、あの名刺の人は——上司とか取引先とかじゃなくて、もっと近い誰か」
航は黙った。
矢島が読んだのは、名刺の角の摩耗。航は名刺の文字を読んだ。矢島は名刺の物理的な状態を読んだ。
佐伯が「判子の角度で人間を読む」と言ったのと同じだ。矢島は名刺の角で人間を読んだ。
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三郷駅。午後4時半。
改札を出た。10月の午後。風が冷たくなり始めていた。
「鳴海くん、ちょっと待って」
矢島が、駅前のコンビニに入った。30秒で出てきた。手に、肉まんが2つ。
「はい」
「俺が奢るつもりだったんだが」
「いいよ。90円だし」
航は、肉まんを受け取った。
二人で、駅前のベンチに座った。
肉まんを齧った。皮が厚い。中の肉は少ない。コンビニの肉まん。90円。2026年なら倍近くする。この時代は、まだ安い。
だが、温かかった。
山下の部屋にはカップ麺の空き容器が積まれていた。冷えた部屋。切れた蛍光灯。一人の男が、誰かに「頼まれて」、やめられない仕事を続けている場所。
今、航の手の中にあるのは、矢島が買ってきた肉まんだ。
90円。安い。だが、誰かが買ってきてくれた食べ物と、一人で食べるカップ麺は、違う。
「矢島」
「ん」
「今日はありがとう。助かった」
矢島は、肉まんを頬張りながら、笑った。
「面白かったよ。小説のネタ、3話分はある」
「3話分か」
「うん。山下さんの部屋だけで1話。鳴海くんの話で1話。あと——」
矢島は、航を見た。
「鳴海くんが名刺を見た時の目。あれだけで1話書ける」
航は、肉まんの最後の一口を飲み込んだ。
「俺の目がどうした」
「あの瞬間だけ、鳴海くんの目は14歳じゃなかった」
航は、何も答えなかった。
矢島も、それ以上は聞かなかった。
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午後5時。マギ・ハブ。
神崎がいた。
「おかえり。どうだった」
航は、ジャケットを脱いで椅子に座った。
「302号室に入った。山下健一と話した。サーバーラック2台。モニター3台。SSH接続のターミナルが3つ開いてた。受託開発の事務所じゃない」
「SSHの接続先は」
「5分間、モニターが見えた。ターミナルの文字列を覚えている。だが、IPアドレスの全桁までは読み取れなかった」
航は、F503iSをカチリと開いた。
「アイリス。302号室のモニターに映っていたSSHターミナル。俺の記憶を元に、接続先のIPアドレスを復元しろ」
「了解しました。……マスター、1つのIPアドレスについて、部分的な復元が可能です。上位3オクテットまで確認できました」
「どこだ」
「埼玉県内のプロバイダです。東京ではありません」
航の手が止まった。
「埼玉?」
「はい。地方ISPの固定回線です。都内のデータセンターではなく、一般家庭または小規模事務所の契約です」
神崎が、画面を覗き込んだ。
「山下のサーバーが、埼玉の一般回線に繋がってる? 本郷のビルから?」
「ああ」
「及川の自宅か」
航は、黙って画面を見た。
山下のサーバーは本郷にある。だが、そのサーバーは埼玉に繋がっている。
Lの城は本郷。だがLの生活は——
「神崎。及川の現住所を特定する。明日、九段下に行く」
「また法務局か」
「ティー・エス・プランニングの履歴事項全部証明書。先月取った時は設立時の情報しか取らなかった。履歴事項なら、役員の変更登記が全部出る。及川が監査役を退任しているなら、退任時の住所が載っている」
「印紙代は」
「1,000円だ」
航は、佐伯に電話をかけた。
F503iSをカチリと開く。
3コール。
「……鳴海か」
「はい。報告があります」
「手短にしろ」
「302号室に入りました。山下健一と話しました。『頼まれてる。やめられない』と言っていました」
佐伯の沈黙。3秒。
「そうか。……それと」
「何ですか」
「看板は見たか」
航は、一瞬詰まった。
「……見ました。302号室のプレートは『山下システム開発』でした」
「お前が前に行った時は何だった」
「ネクストウェーブ」
「変わってるな。——意味はわかるか」
航は、考えた。
「及川がネクストウェーブの名前を消している。山下個人の屋号に変えさせて、法人との繋がりを切り離そうとしている」
「そうだ。及川は動いてる。お前が302号室に行ったことを知っているかどうかは別として、看板を変える程度の準備はしている。——時間がないぞ」
「わかっています。明日、九段下に行きます。履歴事項全部証明書を取ります」
「それだけか」
「……他に何を取るべきですか」
佐伯が、煙草を吸う音。
「ネクストウェーブの登記簿も取れ。山下が代表の法人だ。ティー・エス・プランニングとの住所の重複、役員の重複を確認しろ。2枚を並べて読め。1枚だけで見えないものが、2枚並べると見える」
「わかりました」
「それと、鳴海」
「はい」
「302号室に連れて行った中学生。あいつはどうだった」
「……使えました。俺が見落としたものを見てました」
佐伯が、少しだけ笑った気配がした。
「そうか。——だが、あいつをこれ以上巻き込むな。ここから先は書類の仕事だ。中学生の仕事じゃない」
「わかっています」
電話を切った。
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午後10時。マギ・ハブ。サーバールーム。
航は、Ultra 60のコンソールの前に座っていた。
「アイリス。SSHの接続先の3オクテットから、プロバイダを特定しろ。地域を絞り込め」
「了解しました。……マスター。該当するプロバイダは、三郷市を含む埼玉県南東部をカバーする地方ISPです。サービスエリアは三郷市、八潮市、吉川市、松戸市の一部」
三郷市。
航の住む街。マギ・ハブがある街。
Lの生活は、本郷ではなく、三郷にある。
「明日の法務局で及川の住所が取れれば、照合できる。SSHの接続先のIPアドレスと、登記簿の住所。両方が三郷を指していたら——」
「Lは、マスターの隣人です」
アイリスの声が、静かに響いた。
航は、窓の外を見た。
10月の夜。TXの工事フェンスの向こうは暗い。街灯が、更地の端を照らしている。
この街のどこかに、及川誠がいる。
毎朝、航が学校に行く道のどこかを、Lも歩いているかもしれない。
航はF503iSをカチリと閉じた。
明日。九段下。登記簿2枚。2,000円。
及川誠の住所を、紙の上に引きずり出す。




